ギリシア悲劇 1 アイスキュロス (ちくま文庫 き 1-1)

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  • / ISBN・EAN: 9784480020116

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  • 再読。

    古代ギリシアの三大悲劇詩人のひとりアイスキュロス(前525-前456)が物した作品のうち、現存する全7篇を収録。

     縛られたプロメテウス
     ペルシア人
     オレステイア 三部作
      アガメムノン
      供養する女たち
      慈みの女神たち
     テーバイ攻めの七将
     救いを求める女たち

    □ 古代ギリシア史概観

     ――― ホメロス期 ―――
    前1200 トロイア戦争
     ――― アルカイック期 ―――
    前594 ソロンの改革 → 財産に応じた政治参加
    前561-前528 ペイシストラトスの僭主制
    前508 クレイステネスの改革 → 法の下の平等、アテナイ民主制の基礎
    前500-前449 ペルシア戦争(ギリシア×ペルシア) → ギリシアの勝利
     ――― クラシック期 ―――
    前443ー前429 ペリクレスの執政 → 直接民主制、アテナイ民主制の完成
    前431ー前404 ペロポネソス戦争(アテナイ×スパルタ)
             → スパルタの勝利  → アテナイ民主制の崩壊
     ――― ヘレニズム期 ―――
    前336ー前323 アレキサンダー大王による征服
    前146 ローマ帝国の属領

    つまりアイスキュロスの生涯は、概ねアテナイ民主制が確立されていく時期と重なる。

    □ ギリシア悲劇の精神史上の位置づけ

    まずは、ギリシア悲劇が置かれている精神史上の位置を確認しておく。一般に古代ギリシアの精神史は、ホメロス期(前1200ー前1100)、アルカイック期(前800ー前480)、クラシック期(前479ー前338)の三期に分けて理解される。ヘーゲルが『精神現象学』で記述した人間の意識の展開過程に倣ってそれぞれの時代の特徴を整理するならば、以下のようになる。

    ① ホメロス期の人間は、自他未分離の即自的存在である。つまり、内面/外面、自己/他者、自己/世界という区別がなかった。そこでは、自己は自己に対して超越論的位置に立ち自己を対象化することがなく、人間は他者と葛藤や猜疑のない互いに透明な関係のうちに調和してあり、人間は自然の秩序を逸脱することなくそこに内包されている。則ち、自己以外の他者と世界の一切が自己に対して隠されておらず接続されており(自明性)、自己と世界とをその内側から食い破り超え出ようとする過剰さがなかった(自己完結性)。その根底には、自己意識が未だ覚醒していなかったこと、つまり「超越論的」という概念で特徴づけられる領域が意識の中に開かれていなかったこと、がある。

    ② アルカイック期に入り、人間は自己意識に覚醒し、自他が分離した対自的存在となる。つまり、内面/外面、自己/他者、自己/世界という区別が生じることとなった。そこでは、自己は自己に対して超越論的位置に立って自己を対象化し、自己意識に対して開かれている領域としての自己の内面性を獲得し、さらに自己意識に対して開かれていない領域としての他者の存在がそこから遡及的に見出され、そうした自他関係において偽善と孤独と闘争とに苛まれることを知り、人間の超越論的意識は世界を対象化する自己それ自体を対象化することで自己と世界とから逸脱していく。則ち、自己にとって、自己以外の他者と世界の一切が分断されて到達不可能となり(非自明性)、孤立した自己は肥大化して自己と世界とをその内側から食い破り超え出ようとし始める(自己超越性)。その根底には、自己意識の覚醒に伴って「超越論的」な領域が意識の中に開かれたこと、がある。こうした自己意識の発見という精神史上の事件は、芸術における叙事詩から抒情詩(外面によって隠されている内面を表現すること)への移行、世界認識における神話から哲学(見せかけの現象から区別された真の実在を普遍的抽象的な言語=理性を用いて探求すること)への移行、共同体原理の血縁から政治(自他の分裂を普遍的抽象的な言語=法を用いて架橋し相互にとって安全と利益が期待できる自他関係を再構築すること)への移行、として顕在化する(「第一の政治」の誕生)。

