主体性は教えられるか

  • 筑摩書房 (2012年3月1日発売)
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Amazon.co.jp ・本 / ISBN・EAN: 9784480015396

みんなの感想まとめ

主体性の育成について深く考察されており、やる気とは異なる自律性や周囲との調和の重要性が強調されています。著者は、主体性を教えることの難しさやその定義の曖昧さに触れながら、読者に自らの思考を促す姿勢を求...

感想・レビュー・書評

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  • 主体性とやる気は違う。ぼくはそう考えている。 
    やる気はだれもが持っている

    主体性とは、自律性と周囲との調和
    cf 思考停止状態
    詰込み型学習
    PBL
    指導医講習会
    アメリカ礼賛者
    エビデンス至上主義者

    主体性のあるいい後進が育つ場

  • ・概観
    主体性を失わないためにどうするかというアプローチで書かれている。主体性という概念の輪郭を医療やサッカーの例を通じて映し出し、実証主義的な分析を行っている。

    ・文体
    最初、題名から学術書の邦訳的サムシングだと思ってたので、読みながら随筆調の文章にギャップを感じた。医療関係の章は説明が冗長だと思った。

    ・流れ
    冒頭の連帯・非独立から見た主体性の説明で「オッ」となって、どう分析・考察して発展するのか期待してたのに、せっかくのアイデアが一向に回収されず勿体無かったのが残念。最低限、筆者なりの落とし所は示して欲しかった。「主体性は教えることができるか?」「微妙」「アッハイ」これじゃなぁ…。

  • 医学教育学会に行って、この本の内容がとても「そこ」に関連していることを実感しました。でも、業界の人はたぶん読まないと思いますねえ。

  • 著者の言うように主体性の育成は難しく、そもそも主体性とはなんぞやと言うところもカチッと定まってるわけもなく、となると主体性を教えることについて自分の頭で考えるしかないよねという結論になるのは致し方ない。
    このテーマについて著者から明確な、端切れの良い回答を求める時点で読み手に主体性が無いということかもね。

  • 医療現場において、医師の主体性を育てるための教育はどうあるべきかについて主張したいようだが、できていない本。
    期待していただけにがっかりである。こんな本を選書に上梓しちゃう筑摩書房もどうしちゃったんだろうか。

  • 自分自身、職場の新人さんたちと話していて、前に指示したことと矛盾していること言ってるなぁと思うことがある。ただ、言葉の上では矛盾しているようでいて、自分の中で矛盾はまったくなくてさ。同じことを、真反対の言葉で言っている、と感じるといった方が正直なところ。でもそれを伝えるのは難しいのも、現実で体験している。

    本書でいわれている主体性を教える、ということも近いことであるように感じた。医学教育の話ではあるんだけど、いろいろな場面に適用できそうな話だね。最後のサッカーネタも、ご本人が好きだからというのもあるのだろうけど、とても楽しく、何より腑に落ちた。

    岩田氏は内田樹がすごい好きなんだなぁということも、多々感じたところ。内田樹だけじゃなく、いろいろなところから引用もあった。仕事をばりばりすると同時に、勉強家なんだろうね。

  • □主体性を持つというのは自分で考えることができるということである。
    □主体性は、ただ、後ろ姿によってのみ伝えられる。

    目次
    はじめに
    第1章 主体性が不可欠な医療現場
    第2章 主体性を涵養しない教育制度
    第3章 医学教育の迷走
    第4章 医学生たちとの対話
    第5章 主体性とは何だろうか
    第6章 サッカー日本代表チームの成熟と主体性の変遷

    「お弟子さんはみんな師匠が好きで、師匠から何かを得たくて、吸収したくて、影響を受けたくて来てるんだから、師匠が普通にしてれば、感受性のある人はみんな吸い込んで、自分の中で消化して出す」

    p53 文科省官僚がPISAの順位やメディアの批判に一喜一憂し、教育方針をころころを変えていること自体、彼らがいかに自立性、主体性を描いているかの証左である。

    p56 「アメリカがそう変えろというから変えよう」とか「グローバル・スタンダードに合わせないと、世間に顔向けできないから、そうしましょう」というのは、それこそ典型的な「ムラ的発想」であることに当事者は気づかなかった。日本国内だけで固まっていた「船団」を、アメリカを旗艦とするする「船団」い再編することにした。「親方日の丸」が「親方星条旗」に代わっただけです。おおもとのメンタリティアは少しも変わっていない。

