自由か、さもなくば幸福か?: 二一世紀の〈あり得べき社会〉を問う (筑摩選書 87)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (238ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480015952

感想・レビュー・書評

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    https://libipu.iwate-pu.ac.jp/opac/volume/478915

  • 論点の展開がよく考えられている良書だと思います。タイトルで自由の反対に幸福を置くのは違うのでは?と感じていたのですが、なるほどと思わせる展開でした。

    自由は基本的な権利で不可侵であることと、社会性生物として功利主義は正しいがその最大化には「国」が「国民」をつぶさに知らなくてはいけない、というどちらも正しいがゆえに両立はしないことを、人が社会の中で重きを置いてきた権利の変遷で説明されているので、極論ではなく自然な議論なのだと納得することができました。

    なので、この辺りの社会の在り方は、民主主義も含めて、答えというものはなく、時代の要請によって移り行くものなのだと考えることができました。(つまり、民主主義も変わる時期に来ている)

  • こういう論ではおなじみオーウェルの「一九八四年」からスタート。
    自由で平等な個人が自己決定することで幸せに生きるという19世紀の理念が破れていく現状がまず指摘される。適切に自己決定できる人間の自律性を保つためには教育や環境で社会を制御し、統制していく必要があるという矛盾。むしろ人民は自己決定する責任ある自由を望まないという現実。少数者は自分の意見を反映できないままに法の順守を強いられ続けるという民主主義の限界。

    著者は今後の展開として、いくつかの可能性の中で、コミュニティの全構成員が徹底した監視下に置かれる「ミラーハウス」社会(万人が不快を引き受けることの上に成立する正義にかなった社会)が到来する可能性が高いし、消極的にそれがふさわしいのではないかという結論を出す。

    個人的には、少数を犠牲にする社会より全員が不快を引き受ける社会が支持されるというのは考え辛いように思う。心理的には、自分が一切不快にならない可能性があればその選択肢に傾くのが人間だ(そういう実験もあったはず)。現実にマイナンバーカードやらワクチンパスポート程度で大騒ぎしているのだからしょうもない。
    功利主義的な合理性に基づけば適切な社会なのかもしれないけど、えてして人間は合理的な選択をするものではないし、それは著者がほのめかすような教育や「監視」によって矯正される性質のものではない。
    しかも監視によって安心が提供されるわけではないと著者自身も書いているのに、それを徹底しても「同一化」よりは分断が進むのみではないか。「監視」とは具体的に何を想定しているのかもいまいち分からないのだが、著者が自ら指摘する是正可能性が課題という点、これこそが致命的に思える。結局運営や是正をコミュニティメンバーに頼るのであれば結局、現状の欠点を煮詰めたようなものにしかならないのではないか。
    監視社会が不快とかいう以前に、人間の理性と合理性を頼りに依存したシステムがただしく機能して「正義」が実現するのかは疑問である。そういうシステムが機能するのなら、今だってみんな幸せな成熟した民主主義社会が実現していたのではと思う。

  • 東2法経図・6F指定:361.1A/O94j/Ishii

  • 一人ひとりが自由であることが幸福と結びつくというフィクションを信じられていた19世紀。でも、実態としては、このフィクションを実現できる人は限られていて、その他大勢は、このフィクションから排除されていた。さらに、その多くの人は、自由であることを重荷とさえ感じていた(自由からの逃走)。

    個人の自由が政治に反映されるデモクラシー。そのデモクラシーの絶頂を迎えた20世紀。ワイマール憲法からヒトラーが、大正デモクラシーから軍部主導政治が生まれ、個人の自由は制限される全体主義の時代になる。自由主義側が戦争に勝ったかに見えたが、自由主義諸国の政治も、個人の自由を制限する政策を進める。

    その自由の制限、監視が、政府だけではなく、様々なプレイヤーを通して行われるようになった21世紀。人々は、自由の制限に反発するよりも、監視から得られるベネフィットを喜んでいるかのようになった。

