人間、この非人間的なもの (ちくま文庫 な 2-1)

  • 筑摩書房
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感想 : 10
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  • Amazon.co.jp ・本 (270ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480020222

感想・レビュー・書評

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  • 高校生の時に読めず(読んでもピンと来ず)、いまになってようやく読めた気がする。
    2010年代末において、こういう文章が受けるような気はしないのだけど、でも今こそこういうのが必要なんだと思うけどな。
    社会の中での医者の位置づけとかは、現代でも変わらず問題であり続けている話題だし。
    パラリンピックを控えた現在において「スポーツと道具」についての問題提起は、超越されているのだっけ?

  • 20157.25我々は「人間的」というイメージを持っている。そしてその枠から外れた行為を、非人間的と見なす。しかしそれは逆であって、現実を説明するために言葉は生まれるはずなのに、言葉によって現実が歪められている。本来、人間の行うすべての善行悪行は人間的である、なぜなら人間がやってんだから。しかし我々の人間観、人間を見る物差しで見たら、非人間になる。よって「人間、この非人間的なもの」となる。このエッセイで行われている試みは、人間は我々が思っているような理知的、善的、神的な生き物ではなく、もっと愚かで、悪で、俗な存在であり、それこそが人間なのである、という人間観の転換である。なぜそんなことをするのか、それは、非人間と退けることは、臭いものに蓋をするだけで解決には向かないからである。例えば最近の、残酷な少年犯罪、育児放棄、ネット社会の中傷、過去にはアウシュビッツや南京虐殺など、およそ人間的とは言えない諸行があるが、それは彼らが狂っているから行われたのだ、とするのは間違いで、彼らも人間であり、よってその行いも人間的であり、つまり我々の中にも彼らと同じ、狂人性や残虐性があると考えるべき、そういう攻撃性をもつのが人間だと考えるべきということである。少し古い本なので書かれてる内容の事例が知らないものだったり、観念的なところもあったけど、このような、人間を観る際の、現実から出発し思い込みを疑う視点、目の前の事実こそが材料であり、それを自らの価値観で曲げるのでなく、寧ろ価値判断そのものを修正するという視点は、とても勉強になった。また個人的には、我々のいう人間的イメージはとても理性的、つまり顕在意識的存在であるのに対し、この著者は人間の意識では認識しえない、潜在意識的存在に、客観的な視点を投げかけているように思える。人間の理性には自らの潜在意識を認識するのは困難であり(故に潜在、というわけで)、しかしその側面も含め、我々は人間である。我々は様々なことにある程度の思い込みをもって対応することで、余計な負担を脳にかけないようにできているが、時にその思い込みが自らを縛ることにもなる。そして縛られていることにも気付かず、籠の中の自由を得ている人も多いはず。この本は、その籠を認識して壊し、より自由になるための本でもあり、そのためのものの見方を養える本でもあるように思われる。様々な社会的な事例や著者の体験から、善でも悪でもなく事実として、人間の潜在的側面も含めたリアルな人間観を説き、「人間」という固定概念を壊してくれるエッセイ。我々が信じているもの、当たり前と思っている価値観を対象化して改めて問うことは難しい。そもそも、我々は何を信じて、何を当たり前としているのか、あまりにも無意識的で認識することすら難しい。でもそういう視点、見えないものに目を向けて、信じているものを疑ってみる、という視点は大事だと、自由への一歩だと思いました。

    p.s.2015.8.22
    この本とは関係ないのだが、ふと授業でなだいなださんの書籍を扱った時のことを思い出した。そこには、いつか憎むと思って愛し、いつか愛せると思って憎む、という言葉があった。その諸行無常感が仏教的というか。私も、自分や世界に対する理想と現実にたいし、変わると思って諦め、変わらないと思って努力しようと思う。