    ③ クラシック期では、アルカイック期に発見された自己意識がさらに肥大化していくことになる。アルカイック期においては、自己意識とともに見出された人間の理性 logos が飽くまで自然の秩序 physis によって裏打ちされている限りにおいて、人間と世界との調和の可能性をなんとか信じることができていた。しかしながら、クラシック期では自己意識の肥大化に伴って、自/他の分裂がいっそう深刻化していく。さらに、人間の理性 logos が自然の秩序 physis に対して自律化し、真実や正義といった実質的な内容と結びついた意味を産み出す土壌から遊離してしまうことで、それまで神々と結びついていた形而上的価値が相対化され、逆説的に所有と支配という即物的(無)価値が特権化されていくことになる。ここにおいて、言語は、万人に妥当する真理を導くための手段ではなく、特定の人間にとって利益となる虚偽をその他の人間に対して真理であるかのごとく見せかける虚偽の手段に頽落してしまっている。そして政治は、言語を用いて自己と他者を説得し共通の価値のもとへ結びつけて共同性を確保するための対話的な営みではなく、暴力を用いて人びとを束ね支配し操作するための強権的な技術に頽落してしまっている(「第二の政治」の誕生)。則ちここに、神々と結びついた形而上学と、肥大化した人間の自己意識が神々を駆逐してしまうことで惹き起こされる世界の意味喪失と、の対立が先鋭化されて現れることになる。これは現代的なニヒリズムに等しい。

    ギリシア悲劇、ギリシア哲学(政治哲学)といったギリシア文化の精華は、クラシック期に出来した世界の意味喪失という危機的状況に対する反応として生み出されていくことになる。

    ギリシア悲劇では、自然の秩序 physis とポリスの法秩序 nomos との葛藤が主題として取り上げられる。nomos の力が増して支配的となりつつあるが、それと physis との矛盾はどのように解決すればよいか、人間がこうした相矛盾するふたつの掟に引き裂かれることで悲劇が生じることになる。さらに、人間的な合理的秩序が拡張されていくにつれて却って痛切に意識されるところの人間性の外部、そこにある運命の不条理性や世界の非人間性、「世界には人間の居場所がない」という人間の根源的な戦きもまた、悲劇の通奏低音となっているように思われる。

    ギリシア哲学についても、例えばソクラテス(プラトン)とソフィストとの対立は、絶対的価値の存在を認める形而上学と、一切の価値は人間の主観によって構成されるとする相対主義(意味喪失)と、の対立として理解することができる。人間こそが万物の価値基準であると嘯くソフィストの傲慢 hybris が自然の秩序 physis と人間の秩序 nomos との乖離ひいては世界の意味喪失をもたらすのであり、これに対してソクラテスは「無知の知」を唱えた。ギリシアの悲劇詩人や哲学者は人間の傲慢 hybris による自然の秩序 physis からの逸脱に人間の破滅の原因を見出してきたが、それは傲慢 hybris がもたらす世界の意味喪失という事態に対する危機意識の現れであったのかもしれない。またプラトンが、共同体の政治的意志がそのときどきの多数派人民の主観によって相対化されてしまう民主制を否定し、少数の知的エリートである哲学者の理性によって見出される絶対的価値の実現を追求しようとする哲人政治を理想的な政治体制であると見なしたのも、形而上学と相対主義(意味喪失)との対立の文脈において考えることができる。

    このような形而上学と意味喪失との緊張関係は、その後の精神史の中で形を変えながらも反復されていくことになる。ここに、西洋思想史において古代ギリシアが常に参照され続けてきた理由のひとつがあるのだろう。

    □ アイスキュロスにおける自然/人間

    伝統的な自然の秩序 physis と合理的な人間の秩序 nomos との対比は、「慈みの女神たち」においては、母殺しを犯したオレステスを糾弾する復讐の女神エリニュスと、父の仇である母とその愛人を殺して復讐を果たしたオレステスおよびオレステスを擁護するアポロンとの対立によって、「救いを求める女たち」では、アイギュプトスの息子たちとの婚姻から逃れようとするダナオスの娘たちと、ダナオスの娘たちから庇護を求められたアルゴス王ペラズゴスとの対比によって、表現されている。

    「コロス[エリニュス] 予言者でおいでながら、社の炉辺を、/われからと自身の招いた/罪の穢れに、奥殿をお染ませなさった、/神々の掟に背き、人間を大切になさり、/生れの古い、慣習の定めを破って」(p286「慈みの女神たち」)。