    p64 内田樹先生が繰り返し紹介されるエピソードに「六芸」の話がある。東洋における君子に必要な基本的な学術であると孔子が考えたもので、礼・楽・射・御・書・数のことをいう。内田先生によると、「礼」は祖霊を祀る儀礼、「楽」は音楽、「射」は弓を射ること、つまりは武術、「御」は馬術、「書」と「数」は読み書きそろばんのことである。

    p120 自己学習とは、自己学習せざるをえないのっぴきならない事情、その渇望が学習の成果をもたらすものである。そのような態度(難しい言葉でいえばレディネス)がない医学生に「はい、ここで自主的に自己学習してくださいね」と言ってもなかなかうまくいかないのである。主体性は、勝手に湧いてはこないのである

    P150 学生がものを知らないことは、どうでもよいんだよ。問題は、自分が分かっているところと分かっていないところの分水嶺がどこにあるのかを理解することだ。(中略)それこそが最大の「学び」なんだよ。

    P203 監督のイメージするプレーを具現化するのが選手の仕事である。監督がこうやってほしいというプレーを自分の判断で行わなければならないのだ。選手は主体的、自主的に判断し行動する能力と、監督の意を汲んでこれを実践する能力という一見矛盾する二つの能力を同時に発現しなければならない。

  • 全体になるほど,という内容だったけど,あまりにも内田樹調だったので,その辺が気になってしまった・・・。サッカーのたとえ話はわかりやすい。

  • ちょうど、ビュートゾルフの公演を聴いたところだったので、
    自主性というものを考える良い機会に。

    ほめない、事実を認めるだけ。
    議論の材料を用意しない、不十分な情報しか提供しない。
    説明しない。

  • iPhoneの使い方が参考になった。
    kindleやpodcastなどのアプリを導入してみた。

    正直こういったタイトルの本には抵抗があったが読んで良かった。
    最後に時間の絶対的優位性について述べられていることがそれを払拭してくれたと思う。
    そもそも時間は有限でありどんなにあくせくしてもいつかは死ぬのだということがきちんと書かれている。

    ‘どんなに削り取って時間を取ろうとも巨視的にいえばそれは些細なことにすぎない。
    それにも関わらず、時間を作ることでいてもいなくても変わらない組織で過ごすよりも愛する人や好きなことに費やすことができるのだ(要約)’

    三日坊主でもいいじゃない、という言葉が個人的には気に入った。
    なんでも数打てば当たる精神でやってみようと感じた。

  • 非常に面白いテーマに取り組んだ本だと思う。教えられるのかどうか、は結局明確な答えはないのだけれど、読者それぞれに模索していくべきことなのかもしれない。

  • 主体性とはなんだ?と上司に問われ、そもそも主体性を教えることなんて出来るのか?と手にとった本。どうやら、主体性を衰えさせる教育のあり方も問題がありそう。
    主体的に学ぶという事は、自らが自分の意思で学ぶこと。思考停止に陥る事なく「本当にそうだろうか」と前提を疑い続け、考え続ける態度で学ぶことである。
    人が学ぼうと思う時はどんな時だろう。今の自分に絶望した時か?そんな時に手を差し伸べる事が出来る人間になりたい。

  • 一教育者としての苦悩が記載されていると思います。
    自分自身”主体性“の定義は非常に曖昧なものだし、本書中の定義をそのままインプットするのは、そもそも“主体性”に欠けた行為のようにも感じました。

    随所にある「手段と目的の顚倒」については自分も臨床現場で感じることがあり、印象的だった。
    また、TBLについての学生とのやりとりは、大変興味深かった。

  • 病院の図書室で発見して借りてきた。

    “…件の研修医もとても熱心だ。やる気がないわけではない。こちらが「こうしろ」と言ったことについてはきちんとやってのける。忠実すぎるぐらいにきちんとこなすことができる。しかし、「自分で考えてみろ」というと、ピタリと止まってしまう。「おまえ、どう考えるんだ?」と問うと答えが出ない。だから、一所懸命勤勉に仕事をしていても、そこに「主体」(彼自身)が感じられない。他人の規定するやり方に乗っかっているだけであれば、そこには「主体性」はない。”

    今年の新人君のうちの一人が、そのような状態である。
    とても優秀なのに、どうなの?と問いかけると途端にアヤしくなる。

    主体性は教えられるか?