  • 「穢ないはきれい、きれいは穢い」劇中で ダンカン王を殺害したマクベスが、しきりに手を洗いながら呟くセリフとして、本書で繰り返し紹介されているものです。

    観客はマクベスの姿に狂気を感じる訳ですが、それは「穢いは穢い、きれいはきれ い」であるべきだという客体としてのコンプライアンスを侵す内容だからであり、こ れを嫌い、ケシカランといって糾弾し、破 滅させたいからこそレッテルを貼りたがっている状態が生まれていると本書は指摘し ます。

    痛ましい事件は起こらないに越したことはない。しかし、例えば子供を虐待した、放置した、そういった親に「失格」のレッテ ルを貼りつけることが本当の解決と言える のか。親という立場にたって初めて見える 観点を、貼り付けられたレッテルがタブー にしてしまわないか。そんな事を考えさせてくれた一冊。

  • 「ケシカラン!」「それがどうした?」ーなだいなだ追悼

    最近亡くなった医者であり作家であったなだいなださんの代表的エッセイである。ブックオフで買って本棚にしばらく置いていたが、彼が亡くなってやっと読んだ。
    感想と言うより抜粋。

    ナチスや戦争や凶悪事件などを非人間的な行為だと糾弾する考え方について、
    「こうして、動物の親子を見れば、あなたも、子殺しや子捨てのような行為が、非人間的(残酷である)と人間に呼ばれるのが間違いだとわかるでしょう。それは、非道徳的と呼んでよいにしても、人間的な行為以外のなにものでもないのですから。」


    ナチス、戦争、公害など残酷なことを人間がするのは想像力の欠如が原因と述べて、
    「誰が想像力が欠けることが、もっとも大きな罪なのだと考えているでしょうか。しかし、それこそが、現代人の意識されていない罪深さなのです。私たちが、自分たちの周囲をとりまいている血なまぐさい現実に対して、関心を持つために必要なことは、想像力の豊かさを持つことです。たくましい想像力を持つことは、あなたの属する世界から、血なまぐさい残酷さを消し去るために必要なことなのです。」
    先週「インポッシブル」というインド洋大津波の実話の映画を観て、東北大地震大津波も含め自分の想像力の欠如を痛感した。
    「人間はどうして自己の想像力を失っていくのでしょう。そのひとつが、組織の中への埋没です。(中略)水俣病の場合でも、町や工場の人々は、残酷ともいうべき態度をとりました。もちろん、そこに自分たちの生活がかかっているという意識があるでしょう。しかし、生活がかかっていると思うことが、どれほど私たちを残酷にさせるか、残酷であることを許してしまうかを、考えねばなりません。そこに、組織に属してしまう、個の特性を失ってしまうことの、残酷のはじまりがあります。(中略)組織の中に入った人間は想像力から遠ざかり、現実との接触を失っていきます。」
    この文章が書かれたのは1971年で42年前である。今、原発などの問題を考える時、日本人の考え方や問題点は時代が変わっても変わらないなと思う。

    日本人の「ケシカラン」という体質の危険性について、
    「たとえば、ある事件が起こります。一人は、「それがどうした、おれの知ったことか」とつぶやき、もう一人は「なんだと。それは本当か。ケシカラン」とつぶやきます。それは、その事件に対する、二種類の反応といえますが、それはこの二人の無意識の構造によって、当然みちびかれるべき反応と考えてもよいでしょう。フランス人たちと日常生活をともにしていると、どれだけ「それがどうした。おれの知ったことか」というつぶやきを耳にすることでしょう。そして、対照的に私たち日本人の日常生活では、どれだけしばしばケシカランというつぶやきがもれるのを耳にすることでしょう。」
    「戦前の軍国主義への傾斜は、どうかすると「それがどうした」的無関心が日本が戦争に進むことを避けさせなかったといわれてきました。しかし、私はそうではなく、ケシカラニズム的な民衆の参加が、そこに積極的になだれこませたと考えるのです。戦争の間、同じような服装をさせ、同じように考えさせたものは、平常なものからとびだした、型をはずれたものをケシカルといい興味をいだいた精神を捨て、それをケシカランものとして否定した精神だったのです。」
    「しかし、このケシカラニズムと理性的社会正義の感覚が混同されてはなりません。ケシカラニズムは、感情的正義であるといえるでしょう。(中略)ケシカラニズムは、民衆運動の原点となるものといえるでしょう。しかし、それだからこそ、ケシカラニズムの大きな欠陥を考えねばならない。(中略)それは、感覚的正義であり瞬間的正義であり、純粋正義であるので、民衆運動の原点だと思います。しかし、同時に、それこそが、私たちをファシズムへ参加させる危険をもつものでもあるので。す過去において、ケシカラニズム的な日常感覚が、ナチズムにどれだけ味方したかを考えれば、これからもよほど注意しなければならないでしょう。」
    半世紀近く前の氏の意見であるが、今月の参議院選前に新聞やネットに掲載したくなる内容である。