    そんな時代の流れの中から、次の時代を考えるとすると、著者は、次の3つの方向があるのではないかと指摘する。

    1つは、新中世の時代。
    2つ目は、○○○○。アーキテクチャーによる統治。
    3つ目は、ハイパーパノプティコン。皆が少しずつ監視される社会。

    感想途中ですが、久しぶりにワクワクしながら読んだ本。

  • 哲学
    社会

  •  私たち個人はより幸福になるために生きてるけど、私たちの文明は幸福というよりかは自由を拡大しようとしてない?ミクロとマクロでずれてない?なんて疑問が頭の中を漂っていたのでドンピシャな題の本書を読んでみました。
     一方、頭の中の別の所で「それは自己責任だから 〜」なんてことを安易に言ってるのを見たり聞いたりするたびに感じていた苛立ちがありまして、その苛立ちの理由もなんとなくわかりました。ですが著者は法哲学の専門家で、抽象と具象を行ったり来たりしてなかなかの難しさです。

     自己責任論の前段階には「自由=幸福」という巧妙で複雑なリベラリズムの理論があるらしく、このリベラリズムの理論は、19世紀に生まれたもので、それ以前にはなかったらしいです。つまりは国民の総意で国家を形成するという、自民の自己統治原理を有効にするために作られたイデオロギーです。自由意志による自己決定の集合が国家であるという今の形です。
     ですが、時代が進むにつれて、人間にはちゃんと自己決定できるような能力なんてないんじゃないという状況が出てきました。そんな現実に対応する形で作られたのが消費者保護法とか労働基準法という弱者保護の制度です。
     こんな風に、機能不全になっている「自由=幸福」というイデオロギーの上でしか了解されえない自己決定論に正当性なんてあるのでしょうか。これが私の感じていた苛立ちの正体でした。

     「自由=幸福」とされてきた時代では、「不自由=幸福」というパターンは顧みられることはありませんでした。ですが、井の中の蛙のほうが幸せなんじゃないかという疑問が、会社員とかブータンの人とかを見てるとふと頭をよぎります。そして実際「不自由=幸福」の社会に進みつつあります。例えば、有害サイトを表示させないgoogleとかゲーテッドコミュニティとか。

    『「法」が、制裁の予告によって我々の自由を奪っていくのに対して、「アーキテクチャ」のもとでは行為の自由が最初から与えられていないのである。』

     初めから与えられていないのだから、制約されていることさえ気づかずに幸福な生活を送れるんでしょうけど、どうなんでしょうか、自由を求めて抗ってきた人々は骨折り損のくたびれもうけだったのでしょうか、やはり違和感があります。

  • 自立した自由な個人を至上とした19世紀の夢は,20世紀に崩壊。いま個人の自由は幸福追及権に屈服し監視社会をもたらしつつある。その不可避性を見通し良く示してくれる好著。
    事後救済という本質的な限界を抱えた法の支配は,ますます低コストになる監視技術・物理的抑止策による事前規制へと道を譲りつつある。それは必然的に自由を束縛し,個人の自律性を侵すものであるのだが,多くの人が安全安心を求める以上,もはやいかんともしがたい流れとなっている。この行きつく先はディストピアなのだろうか。別段そうでもないと感じるのは,著者の筆致に影響を受けすぎたためだろうか。

  • 自由と幸福の両立は結構難しいものであると再認識。3つの将来として新しい中世の新自由主義、総督府功利主義のリベラリズム、ハイパー・パノプティコンを提示し、著者は3番目を提唱。人間が愚かで非合理という事を考えれば消去法で3番目になるのかな?とは思う。これもテクノロジーの進化による監視コスト低減の賜物だろう。その最たるものが取り調べの可視化であるが、権力者は自らを監視しないので、運用に疑問は残る。
    全体的には問題提起レベルに留まっているので、もっと詳細な分析・解説本に期待。

  • (後で書きます)

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著者プロフィール

慶應義塾大学教授

「2020年 『AIと社会と法』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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