- Amazon.co.jp ・本 (219ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480015402
作品紹介・あらすじ
いま、この時代にあって「救い」とは何か、果たしてそれは可能なのか?この世に生をうけ、やがては死にゆくことを、どう受け止めればいいのか?信仰をもつ宗教学者と、宗教をもたない哲学者が、こうした根本問題をめぐり、鋭く言葉を交わす。「世界全体の幸福」と「個人の幸福」、親鸞の「一人」の思想、宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』など話題は多岐にわたり、問いが深められていく。この時代の「生と死」について、透徹した視座を提供する対話の記録である。
感想・レビュー・書評
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https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/57752詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ちょっと違う関心に引き込まれました。山折哲雄さんの北原白秋の引用です。イノセントの持つ残虐性についてですね。人間の本来をまず肯定することから考えるということを失い始めている社会はどうなるか。考える必要がありそうですね。
https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/201906180000/ -
救いとは何か、にまつわる対談。宗教学者でもある山折さんに対し、宗教的な言葉を用いず、哲学的に語ろうと苦心する森岡さんの、ぎこちないながらも必死に言葉を探そうとする姿には感銘を受けた。
議論の内容も、結論がはっきりと出るようなものばかりではないが、倫理を育むのは結論ではなくむしろ過程だろうし、それでいいと思う。
最終的に森岡さんは「命を大切にしようがしまいが、命自体が尊い」という境地に至り、いつかそのことを哲学の言葉で、論理によって説明できるようになればいいと話す。
そうなればいいと僕も思うし、僕は僕の言葉でそれを見つけたいとも思った。
議論の途中、まさにこのことと対称的な森岡さんの言葉として、
「ある人に対して、(中略)「自分なんて、生まれてこなければよかった」と思わせるように仕向ける。それこそ極悪ではないか」
というものがあったが、これには心底同意する。殺人よりも何よりも、それこそが悪だ。
けれど、たとえそんな人間でさえも生きているということは尊いものなのだ。そんな人間でさえも、すでに救われている。そんなことを、どうにか納得して生きていくことができるのかどうか、自信はないけれど、考えてみることは吝かじゃない。 -
森岡正博の本は、おおむかし(まだ学生だったころ)に、『「ささえあい」の人間学 私たちすべてが「老人」+「障害者」+「末期患者」となる時代の社会原理の探究』とか、『電脳福祉論』という本を買って読んだことはぼんやりおぼえているが(『「ささえあい」…』は高い本だった)、その後はあまり読まずにいた。山折哲雄も、むかし何か読んだことがある気がするが(誰かとの対談集かなにかだったような)、くっきりとした記憶がない。
去年の春に、「尊厳死って何やねん!?」の講演を聞いた後、ご飯を食べにいったところで、同席したKさんとSさんのカバンから「今読んでる本」と同じ本が出てきた。それがこの『救いとは何か』だった。そのことを、メーリングリストで思い出して、図書館で借りてきた。
現代社会においていかにして「救い」は可能か、そして、我々はみずからの「生と死」をどのように考えていけばいいか、というテーマで森岡正博と山折哲雄の二人が語りあっている。東日本大震災後におこなわれたという5章の対談が、いろいろと印象に残った。
ある学校のウェブサイトでみた「命を大切に」という標語への違和感を語る森岡。多くの子どもは、それを嘘くさいと感じてしまうのではないかと。