    閉鎖的な集団について、
    「こうした集団は、どこの国にも存在していますが、その集団と個人のかかわりあいの深さは、国によって変わります。それは、実は集団に属する個人の意識にかかわるといっていいでしょう。そして、作られた集団の閉鎖性は、集団がそれを構成する個人のプライベートな生活を、どこまで縛るかによってはかることができます。(中略)このような閉鎖性の強い集団が存在すれば、はげしい利益の対立の中で、個人も集団とともに(一般社会から、国民からー筆者註)孤立するばかりです。そして、この孤立からぬけだすために、日の丸にたよることになるのです。あるいは国益などという言葉を持ちだすのです。日の丸を掲げることによって、日の丸に掲げられた人たち(政治組織・思想団体・スポーツ団体の長などー筆者註)は、こうして他の集団の閉鎖された扉を開く合鍵をえるのです。」
    「私たちは(市民運動の)「××の会」を越えて、これから純粋に、どこまでも一個人として、個人の権利を守るために、市民としての公正の感覚を梃子にしてたたかうことを学ばねばならないでしょう。集団の利益のためではなく、市民の生活の中に公正の原則を確立するためにたたかうのです。」

    政治家・官僚・産業界のトップたちに耳をかっぽじって聞き、目を眼にして読んで欲しい本である。それともしょせん、あなたたちには理解できても出来ないことなのか。
    この本を雑誌に10ヶ月連載した後、同時進行の日本社会を眺めてなだいなだ氏は「今、私をとらえるのは無力感です。しかし、ここで、やめるわけにはいきません。」と巻末に記している。この本は彼が亡くなった今、今と言う時代への遺言である。
    近い将来、「なださん。最近の日本は少しはましになりましたよ。」と言ってみたい。
    くたばれ!日本社会と我が内に巣食う組織、集団、世間!

  • 精神科医の立場から、でもあまり精神科医であることを活用せずに様々な知を用いて書かれた好エッセイ

  •  私が読んだのは,この文庫本ではなく,1972年発行の単行本の方です。
     なだいなださんは,とてもユニークです。精神科医でありながら,こんな風なエッセイを書いています。それが例えば教育で忘れ去られている原点の話だったり,人生観を揺さぶられる話だったりするのです。
    『人間 この非人間的なもの』というタイトルそのものからして,「なんのこっちゃ」と思われると思います。
     でも,少し読み進めればそれがよく分かります。
     私たちは,理想の姿を勝手に決めて,それからどれくらいずれているかで判断したりしますが,本来なら,勝手に掲げた理想の姿からずれていることそのものも含めて,その「もの」が持っている個性であることに気付きべきなのではないでしょうか。

  • マスコミ志望の方々に是非読んでいただきたい。あと老人も。あと団塊の世代にも。あと子をもつ親たちにも。

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著者プロフィール

なだいなだ:1929-2013年。東京生まれ。精神科医、作家。フランス留学後、東京武蔵野病院などを経て、国立療養所久里浜病院のアルコール依存治療専門病棟に勤務。1965年、『パパのおくりもの』で作家デビュー。著書に『TN君の伝記』『くるいきちがい考』『心の底をのぞいたら』『こころの底に見えたもの』『ふり返る勇気』などがある。

「2023年 『娘の学校』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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