    「コロス[エリニュス] そもそも神を畏れぬこころは、/事実 増上慢から生まれるもの、/健やかな分別よりして、人みなの/願いもとめる 好もしい幸福は来る。/されば何を措いても 正義を/祭った社を 尊ぶがよい、/けして、神を忘れた爪先をもて、/利益に目が眩れ、正義を侮り/足蹴にするな、罰が当たろうぞ」(p306ー307同前)。

    「コロス[エリニュス] 私らが、こんなひどい目にあうなんて、ああ、/私たち古い掟を護る神々が、この郷にさげすみを受け、/忌み嫌われて住んでいこうとは」(p322同前)。

    「領主[ペラズゴス] だが、あなた方[ダナオスの娘たち]は、けして私の家の火処に坐り込んだというのではない、もし国に穢れが及ぶとなら、それは一つこと、みなの市民がいっしょになって、救済法を骨折って工夫すべきだ。されば、私としては、まず先に全市民にこのことを打ち明けて、それからでなくば、とうていはっきりした約束はできかねるのだ」(p414「救いを求める女たち」)。

    「領主[ペラズゴス] だがな、もしアイギュプトスの息子たちが、国の掟を楯にあなた方[ダナオスの娘たち]を引き立てようとしたら、自分がいちばん近い身寄りだと言ってな、そうしたら、誰がそもそもそれに抗おうとするだろうか。それゆえ、あなた方は、故国の掟によって、身の証を立てねばなるまい。あの者どもが、あなた方の身の上につき、まったくなんの権限もないというのを」(p415同前)。

    アイスキュロスは、伝統的な自然の秩序よりも、合理的な人間の秩序や民主制のほうを、一応は肯定的に評価しているように思われる。それは、彼が physis と nomos の調和の可能性をなんとか信じることができていたからだろう。もし人間の傲慢 hybris が度を越してこのふたつの秩序が均衡を崩すようなことになれば、意味喪失という危機的状況が惹き起こされてしまうことになる。しかし、興味深いことに、アイスキュロスの作品の中にも、形而上的価値の共有による共同性の確保という理念を逸脱してしまっているかのような箇所が見出される。

    「コロス[エリニュス] 時折は、恐ろしいのも結構なこと、/また人の心に、見張りがじっと腰を下ろして/坐っているのも大切と言われる。/痛い目こわさに 道を守って/ゆくのもけして悪くはない。/そもそも誰か、いささかたりとも胸中に/怖れをはぐくみ いだかぬものが、/人間にしろ、また国家にせよ、/なおかつ正義を敬うだろうか」(p305-306「慈みの女神たち」)。

    「アテナ されば私は、市民らに、無統制や暴虐の専制政治を、けして尊び迎えぬよう勧めるのである。また怖ろしさを知る心を、町外へすっかりほうり出さぬように。というのも、人の身で怖れをまったく知らない者が、どうして正しく身を処しようか。されば、このような畏敬の心を保ち、正道に悖るを恐れるならば、郷土の護り、国家の安寧も期して待たれるであろう」(p314同前)。

    ここでは、共同体の価値を理性によって内面的に受け容れることで自発的にその秩序を担うのではなく、即物的な暴力への恐怖心という共同体の価値それ自体とは無関係な外的手段を利用して秩序に従わせることを、秩序維持のための技術として肯定してしまっている。つまり、アイスキュロスも形而上的価値のみに訴えて政治を実践することの困難を自覚していたのであり、彼にとっても自然と人為との調和を安直に夢想することは不可能だったということになる。

    「アテナ またこの市民のあいだに、雄鶏の血気みたいな、国内の抗争、お互い間の気を負ったやり合いなどをかもさないで。戦争は国外だけで十分、名誉に対する強い望みは、そこでいくらも満たされましょう。同じ鳥舎での鳥の喧嘩は、下らぬことです」(p323同前)。