▼森岡 …その理由を考えてみると、命というものは、理由もなく全く無根拠に我々に与えられている。であるから、我々がそれを大切にしようがしまいが、それとは関係なく、すべての命の姿はそのままで一点の曇りなく尊いのです。たとえそれを大切にしなくても、それでもなお命は尊いのです。そのことに気づくことが、命の尊さに真に気づくことではないのか。それが分からず、「命を大切にしよう」などと臆面もなく掲げてしまう。そこに欺瞞があると思うのです。(p.195)
その森岡のことばを受けて、山折は、歴史を振り返れば「殺すな」と言うべきだ、これが古くからの黄金律だ、と語る。
▼山折 …しかしながら、近代に入って我々は、この言葉を自信をもって言えなくなってしまった。それで、「命を大切にしましょう」という、弱い言葉を発明したわけです。しかしこれは、かえって人間中心主義的な傲慢な言葉ですよ。(p.195)
そして、「ハーバード白熱教室」の欺瞞、という二人の対話。サンデルの本は一冊だけ読んだことがある(再読もしてみた)けど、どのあたりを、二人は欺瞞だと思うのか。
山折は、「サンデル教授の提案というのは結局、他人事の言語ゲームに過ぎない、「我が事のジレンマ」の問題ではなかったという感想をもった」(p.197)と言う。とりわけ、震災後に、その空虚さが露わになってきたと森岡も言う。
▼森岡 …サンデル教授の講義では「トロッコ問題」が取り上げられるのですが、それがどういうものかというと、電車(トロッコ)がコントロールを失い猛スピードで暴走している。前方には五人の作業員が線路上に立っている。右側には待避線があり、そこには作業員が一人いる。あなたは線路を切りかえるスイッチを持っている。電車を待避線に向ければ、五人の作業員を殺さずにすむ。その代わり、待避線にいる一人の作業員を殺すことになる。さて、あなたなら、どうしますか? というような設定なのですが、これを聞いたとき、ひどく違和感を覚えました。最初、その違和感の理由が分からなかったのですが、少しずつ、分かってきた。(p.198)
森岡は、これは原爆正当化論の理屈と同じかたちなのだと指摘する。原爆投下は、より少ない犠牲ですんだ選択なのだという、あの理屈だ。広島や長崎で原爆の犠牲になった人が聞いたらどう感じるか、たぶん考えたことがないであろう理屈だ。
森岡は原爆問題と照らして考えながら、「トロッコ問題」で真に問題なのは、"我々が線路を切りかえるスイッチを手にしているというその特権性"に、サンデル教授も気がついていないことだと述べる。
▼森岡 …世界中から集まったエリート学生に対してサンデル教授は、スイッチを切りかえるかどうかを訊くわけですが、そこでは、自分が作業員として線路の上で働いているという可能性がまったく想像されていない。「ハーバード白熱教室」に登場する学生はみんな、自分の手で他人の人生を左右することができる特権的な立場に将来なるような人たちなのです。そこが欺瞞の最たるものだと思う。
山折 「ハーバード白熱教室」でのそうした議論が、人生全般のジレンマの問題にかかわるものとして受け入れられてしまった。そのことも大きな問題だと思う。(pp.199-200)
森岡が、哲学者として自分は命はすべてそのままで尊いと論理的に言っていく、だが同時に、論理の次元で終わらせず、そういう生命観、人間観を自分自身がどう生きるのかで検証していきたいと語るところに、この人の本を、また読んでみようと思った。むかし読んだのも、もういちど読んでみたくなった。
(9/27了) -
宗教では救われない私たち。では生きる救いとは何か。真摯な語り合い。「誕生肯定」という言葉に涙した。大切な本に出会えた。
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宗教学者と哲学者という異質な組み合わせの対談。
「救いとは何か」のタイトルよりも、生死について……そこに関わってくる「魂」をどう捉えるかという部分の方が深く語られている。
花が供えられていた時に、なんとなく手を合わせたくなる気持ち。
それがなぜなのか、そこにあるのが何なのか分からないという感覚。
批判的というより、神や仏という感覚がわからないという立場で問い掛ける森岡氏側から私はこの本を読めた。
元々宗教的な部分を期待して購入した本書だが、今生きている中で目を逸らしてはいけない部分を、柔らかく提示されてしまったような気がする。
様々な文学作品や映画に触れて砕かれている為、読みやすい。