我的日本語 The World in Japanese (筑摩選書 6)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (220ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480015037

作品紹介・あらすじ

日本語の書き言葉には、緊張感がある。島国の感性を記すために大陸由来の漢字を受け入れ、かな文字を生み出し、独自の書き言葉をつくってきた。日本語を一行でも書けば、誰しも日本語成立の歴史を否応なく体現する。英語を母語としながら、周辺言語にすぎない日本語で創作する作家のまなざしに寄り添い、日本語の魅力をさぐる。自伝的日本語論。

感想・レビュー・書評

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  • リービ英雄は、17歳の時父の仕事の関係で来日し、初めて日本語にふれる。日本語を母語としない彼が、日本語の響きや、文字の美しさにひかれながら、自ら日本語でエッセイや小説を書き綴るようになるまでの過程を描いた著作。英語を母語とする彼はまずは『万葉集』の英語訳という仕事を研究者として行っていたが、それには飽きたらず、自ら日本語で表現しようということに目覚めていく様子を描く中で、日本語を母語とする者では見過ごしがちな日本語の魅力を再発見することができる一冊。

  • 日本語を日本語として意識して使っている人と、無意識に使っている人両方にお勧め\(^o^)/

  • ★3.5

    英語が母語で、日本語とのバイリンガルで、しかも日本語の書き言葉についての造詣の深さに感銘。

    特に印象に残った箇所は20ページの以下の部分:
    「ぼくは英語ならタイプを打つが、日本語のワープロは使わない。一度試みたことがあったが「変換する」という行為が嫌いだった。ローマ字か仮名で打ち込み、ボタンを押してその軸を選ぶ、そのことにすごく引っかかってしまう。自分で文章をかきながら、感じか平仮名か片仮名を、選ぶ。そこに日本語の、いい意味での不自然さが入っていると思う。」

  • エッセイを集めたような本である。ちくまの冊子を集めたのかもしれないが記載されていない。文学色は少し薄れて誰でも読める文章になっている。中国のことをもっと書いてもらっても面白かったと思う。

  • 面白かったです

  • テーマはいくつかある。いくつか挙げると、リービ氏の日本語体験、日本語の書記体系、母語と外国語で書く作家たち、など。

    【目次】
    目次 003-006

    第一章 はじめての日本語 009
      新宿へ、新宿から/日本語の世界に身を投げ出す/「ぼく」と「おれ」のあいだ/時代とともに変わる/「混じり文」の美しさ/書き言葉の中の「異質」/言葉の問題から文学の問題へ/家出人の「しんじゅく」/東アジア的文化生命の終焉/日本語を潜り戸にして/拒絶反応/日本語で書きたい/日本語の所有権/中上健次との出会い/読めば、書きたくなる/日本人に読んでもらいたい

    第ニ章 「万葉集」の時代 043
      翻訳は創作/大和路を歩く/万葉の想像力/『万葉集』の世界に入り込む/平安中心主義を超えて/誰も登ったことのない山/人麿となり、憶良となって人麿の天皇礼讃と挽歌/憶良渡来人説/大陸の感性を、島国の言葉で/バイリンガル・エクサイトメント/長歌の頂点/「公」の存在の、「私」の感性/人麿の抒情性/人麿が、ぼくの前に現れた/映像的イメージ/イメージの力で対峙する/当時の最先端/時間を孕む/漢字の渡来/万葉仮名/漢字文化圏の問題/文字以前の無意識の記憶/翻訳の力/近代以前の天皇像/枕詞

    第三章 日本語とアイデンティティ 097
      日本語をつかんで/「在日文学」の日本語/新しい在日文学/言葉の杖/言葉と民族/李良枝からの電話/文化は誰が所有するのか/新しい言葉/狭間そのものの中へ/母語の外へ/言葉そのものの生命/言語固有の歴史を抱きしめて/日本語の勝利

    第四章 幻の大陸 125
      日本と中国の往還/三十年の時間が消える/失われた大陸/公の歴史の場で、私的な記憶がよみがえる/日本語で書く必然/日本語は亡びるのか/安部公房の満州/大庭みな子の北米/近代国家と近代国家の隙間/「マオ」の中国の終わり/近代化の波にさらされて/漢字の変貌/「欧米対日本」の構図の外へ