    ここでは、シュミットの「友敵理論」や「政治的なるもの」概念が先取りされているかのようである。しかし、シュミットの理論によれば、国家は、一切の形而上的価値の外部に置かれ、いかなる道徳律や倫理規範からも自立した絶対的な主体である、とみなされる。つまり、国家は善悪の彼岸にある。国家が服従するのは、ただ自己保存(自己利益の増大と敵の殲滅)の意志のみである。諸国家を超越的に統御する価値基準はなく、諸国家同士は同一平面上で永遠に闘争を繰り返すだけである。これは、超越的価値を放棄し、相対主義による世界の意味喪失という状況下で即物的な「力への意志」を絶対化した思想の極北であるともいえる。

    □ 補遺

    子ども(息子)は男が自分の死後も自分の生を延長させるための存在であり、女(妻)は男に彼の生の延長としての子どもを所有させるための「産む機械」である、という家父長制的な価値観が分りやすく表明されている箇所があった。

    「オレステス 子供というのは、最期を遂げた武士にとり、その名を護り伝えるよすが、謂わば漁網を浮かし浮標と同じこと、海の深みへ麻の糸がはまり込むのを防いでくれる」(p241「供養する女たち」)。

    「アポロン だいたいが母というのは、その母の子と呼ばれる者の生みの親ではない、その胎内に新しく宿った胤を育てる者に過ぎないのだ、子をもうけるのは父親であり、母はただあたかも主人が客をもてなすように、その若い芽を護り育ててゆくわけなのだ」(p313「慈みの女神たち」)。

  •  縛られたプロメテウスのみの感想。登場人物で、「権力」がゼウスに頭が上がらない事・「暴力」が言葉を発しない事・「プロメテウス」が火を運んできたためにゼウスに罰せられる事・プロメテウスの側に寄り添っている「合唱隊(コロス)」が女性達である事・ゼウスの息子神でありその伝令である「ヘルメス」が若い青年の姿でプロメテウスの前に登場する事等は、示唆に富んでいて、隠喩に満ちていると思います。作品を読んで、「火を運んでくる者」は革命的な発明や事業を行った者を比喩で表現していると思いました。
     そういった者達を総称して「プロメテウス」と呼んでいるのかもしれません。革命的な事を行ったプロメテウスが半永久的に縛られて罰せられる事は、現代にも通用する隠喩だと思います。詩人・シェリーはこの作品をインスピレーションにして「鎖を解かれたプロメテウス」を造り、マッカーシーの「the road」の作中のキーワード「火を運んでくる」はおそらくこの作品からのインスピレーションだと思います。二千年以上昔の作家の作品が近代・現代の作家の創作に影響を与えるのは、凄い事だと思います。

  • ござる、とかちょっと訳がくせがあって読みにくい。ただ今読んでも舞台の場面はこうかなあ、とわくわくできる、作品集です。ギリシア文化についても、詳しく解説があるが、なかなかいりくんでいるので、知識が乏しいことが疎まれます。

  • 『アガメムノン』は再読である。やはり『オレステイア 三部作』がいい。三部作それぞれのテーマとその統一感、神慮が巧みでいい。『縛られたプロメテウス』もいい。2500年前に書かれた貴重な作品が読み継がれているのは人類の宝である。

  • いろんな経緯があってギリシア悲劇を読む流れになった。
    アイスキュロスさんは壮大で激しい。とてもいい。


    縛められたプロメテウス
    ペルシアの人々
    アガメムノーン
    供養する女たち
    慈みの女神たち
    テーバイ攻めの七将
    救いを求める女たち

    Mahalo

  • 『縛られたプロメテウス』
    人間に火の使い方を教えたために拘束されるプロメテウス。イーオとの会話。ヘルメスの揶揄。

    『ペルシア人』

    『アガメムノン』
    トロヤ戦争の総司令官アガメムノンの最期。オレステイア3部作の第1作。

    『供養する女たち』

    『忌みの女神たち』

    『テーバイ攻めの七将』
    オイディプス亡き後のテーバイ。兄を追放し王座に就いたエテオクレス。アルゴスに援助を求めテーバイを攻めるポリュネイケス。七つの門をめぐる戦い。二人の王の悲劇。

    『救いを求める女たち』

  • 因果という言葉はギリシア世界には無い言葉ではあったけれど、荒れ狂う運命と連なる復讐の連鎖のあさましいこと。因果は巡る。

  • アイスキュロスの「縛られたプロメテウス」、「ペルシア人」、「オレステイア三部作」、「テーバイ攻めの七将」、「救いを求める女たち」を収録。

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アイスキュロスの作品

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