    そんな彼のことを思いつつ読んでみた。

    日本の教育、アメリカなど外国との比較、医学教育について、そしてまとめはなでしこジャパン。
    先日読んだ医療倫理の本の中でも出てきた、あいまいさ・グレーゾーンの考え方も。

    文中にも出てくるが、医学部・薬学部は知識だけでなく、必要な技術を身に付ける専門学校的要素も不可欠。
    薬学教育はまさに今模索しているところ。
    PBLが、分担学習になってしまい本来の目的からかけ離れてしまう皮肉。

    岩田先生の“ソクラテス・メソッド”には遠く及ばないが、私も時間がある時は、実習生に対して謎かけババアになる。
    初めは、どう答えて良いのか戸惑ってしまうのだけれど、ダメもとで答えたことに対して現場の薬剤師(私)があーだこーだコメントしたり、新たな問題をぶつけることで結構やる気になってくる。


    読み終えたけど、結局のところ主体性は教えられるのか、良く分からず。

    身銭を切った「スーパー指導術」をこれから読んでみます。

    本題と関係ないけど
    “バッド・ビヘイビアーに対する最大の武器は善意と親切である。”
    という言葉は、ちょっと覚えておこうと思った。

  • やはり、本人の自覚を目覚めさせる必要が一番。
    そのための環境、機会を作ることなんだろう。しかも、自主的に気づくように。。。難しい。

  • 第1章 主体性が不可欠な医療現場
    前例踏襲(帰納法)がうまくいくかどうかは、当たるも八卦の運次第である。
    医療の世界はたいていジレンマに満ち満ちている。黒か、白かの二元論ではうまくいかない。たいていの事象はグレーゾーンにある。そして大切なのは、黒か、白か、グレーか、という単純な問いではなく、どの(、、)くらい(、、、)グレーかを見極めることである。世界観の固定、思考停止は複雑で曖昧な医療・医学の世界にはそぐわない。
    手段と目的の顚倒は思考停止のなせる業である。すなわち、そこには主体性が欠けている。
    ●医療の世界に正解はないのか!という視点。

    第2章 主体性を涵養しない教育制度
    日本の学校教育は小学校から高校卒業まで、「いかに正確に、大量に咀嚼し、それを正確に迅速に吐き出すか」という点に主眼を置いて行ってきた。主体的に学ぶ→思考を重ねる→試行錯誤を重ねる→誤謬を重ねる、ということ。大量咀嚼、大量嘔吐の能力に「誤謬」は必要ない。むしろ邪魔なだけである。効率良く、手っ取り早く、正解に直行することこそ大量咀嚼、大量嘔吐能力涵養の一番の早道である。文科省に学習指導要領を強制される教育者が、主体性を涵養する教育などできるわけがない。コンプライアンス(法令遵守)の連呼が思考停止の遠因となる。評価のダークサイド。評価は手段であり、目的ではない。測定可能なものしか評価できないが、測定不可能なものを無視してはいけない。主体的であるとは、他者の言葉に規制されないという意味である。他者のまなざしから自由であるということである。ということは、こと「評価」に関して言うと、「主体性」はこれを一切顧慮しない。
    ●評価されたいがために、進んで大量咀嚼大量嘔吐の、「鵜飼いの鵜」となった私。管理しやすい「鵜」を育てたい親と教師。「鵜」のまま大過なく一生を終えることは可能?社会に役立つかどうかは別として。

