みんな、忙しすぎませんかね?~しんどい時は仏教で考える。

  • 大和書房
3.40
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本棚登録 : 125
レビュー : 17
  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784479393283

作品紹介・あらすじ

『NHK100分de名著』出演の僧侶 VS 人気お笑い芸人
異色の往復書簡で、笑いながら仏教の思考回路が身に着く!

「友達って必要?」
「苦手な人」
「努力は報われる?」
「運を考える」
「孤独について」
「家族について」
「心を強くする」
「死んだらどこに行く?」

などなど…全24題目 に、二人が回答を書き交わし、違う角度から光を当ててくれます。
するする読めて、いつの間にかラクになり、教養が身につく本です。

ぜひ気になる項目だけでも読んでみてください。
二人の視点を比べてみても、視野が広がること間違いなしです。

感想・レビュー・書評

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  • 僧侶で宗教学者の釈徹宗さんとお笑い芸人の哲夫さんの往復書簡。人生に行き詰まってどうしようもない人が答えを求めて読む本というよりも、お気楽に、暇つぶしに読むといいかも。そもそも人生の悩みに明確な答えはないのだし、お2人も、そんな大風呂敷を広げるのではなく、考え方を提供するというスタンス。これが縁なのか、哲夫さんは後日、釈さんの勤める相愛大学の客員教授に就任した。攻めるな相愛大学。

  • この本も哲夫さんの人柄がよく出てたなぁ〜〜。
    ええ人やなぁ。
    ええ人って何❓
    自分に素直な人。。。かな❓
    わからんけど。

  • 久しぶりに肩の力が抜ける本。

    高齢化社会になって、死とは何か、考える人が多くなった。
    やはり、殆ど宗教について考える事がない日本人は、最期に惑うだろう。孤独死、とは言うが、死とはそもそも孤独であり、それとどう向き合うか。

    考える契機にどうぞ。

  • 2020年 2冊目。
    仏教を通して新しい視点があり、笑い飯・哲夫さんのコメントにはほんと笑ってしまった。

  • この本を読んで思うことは、明確な答えを示さないのが仏教なんだなと思います。
    ブッダの教えには多くのヒントがあり、また訳や解説も様々です。読むこと、教えられることで何かに気付き、フッと楽になることもあります。

    ・仏教は“運”という概念に拠らない
    ・「犀の角のようにただ独り歩め」だけど、仲間がいたら共に歩めという件
    ・認識と現実のズレに気づき、感情を捨てるということ
    ・苦手を克服できない人を避難しない、しがらみから逃げようとするんじゃなくて、しがらみに関心を持ち向き合うこと

    など役に立ちました。
    同じ方向に向かう仲間を見つけるのって難しいですよね。
    いつか出会うんだろうと期待せずに独り歩んでいきたいと思います。因縁生起ですから。その他自己分析するところはやっぱり仏教は科学だなと思います。

  • これはきっと自分なりの理論や答えを探している人が己の考えの足がかりを作るために読む本であって、私のようにある種の悟りというか諦めを手に入れた人間が読んでも、そうですか、それは良かったですね、と相槌を打つのが手一杯になってしまうのです。
    日常生活で怒ったり、他人に苛ついたり、そういうことが少ないので(人生に対する諦めだと思っています)、私にはnot for meだったのです。

  • 忙しすぎる現代人に、わかりやすく仏教の教えを説いてくれる本。わたしたちが忙しいのは、内在の時間が縮んでいるから、という言葉にはっとさせられた。外部の時間が余っていても、内在の時間が縮んでいると、感覚的には忙しいし、イライラする。内在の時間を延ばすために、たまには長い時間の流れの中で生きよう。法要などの宗教儀礼に参加したり、瞑想する時間をつくったり。「人生思うようにいかないのが当たり前。執着を手放して苦悩を減らす」をモットーにこれからも精進します。

    p53
    “運”の良し悪しって、全部後付けなんですよね。振り返ってみて、「運が良かった」「運が悪かった」と判断するわけです。その意味においては、起こった出来事をどう自分なりに消化するか、引き受けるか、という心の営みが“運”の正体だとも言えるでしょう。「なぜこの事態になったのか」に対する意味づけの一種です。

    一方、「これから運気が上がるだろう」とか「下がるだろう」なんて、予見として“運”の概念が活用されることもありますね。それは心の方向をどこへ向けるかといったスキルのひとつでしょう。「運をつかむ」「運の流れに乗る」というのも同様です。これもある種の意味づけです。

    p55
    そんなわけで、仏教では基本的に“運”という概念には拠りません。因果の法則が基本的立場だからです。因果の法則とは、この世界の存在や現象は原因と結果の関係で成立しているという道理です。仏教は“縁起”と呼ばれる独特の因果律に立脚します。仏教最大の特徴です。縁起とは、因縁生起の略です。原因に縁って生起する、という意味になります。

