考現学入門 (ちくま文庫 こ 2-1)

著者 :
制作 : 藤森 照信 
  • 筑摩書房
3.56
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本棚登録 : 704
感想 : 40
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  • Amazon.co.jp ・本 (417ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480021151

作品紹介・あらすじ

震災後の東京の町を歩き、バラックのスケッチから始まった。その創始者・今和次郎は、これを機に柳田民俗学と袂をわかち、新しく都市風俗の観察の学問をはじめた。ここからそしてが次々と生まれていった。本書には、「考現学とは何か」をわかりやすく綴ったもの、面白く、資料性も高い調査報告を中心に収録した。

感想・レビュー・書評

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  • 今から100年位昔の日本の町の今を観察し調査報告した考現学。手書き図表や絵の味わいや軽妙な文章が好み。今和次郎氏によると民俗学は過去を探り、考現学は未来を考える立場だと。私的には100年前の風景が脳内再生されるのが楽しい。路上観察学の藤森照信さんの解説も良い。

    • miyacococoさん
      面白そう~読みたい本に登録します!
      面白そう~読みたい本に登録します!
      2021/11/08
    • 111108さん
      髭の形とか女の人の髪を飾る櫛の形とか‥とにかく収集・分類の熱量がすごいです!
      髭の形とか女の人の髪を飾る櫛の形とか‥とにかく収集・分類の熱量がすごいです!
      2021/11/08
    • miyacococoさん
      是非とも熱量を感じたいと思います!111108さん!ありがとうございます♪
      是非とも熱量を感じたいと思います!111108さん!ありがとうございます♪
      2021/11/08
  • この一冊で考現学の概略が楽しめました。

    時代の風俗って
    あとから貴重な資料になるのに
    あんまり記録されないですものね。
    でも、たとえばその時代を舞台にして
    何か創作しようと思ったら
    こんなに役に立つ資料はないのでは。

    例えば銀座の通行人が何を着て何を履き
    田舎の生垣は何でどのように作られているか
    学生のヘアスタイルはどうなっているか
    めちゃくちゃ細かく記録されている。
    一軒の家の中をくまなく調べたのなんか
    舞台装置として再現できるくらいの細かさ!

    調査票が手書きなのも味があって良かったです。

  • 2020.10.31市立図書館 →2020.12.4購入
    路上観察学会の始祖というべき民俗学者によって100年前に提唱された「考現学」のはじまりの一冊。これによって師匠の柳田國男からは破門されたという曰く付き。
    銀座を行き交う人間観察や地方へ行ったときの道具や意匠の観察など実に興味深い。観察するのがほんとうに楽しくてたまらない気持ちが伝わってくる。
    今和次郎独自のことばづかい「ほっちゃらかす」も興味深い。
    二週間ではとてもぜんぶは読みきれなかったので、けっきょく購入。

  • 「民俗学は過去を探り、考現学は未来を考える立場」
    圧倒される。

  • 文末にある藤森照信さんの解説で著者の名前を イマワ・ジロウ と読んでしまい笑われたというのに、自分もしてしまったと読後感に満ちた中でクスッと笑ってしまいました。