    第3章 医学教育の迷走
    グローバル化と称されているものは、単なる「親方日の丸」から「親方星条旗」への転換にすぎない。PBLにおいては、提示された異常値の出た検査を、グループ内で分担して調べ学習するだけになりがち。当該疾患の全体像はつかめず、定型的に事典をひいているだけ。教育方法に優劣はない。講義VS問題解決型という対立構造ではない。シラバスのもたらす陥穽。学習目標が明示されていることと自律的な学習は矛盾した概念ではないのか。シラバスで学習目標を明示してしまうと、それは目標に到達するまでの経路のみを探し出す問題となる。ボーダーラインを示さない、シラバスによる自己規定を行わない所に、「ブレークスルー」は生じる。『「引きこもり」というのは、自分に対して低い評価を与える外部を遮断して、「評価されない立場」に逃げ込むというソリューションです。転職や離職の繰り返しや、いっとき流行した「自分探しの旅」も、自己評価と釣り合うような格付けをしてくれる「外部」がこの世界のどこかにあるはずだという(あまり根拠のない)信憑に導かれてのものです。教育の場では、「君には無限の可能性がある」という言明と「君には有限の資源しか与えられていない」という言明は同時(、、)に(、)告げられなければ(、、、、、、、、)ならない(、、、、)。』←学ぶことの要諦(内田樹『呪いの時代』より)。チューターはプロの方がよい。医者が主体性を失う、旧来の医局の構造。『日本のエリートたちは「正解」がわからない段階で、自己責任・自己判断で「今できるベスト」を選択することを嫌う。これは受験エリートの通弊である。彼らは「正解」を書くことについて集中的な訓練を受けてきた。それゆえ、誤答を恐れる。だから、「正解」がわからないときは、「上位者」が正解を指示してくれるまで「じっとフリーズして待つ」という習慣が骨身にしみついている。論拠と言い訳が用意されなければ動かないというのが日本のエリートの本質的性格である。「エリートというのは、そういうものだ」。だから危機的状況にエリートは対応できない。資源も情報も手立ても時間も限られた状況下で、自己責任でむずかしい決断を下すことのできる人間、「胆力のある人間」は組織的に育成することができる。例えば武道や宗教は本来そのためのものである。』(内田樹『呪いの時代』より)。無批判にEBMを盲信するのは、無批判に医局の教授を盲信するのと同じくらい間違っている。
    ●「無限の可能性」と「有限の資源」が同時に提示されてこそ、「ブレークスルー」が発生する?ちょっとそこがつながりそうで、よくわからない。「ブレークスルー」はイメージできる。一生で何度も起こるものなのかな。それって、学びってすごくない?エリートは危機対応できない。なるほど。医者はエリートではいけない?

    第4章 医学生たちとの対話
    独自のTBLの紹介。
    ●実際にこの授業を受けたら、「全然わかんなくて先生怖かった」みたいな感想で終わってしまいそうなダメ学生の私。

    第5章 主体性とはなんだろうか
    努力の自己目的化、走ることそのものの目的化、疲れることそのものの目的化、は「手段と目的の取り違え」。強制的な指導医講習会は悪評。クロスライセンス推奨。専門や国籍の檻に閉じこもらない。スタンダード化を主張しているのではない。その数字がどのように扱われているか、どのへんが主観であるかを自覚的に自覚しつつ、自らの主体性をもって判断する。そしてそれが主体性による主観的な判断であることを自覚する。他者は異なる認識を持つかもしれない可能性にも配慮する。このような内省的な態度と配慮こそが、主体性への近道である。
    ●自らを客観視できる視点が、真の主体性には必要。その通りだと思うけれど、そんなことって可能なのか。それがブレークスルーか。

    第6章 サッカー日本代表チームの成熟と主体性の変遷
    アマチュア時代―主体性の暗黒時代。夜明け前―主体性の萌芽。(カズ、ラモス『主張する人』)。攻撃か守備か。(中田英寿VS西野監督という構図)。ある戦術が紹介されると、無批判にそれを繰り返すのが日本の特徴であると言われる。アーリークロスを上げろと言うと、なんとかの一つ覚えのようにアーリークロスを繰り返す。日本代表の欠点を指摘する時、常に言われるのがこの硬直性、思考停止状態だった。「日本の選手には主体性がない」と考えた3人の監督。トルシエ(自分のやり方を選手に押し付ける)。ジーコ(放任することによって主体性を要求)。オシム(監督が細かく指示することと選手が主体的であることは必ずしも矛盾しない)。「なでしこジャパン」は「主体性」の具現化。澤のポジション。「ボールを奪わなければ攻撃できない」。「攻撃か、守備か」という二元論(つまりは思考停止を)凌駕している。
    ●二元論を凌駕したところに、真の主体性がある。視点を個人→社会へと上げるブレークスルー。「なでしこジャパン」ってやっぱすごいんだ。とサッカーをまるで知らない私でも、感動できる文章。