    悪い行為や思考は、悪い結果をもたらす。それが悪因悪果。良い行為や思考は、良い結果をもたらす。それが善因善果、これをまとめて因果応報と言います。“運”で存在や現象を解釈せず、“縁起”で解釈するということです。

    p82
    こうして考えてみますと、仏教では「孤独の自覚」と「つながりの喜び」の双方が説かれていると思います。双方説かれているところが重要なのだと思います。右腕に「孤独の自覚」、左腕に「つながりの喜び」を抱えながら、生き抜いていくのが我々の人生なのではないでしょうか。

    p94
    私たちは、自分がどんな生命観・死生観に拠って人生を歩んでいるかについて、真面目に向き合っていかねばならないんじゃないでしょうか。

    p107
    (前略)仏教には如実知見といって、物事を自分の都合を通さずに見ることを目指します。われわれは、自分の都合で現実み歪めて認識してます。そしてそこに苦しみが発生すると考えるわけです。とにかく、気が付いたら歪んじゃってるんですよねえ。なかなか仏教の教えを実践するのは難しいです。
    そもそも、仏教ってなかなかスッキリさせてくれないでしょう(笑)。「あ、わかった」って思う瞬間も時々あるんですよ。でも、「あ、わかった」って思った瞬間に、なんか別の考えが、「いや、そうと違うねん」って言うて来るような仕組みになってて、いつまで経っても楽にさせてくれない。いわば、心と体をいつも鍛錬し続けてくれる。仏教にはそんな不思議な特色があると思います。

    p116
    釈尊は「私は業論者であり、行為論者であり、精進論者である」と語っています。ですから、「自死した方がずっと楽だ」と思えるほど生きるのが苦しくても、忍辱と精進の姿勢で精一杯生き抜くのが基本となります。また、たとえ自死しても、その業は自分で背負っていかねばならないのです。命を断ったからといって、すべてを精算することはできません。次の生が待っていますから。宗教というのは、今生だけの問題じゃありませんからね。
    “生きることは、すなわち苦悩である”“われわれの人生は苦しいことがデフォルトである”、そう考えるのが仏教の第一歩です。ですから、仏教の教えの中には、自死へと傾斜してしまう人がいる事態を理解し、そのことに痛みと哀しみを感じている心情を読み取れる気がします。
    生きることが苦しくて苦しくて、自死を選ぶ人がおられる。そして誰もが簡単に、その状況に陥る可能性をもっている。しかし、その苦悩を背負って生き抜くことを説き、さらに仏道を歩めばかならずその苦悩を引き受けることができると説いています。

    p127
    中世の念仏者・親鸞聖人は、生きる方向性が異なる人からは、「つつしんで遠ざかれ」と説いています。同じ方向を向いて生きる人と歩みを共にするのは、私たちにとって大きな喜びです。しかし、向いている方向が違う人もいます。そういう人からは「離れろ」ということです。離れるのが仏教の基本的態度となります。
    まあ、「離れたくても、同じ職場なんだからどうしようもないよ」という人もいるでしょうが、そこは精神的に離れるように工夫してみましょう。哲夫さんの手法である、「この人のことめちゃめちゃ嫌いやけど、今だけやし」、「そのうち腹立たんようになるんやし」とやり過ごしています、といった態度はかなり参考になると思います。そして、堪忍(耐え忍ぶ、他者を許す)の実践を心がけましょう。

    128
    仏教はとてもクールな宗教ですので、「つきつめれば、人は独りで生きて、独りで死んでいかねばならない」ことを強調します。このことを本当にしっかりと自覚することができれば、むしろイヤな人や嫌いな人ともつき合えるわけです。だって、所詮独りだ、と理解しているのですから。この理解の上で、おつき合いするのです。ということは、好きな人とおつき合いする時も同じになってきます。どれほど好きな人がいても、“つきつめれば独り”なんですね。「愛別離苦」です。これも避けることができません。

