自由か、さもなくば幸福か?: 二一世紀の〈あり得べき社会〉を問う (筑摩選書 87)
- 筑摩書房 (2014年3月12日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (238ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480015952
感想・レビュー・書評
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論点の展開がよく考えられている良書だと思います。タイトルで自由の反対に幸福を置くのは違うのでは?と感じていたのですが、なるほどと思わせる展開でした。
自由は基本的な権利で不可侵であることと、社会性生物として功利主義は正しいがその最大化には「国」が「国民」をつぶさに知らなくてはいけない、というどちらも正しいがゆえに両立はしないことを、人が社会の中で重きを置いてきた権利の変遷で説明されているので、極論ではなく自然な議論なのだと納得することができました。
なので、この辺りの社会の在り方は、民主主義も含めて、答えというものはなく、時代の要請によって移り行くものなのだと考えることができました。(つまり、民主主義も変わる時期に来ている) -
東2法経図・6F指定:361.1A/O94j/Ishii
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一人ひとりが自由であることが幸福と結びつくというフィクションを信じられていた19世紀。でも、実態としては、このフィクションを実現できる人は限られていて、その他大勢は、このフィクションから排除されていた。さらに、その多くの人は、自由であることを重荷とさえ感じていた(自由からの逃走)。
個人の自由が政治に反映されるデモクラシー。そのデモクラシーの絶頂を迎えた20世紀。ワイマール憲法からヒトラーが、大正デモクラシーから軍部主導政治が生まれ、個人の自由は制限される全体主義の時代になる。自由主義側が戦争に勝ったかに見えたが、自由主義諸国の政治も、個人の自由を制限する政策を進める。
その自由の制限、監視が、政府だけではなく、様々なプレイヤーを通して行われるようになった21世紀。人々は、自由の制限に反発するよりも、監視から得られるベネフィットを喜んでいるかのようになった。
そんな時代の流れの中から、次の時代を考えるとすると、著者は、次の3つの方向があるのではないかと指摘する。
1つは、新中世の時代。
2つ目は、○○○○。アーキテクチャーによる統治。
3つ目は、ハイパーパノプティコン。皆が少しずつ監視される社会。
感想途中ですが、久しぶりにワクワクしながら読んだ本。 -
哲学
社会 -
自立した自由な個人を至上とした19世紀の夢は,20世紀に崩壊。いま個人の自由は幸福追及権に屈服し監視社会をもたらしつつある。その不可避性を見通し良く示してくれる好著。
事後救済という本質的な限界を抱えた法の支配は,ますます低コストになる監視技術・物理的抑止策による事前規制へと道を譲りつつある。それは必然的に自由を束縛し,個人の自律性を侵すものであるのだが,多くの人が安全安心を求める以上,もはやいかんともしがたい流れとなっている。この行きつく先はディストピアなのだろうか。別段そうでもないと感じるのは,著者の筆致に影響を受けすぎたためだろうか。 -
自由と幸福の両立は結構難しいものであると再認識。3つの将来として新しい中世の新自由主義、総督府功利主義のリベラリズム、ハイパー・パノプティコンを提示し、著者は3番目を提唱。人間が愚かで非合理という事を考えれば消去法で3番目になるのかな?とは思う。これもテクノロジーの進化による監視コスト低減の賜物だろう。その最たるものが取り調べの可視化であるが、権力者は自らを監視しないので、運用に疑問は残る。
全体的には問題提起レベルに留まっているので、もっと詳細な分析・解説本に期待。 -
(後で書きます)