    思考は行きつ戻りつしつつ、読みやすい文章で「主体性」について考察していく本。「医学教育」と「主体性」という、いま一番関心のあるテーマだったので、面白く読めたし刺激を受けた。「大量咀嚼、大量嘔吐の鵜飼いの鵜」という表現がヒット。肝に命じます。「嘔吐」という言葉選びのセンス。復学してからも時々読んで、ふっと視点を上げるのに役立てたい本。

  • 目的と手段を取り違えない。

  • 大切なことに気づかせてくれる、すばらしい著作である。
    ご自分の職責等の立場から、かなり言いにくいこともあったろうと思われるが、それよりも「もっと大切なことがある」という信念が、著者をしてこのような記述をなさしめたものと思う。
    それほどに、筆者の思いはどの頁からもひしひしと伝わってくる。
    教育に携わっている人はもちろん、多くの日本人に読んでほしい著作であると信じる。

  • 本を読み進めて、やっと第5章や最終章で、筆者のいいたいことが伝わってくるようになる。読み始め 前半はやや冗長で、退屈な面もあった。現状批判がこれでもかと並ぶので、その物事両断的な筆致は賛成しかねる点もある。ただP.34の「主体性とやる気は違う。ぼくはそう考えている。 やる気はだれもが持っている。」との記述にドキッとさせられた。これは男子サッカーのラモス批判などに繋がっていくことになる。
    後半になって主体性とはなにかとの意見が形となってくる。それは自律性と周囲との調和性ということらしい。自律性は主体性のいいかえに近いので我を通したり逆に怠けたりしない周辺調和が大切ということか。さてこれを社会人指導者として教えるべきか否か。調和性のなさは多くは個性とも思われるが叱ったりできるかもしれない。でも自律性の乏しい成人を回復させることができるか。 
    この本に出てくる話を総括すると まずい指導者/指導法はその学習者の主体性を阻害する、ともとれるから、下手な教育手法を押し付けないほうがいい、ということになろうか。詰込み型学習も鵜飼いの鵜に例えて主体性が育たないと批判、教育手法のPBLもそう、指導医講習会もそう、と 同じ手法で批判が展開されている。主体性のない悪い例としてアメリカ礼賛者やエビデンス至上主義者などが挙げられておりこれらは型にはまる思考者や、思考停止状態である。 最終章の男子サッカーのところも モデルや戦術など”手段と目的が倒立する”のも同じ構図である。
    主体性の育たない教育として大学教育、大学医局制度も非難している。 たしかに昔から優秀な研修医は、全国的に有名でべらぼうに忙しい研修病院に2-3年働き、その後はどこに行こうとも自律的に自力で問題解決し、研鑽をつむくせがついている人が多い印象がある。 初期臨牀教育の大切さだが、そういった病院は決して、暗記物を押し付けたり、一対一の教育をしていたわけではない、むしろ放置状態といったほうが近い。 ただべらぼうに忙しい思いはさせる。 また場の雰囲気は 活気あり良かっただろう。 よき子弟関係の職場として老舗のすし屋などを思い出すが、そこの弟子もべらぼうに働き、かつ師匠には教えてもらうより怒鳴りつけられることが多いが、その師匠の所作は職人として濁ったところなく仕事に真摯な姿勢に弟子は尊敬している、現場の雰囲気は怒声が飛び交っても活気があるものである。
    この本の最終章で礼賛している女子サッカー例でも練習は地獄のトレーニングだったとの記述がある。
    主体性のあるいい後進が育つためには、場の雰囲気のいい、活気のある、尊敬できる先達がいないといけないのであろう。

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著者プロフィール

1971年、島根県生まれ。島根医科大学(現・島根大学医学部)卒業。神戸大学都市安全研究センター感染症リスクコミュニケーション分野および医学研究科微生物感染症学講座感染治療学分野教授。著書に『コロナと生きる』(朝日新書、内田樹との共著)、『新型コロナウイルスの真実』(ベスト新書)、『僕が「PCR」原理主義に反対する理由』(集英社インターナショナル新書)ほか多数。

「2022年 『撤退論 歴史のパラダイム転換にむけて』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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