    独りで生きる覚悟というのは、自我を肥大させて、自分勝手に生きろということではありません。逆です。とてもはかない人間関係だからこそ、みんなで大切に扱わなければならないのです。すべての存在も現象も、刻々と流れていきます。だからこそ、自ら手を添えてケアするのです。

    p135
    もちろん仏教は自業自得の立場に立つのですが、それは迷いの世界でのことなんです。「惑・業・苦」という展開(自分の都合である「惑」から「業」が生じ、「苦」が生じる)です。これを「戒・定・慧」へ(仏教の教えに導かれ、自分の都合を調えて、智慧へと至る)と転換するのが仏教の本業です。

    p141
    仏教でも、お釈迦様への敬慕の念が仏塔崇拝を生み出しました。お釈迦様は入滅後、荼毘に付され、その遺骨は八つに分配されたと言われています。その後、仏舎利を納める塔が数多く建てられました。いわばお釈迦様のお墓ですね。そこには今も数多くの人々が訪れています。こういうものをストゥーパと言います。ストゥーパは古代インドのお墓や塚です。日本語では卒塔婆と訳されています。仏塔への参拝は、お墓参り的意味合いもあるのです。

    p151
    一般的なイメージとして、戒名や法名や法号は亡くなってからつけるとのと考えられがちですが、これはおそらく諡号(生前の功績を讃えて、死後に贈られる名前)と融合した形態なのでしょう。戒名も法名も法号も生前に授かるのが本来の在り方です。戒名も法名も法号も、どんなものを受けるかということよりも、「仏教者としての名前を受けるところ」が重要な点です。

    p152
    ちなみに、浄土真宗の法名でも、基本形は釋(釈)○○の三文字になっています。これは宗祖が「釋親鸞」を名乗ったことに由来します。浄土真宗では生きている間に「法名」をいただく人が少なくありません。縁のあるお寺さんにつけてもらえばいいだけの、シンプルなものです。本願寺派では、本願寺で帰敬式と呼ばれる儀礼を受ける時にも法名が授けられます。

    p161
    つまり、外部の時間をいくら余らせても、内在の時間が縮んでいたら、感覚的には忙しいし、イライラするんですよね。だからその内在の時間をどう延ばすかが、現代人の課題なんじゃないかと僕は思うんです。そうしないと、ものすごく不寛容な、許せない社会にどんどんなっていってしまう。そして、この時間を延ばすための人類史上最大の装置は宗教儀礼なんだと思うんですよ。

    p173
    おおざっぱに言いますと、「無明」と呼ばれる盲目的な欲動・真理から始まり、認識が生じ、執着が生じ、そして「老死」という根本的な苦悩。このように苦悩が生じることを順番に観じていくことを順観と言います。そして、無明が断たれれば、認識・執着も断たれ、ついには苦悩も断たれると観じていくことを逆観と言います。こうして、順観と逆観を繰り返し行っていく道筋として十二因縁の教えがあるわけです。


    p174
    いずれにしても、「この苦悩はなぜ生じるのか」を徹底的に分析する態度がもともとの仏教の手法です。そのやり方は超クールです。冷徹なまでの分析手法です。オートマチックに、無明→執着→苦悩という連鎖になってしまっているのを、ひとつひとつ分析・確認していきます。
    その一方で、禅のように直観手法を発達させた仏教体系もあります。こちらは、思考や言葉も超えるような直観を重視します。

    p199
    快・不快に支配されている限り、苦悩を解決することはできない、そう仏教では教えます。
    仏教では、「認識の枠組みが強ければ強いほど、苦も強度を増す」と考えます。“自分というもの”の濃度が濃ければ濃いほど、苦悩の淵は深くなるのです。
    そりゃそうです。認識に柔軟性がなければ、認識と現実との落差は大きくなりますし、補正することも困難になりますから。「こうでなきゃならない」と思っている人ほど、そうならないことに苦しむというわけです。「親ならこうしてくれそうなものなのに」とか、「わが子ならこのくらい気がつきそうなものなのに」とか、「ご近所ならこうすべきだ」などという認識の枠組みを強く持っている人は、結局、人間関係に苦しむことになります。「他者は裏切る。信用できるのはお金だけだ」などという枠組みで生きている人は、お金の問題で汲々とするわけです。「お金なんてそのうちどこかから回ってくるんじゃないの」などと落語に出てくるような考え方をしている人は、少なくともお金に関する苦しみは少ないわけです。美しい容姿が自分の拠りどころである人は、老いていく ことが他の人よりずっと苦しいはずです。
    いずれにしても、「調子に乗る」という快の状態に振り回されてはいけません。それはやがて苦悩へと転化します。「調子が悪い」という不快の状態に振り回されてもいけません。それは一時的状態なのですから。

    p227
    仏典には、「もの惜しみの心を抑えて、汚れに打ち克って、施布をなせ」(「相応部」)と説かれています。布施は手に握ったものを放すトレーニングであり、自分の中に発生する「執着」を薄めるためのトレーニングです。
    この執着こそ、苦悩を生み出す原因です。「執着」が強ければ強いほど、苦悩も大きくなりますし。だから、「執着」を小さくするために、日々、手放すトレーニングを実践するわけです。
    「布施」と言えば、「お坊さんに支払うお金」といったイメージがあると思いますが、執着から離れるための実践なんですね(後略)。