    第五章 9・11を語る日本語 151
      「逆漱石」の時代/江沢民の自由/千年紀城市のユダヤ人/がいじんが、がいじんではなく、なった。/逆の越境/その火曜日に世界が変わった/アメリカに似た場所で/アンチ・ミラクル/千々にくだけて/芭蕉のエネルギー/言葉が別の命を吹き込まれる/日本語の歴史から新たな日本語が生まれる/日本語で世界を描く/文明と文化/日本語に翻訳できるか/言葉を武器にして/言葉の歴史が現れる

    第六章 言葉の歴史を意識して 189
      体験し、表現を見つける場所/中国の体験を日本語で表現する/仮の水/同じ文字の異なる音、異なる意味/アメリカから切り離されて/マテリアル・ワールドにさらされた魂/「仮名」は偽文字?/周辺の言葉で中心を表現する/日本語で書けるのか/真名と仮名/屈折にも似た緊張感/「大人性」が消える/異言語から新しい表現が生まれる/さらに奥へ/排除される前近代/言葉の歴史を意識する

    あとがき [219-220]



    【抜き書き】

    □pp.20-21
    日本語を書く緊張感とは、文字の流入過程、つまり日本語の文字の歴史に否応なしに参加せざるを得なくなる、ということなのだ。誰でも、日本語を一行書いた瞬間に、そこに投げ込まれる。それは、中国人もアメリカ人もフランス人も、意識せずに済む緊張感だ。
     〔……〕
     ぼくは英語ならタイプを打つが、日本語のワープロは使わない。一度試みたことがあったが、「変換する」という行為が嫌だった。ローマ字か仮名で打ち込み、ボタンを押してその字句を選ぶ、そのことにすごく引っかかってしまう。
     自分で文章を書きながら、漢字か平仮名か片仮名かを、選ぶ。そこに日本語の、いい意味での不自然さが入っていると思う。
     平仮名で書くのと漢字で書くのとでは、ずいぶん違う。しかしその使い分けができるところが、日本語の豊かさでもあると思う。「選択」という過程が常にある。文字のかたちそのもの、文字の種類を選ぶという選択は、決められ与えられた英語や中国語にはない。他の言語には、ボキャブラリーの選択があるだけだ。
     中国人はよく日本人は神経質だと言う。しかし、それは国民性というものではないだろう。ぼくは国民性というものを、ほとんど信じていない。あらかじめ備わった国民性ではないのだが、日本語を書くとき、書き言葉のなかに異質なものがあり、異質なものを常に同化するという経験をする。それが、心のはたらきに影響しているのかもしれない。
     「異質なものを同化させる」ことによって成り立っているエクリチュール、常にその中で生きなければいけないというのは、決して、ストレートに生きるということではない。それで、日本人は神経質に見えるのではないか。そのような、妙な文化論すら浮かび上がってくる。
     この三十年間、日本語を書き続け、ぼくもすっかり日本型ノイローゼを生きるようになった。しかもそれは、結果としていいことだと思っている。



    □pp.31-32
       日本語で書きたい
     八〇年代になって、潜在的な動機として、そういう問題を解決するために、ぼくは『星条旗の聞こえない部屋』という小説を、少しずつ書くようになった。現実の体験から、二十年近く経っていた。
     なぜそれほどの時間を必要としたのか。ひとつは大きな問題として、母語ではない言葉を、自分の主観を表現するために媒体にする、つまり書くという普遍的な問題がある。さらに、黒船以来、百年以上の歴史の力関係から生まれた先入観、あるいは別の前提があって、それら全部が、複雑に入り混じっていた。それはぼくも分からないようなかたちで、根深く絡み合っていた。
     また、当時ジャパノロジストに求められていたのは、日本人が書いたものを英訳する、翻訳して世界に紹介する、ということが主だった。一九六八年、サイデンステッカーの名訳というフィルターを通して、川端康成がノーベル文学賞を受賞していた。
     だから現実のつきあいの中で、あなたのような人は私たちが書いたものを翻訳してくれればいい。うまくいけばノーベル賞になる。つまり、求められていたのは、「サイデンステッカー」であり「ドナルド・キーン」だった。それには十分歴史的な理由があり、長くそれが主流でもあった。
     そうではなく、自分も日本語で書きたいと言うと、やはり嫌な顔をされた。あるいは、もったいないという。『万葉集」の英訳を途中でやめて、日本語の小説を書くようになったことを、二十数年経った今でも、もったいないと言われることがある。
     ぼくは、それは大変重要な問題だと思う。つまり、日本語によって、「誰が」、「何を」書くかという問題と、身をもってぶつかったのは、在日朝鮮人の作家たちの後では、ぼくが初めてだったのではないかと思う。