    p237
    「気になっているのに見て見ぬふりをする」のが、一番具合悪いと思います。その意味においては、苦手を克服することには大きな意義があります。

    ひとつひとつの自分の行いを丁寧に観察して、どの行いも軽んじることなく、いつもひとつひとつの行為に配慮と点検を行う。仏教はそのことの大切さを説いています。

    p239
    苦手を克服した経験は、つい「あいつは苦手を克服する努力をしない」などと考えてしまいがちです。そして自分の成功体験を押しつけてしまうこととなります。しかし、その成功体験は決して“唯一の正しい道”ではないのです。苦手が克服できない人だってたくさんいます。自分が克服できたのだって、たまたまかもしれません。
    仏教を学んでいると、「自分が正しいと思った瞬間から見えなくなるもの」について気づくようになりますよ。

  • 仏教とはほとんどの日本人においてきっても切り離せない生活の一部として根付いているのではないだろうか?私自身は、仏教徒ではないが仏教が文化や言語にとても強く関連していると答えている。一周忌などの供養などは必要ないと思うけれど、もうそれが当たり前のことのようになっているから私自身ではどうすることもできない。私たちのような新しい世代はきっとこういった供養というのは今後もう省いていくのではないかなと思う。
    さて、本の中に自殺は罪だとか育ててくれた親や家族に対する冒とくだとかいったページがあったが、私はそうは思わない。精神疾患を患っている人たちの苦労を傍で仕事をしていて何よりも知っているし、人は考える余裕や時間がなくなると自分たちの考えられるキャパシーも偏ってくる。だから、その時点でそういった機関に助けを求めることもパワーがなくできなくなっていることもある。最近亡くなった、三浦春馬さんもきっとキャパシーを超えて頼りたくてももう頼る力がなかったんじゃないかなと思う。寂しいし残念な気持ちはあるが、決して命を無駄にしてなんて怒りの感情は持つべきではない。カトリックはまた別ですが、ほとんどのアメリカ人やましてヒンズー教の人たちもこういった自殺でなくなった人に対しての怒りの感情というのは全くありません。親からいただいた命ではあるが、自分を生かしているのは誰でもなく自分自身であり、自分が決めること、誰にも指図されたくない。
    他にも、頭をかしげるようなページがあったのですが、それは仏教徒やヒンズー教の人たちはクリスチャンやムスリムのように報復などはしない。これは、ちゃんちゃら嘘もいいとこですね。昨今では、ミャンマーのロヒンギャ族がいい例でしょう。仏教徒がムスリムに対して行っている殺人を見ていて、それでも報復はないといえるのでしょうか?それにインドでもムスリムとヒンズー教徒との反乱や暴動はめずらしいことでもなんでもない。普通に起きていることです。例えば、ヒンズー教のお嫁さんがムスリムの旦那さんと結婚するとなるとお嫁さんもムスリムに宗教を変えます。彼らの結婚式では、ヒンズー教のプロテストがきて暴動を起こします。それは逆の場合にも同じ。一つの宗教がより良くて他の宗教が悪いなんてのは絶対にありえないし、そんなことをいう宗教人を私は認めません。

  • 釈氏が書かれてますし、仏教を扱ってますが、 全く堅苦しくなく、生活のこんなところも仏教と結びついているんだな、としみじみ思える本。なかなか生活の中で仏教を感じることはありませんが、ほんと、タイトルのようにしんどい時仏教で考えてみるのもいいかも、と思えてきます。別の道を開かせてくれそうです。

  • 軽い語り口だけど、わかりやすくて奥深い。二人の言葉にヒントがたくさんある。

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著者プロフィール

如来寺住職/相愛大学副学長・人文学部教授。

1961年大阪府生まれ。大阪府立大学大学院博士課程修了。専門は宗教思想。NPO法人リライフ代表も務める。『落語に花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』(朝日選書)で第5回河合隼雄学芸賞を受賞。著書に『親鸞の思想構造 比較宗教の立場から』(法蔵館)、『法然親鸞一遍』『天才 富永仲基 独創の町人学者』(新潮新書)、『いきなりはじめる仏教生活』(新潮文庫)、『NHK100分de名著 歎異抄』『NHK100分de名著 維摩経』『NHK宗教の時間「観無量寿経」をひらく 』(NHK出版)など多数。

「2020年 『NHK出版 学びのきほん お経で読む仏教』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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