    □pp.83-84
     そこにはもうひとつの近代化があった。明治の近代化とは別の次元の近代化があった。
    そして、日本語を表記するために漢字本来の意味にはこだわらずに、音を借りて用いた。
    それが万葉仮名で、そのルーツは朝鮮の郷歌〔ヒャンガー〕に遡るといわれる。
     朝鮮に、「三代目〔サムデモク〕」(三代の記録)という、朝鮮人が朝鮮語で書いた大歌集があったといわれている。いわば朝鮮の「万葉集」だが、度重なる国内戦争に紛れて散逸してしまい、タイトルだけが残されている。つまり、「三代目」という歌集があったという記録が残されているのだが、現物は存在していない。わずかに二十五首の断片だけが、ほかの本に引用されて残っている。散逸してしまったので断言はできないのだが、内容としては、仏教歌が多かったようだ。ちなみに、日本への仏教公伝は欽明天皇期の五三八年、百済から伝えられたとされているが、「万葉集」には、ほとんど仏教の歌が見られない。

       万葉仮名

     この郷歌に使われているのが、漢字を、表意のためにも表音のためにも使った朝鮮独自の文字だった。それが日本に伝わって万葉仮名になったようだ。
     たとえば憶良の八〇四番。

      世間〔よのなか〕の術なきものは年月は流るる如し

    これを万葉仮名で表すと、

      〔よのなかの すべなきも としつきは ながるるごとし〕
      世間能 周弊奈伎物能波 年月波 奈何流流其等斯

     「世間」は表意、「能」は表音、「周弊奈伎物能波」が表音、「年月」が表意、「波」が表音、「奈何流流其等斯」が表音となっている。音で読むのと意味で読む、両方が混じっている。これが日本独自のものではなくて、実は先に朝鮮の郷歌で発明されていた。そして日本では、平安時代になって、表音のほうを崩して平仮名に変える。
     手法は朝鮮から渡来したのだけれども、朝鮮では、それは消えてしまった。李氏朝鮮第四代国王の世宗大王〔セジョン デ ワン〕が、一四四六年にハングル(「訓民正音」)を創成した。ひとつの文字が一音を表す表音文字だ。まったく人工的にアルファベットを作ってしまったのだ。それでもしばらくは、公文書をはじめ漢字が使われていたが、独立後、漢字教育の廃止を挟んで、現在の韓国では漢字はほとんど使われていない。

  • 前半はとても興味深く読み進められたが、後半は退屈だったかな(^◇^;)

  • Levy talks about his Japanese language life, starting from his first sojourn in Japan in 1968 through his reception of the Ito Sei Prize for Literature for his Kari no mizu {False Water].

  • 2012.9.21 推薦者:ヴァネッサ(http://ayatsumugi.blog52.fc2.com/blog-entry-186.html

  • 世界には多様な文化がある事です。

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著者プロフィール

リービ英雄(1950・11・29~)小説家。アメリカ合衆国カリフォルニア州生まれ。少年時代を台湾、香港で過ごす。プリンストン大学とスタンフォード大学で日本文学の教鞭を執り、『万葉集』の英訳により全米図書賞を受賞。1989年から日本に定住。1987年、「群像」に「星条旗の聞えない部屋」を発表し小説家としてデビュー。1992年に作品集『星条旗の聞こえない部屋』で野間文芸新人賞を受賞し、西洋人で初の日本文学作家として注目を浴びる。2005年『千々にくだけて』で大佛次郎賞、2009年『仮の水』で伊藤整文学賞 、2016年『模範郷』で読売文学賞、2021年『天路』で野間文芸賞を受賞。法政大学名誉教授。

「2023年 『日本語の勝利/アイデンティティーズ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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