    建築学生として「調査とは」という視点で読み進めるとほんと些細なところまで観察しているなという感想をどの章でも感じるばかりでした。

    文体も時々心中をこぼすようなところが読み進めるうちにツボにはまって楽しく読み終えることができました。

    自分も散歩がてらには観察とメモをしようかなと思わせてくれる、いい本と著者に出会えた一冊でした。

  • 軒先ばかり見て歩くスタッフが多いわけですが、ここまで観察しきれていませんね。

  • 「それは大正12年(1923年)の震災のときからであった。しばらく私たちは、かの死の都から逃げ出してしまった芸術家たちと同じようにぼんやりしていた。しかし私たちはそのときの東京の土の上にじっと立ってみた。そしてそこに見つめなければならない事がらの多いのを感じた。」
    それまでの今和次郎は、デザインの技術を生かし、柳田国男とともに農村調査に参加していた。しかし、前述されているように、関東大震災後の東京の荒地に何かを見出した今は、トタンの家をスケッチすることから始める。そして、「考現学」という私造語を作り出し、都市風俗の観察を始めるのである。
     今和次郎『考現学入門』は、そんな彼の仕事の一端が藤森照信によって編集されたものである。そのほとんどが楽しげな雰囲気で書かれているのだが、彼が一番初めに考現学を開始した「焼けトタンの家」だけは、違っている。どことなく感傷的で文学的だ。その人たちが蓄えてきた文化で、焼けトタンで家を建て、生活しようとしている姿。そこに住む人々を見て、今は「黒き、赤き、青きトタンの家よ。それらの住む人々の苦き転化へといかねばならぬ心よ。」と述べている。
    しかし、その世界こそ、彼に観察の楽しさをもたらしたのだ。今は、このようにも述べている。「地震前までは、大都会における事物の記録作成ということはあまりに錯雑なので、手に負えないものだと考えなければならなかったのだった。が、原始的な状態にかえったあの当時の東京では記録作成が容易であると考えられたのである。」その後は、復興していく東京の姿を記録していきたいと考え、考現学を続けていく。
    では、その考現学とは何か。今は、まさに「考現学とは何か」において、自らの考えを述べている。まず、考現学は考古学に対立したいという意識から作られた。考古学が過去の事跡の科学的研究をするのに対して、考現学は現在の生活・文化の事跡の科学的研究であり、社会学の補助として役立つものである。また、考現学の方法は人類学、あるいは民族学なりでも行われているが、彼らが「未開民族」を対象に行われ、これを未開考現学とするならば、それに対し、考現学は文化考現学(文化社会考現学)なのだという。そして、対象とするのは人の行動に関するもの、住居関係のもの、衣服関係のもの、その他である。
    実を言うと、この『考現学入門』には、考現学と名づけられる前の彼の仕事も収められているのだが、あまりにもすばらしい仕事なのでそんなことはどうでもいいだろう。Ⅰには、主に住居関係のものが収められている。「ブリキ屋の仕事」から始めるのだが、スケッチを見る限りあまりにも美しいので驚いてしまった。立派な邸宅にあってもおかしくないような気がするのだ。また、「路傍採集」では、普段気に止めることのない数々のものがこんなにも多様であるのかと驚かされる。特に雨樋には感心した。その後、気になって近所の家を見てみたが、新しい家が多いせいか、どれもかしこも同じであった。ページをめくるたびに、心が躍る。かかしやら、植木鉢やら、店の中やら、見張り台やらと、そこら辺に転がっている、誰も気に留めないものが考現学の手にかかると、こんなにも不思議に見えてしまう。
    Ⅱには、「東京銀座風俗記録」、「本所深川貧民窟付近風俗採取」、「郊外風俗雑景」という3つの地域の調査と、「下宿住み学生持ち物調べ」、「新家庭の品物調査」が行われている。はじめの3つの調査は、東京が震災後、どのようになったかの追跡調査のようなものだ。主に主眼を置かれているのは、おそらく銀座での風俗記録である。その比較対象として深川と郊外が描かれる。今は、風俗について言及するなかで、「風俗の相違は、歴史的伝統とそして自然的環境との相違から生まれる、という風俗の生誕個条へ、貧富の相違からも……とはっきり加えたいと思うのです。」と述べている。つまり、銀座を歩く人々と、貧しい深川の人々と、新しい生活に踏み出した中流の郊外の人々を観察することによって、風俗の相違が生じる背景を汲み取ろうとしたのだろう。同じ東京とはいえ、人々の風俗は全く別様のものである。特に興味を引いたのが、女児の髪型である。深川では日本髪の名残も見えるし、基本的にはルーズなのだが、郊外のほうは、きちんと編みさげされた髪や、ボブカットのような髪の子までいるのだ。それぞれの調査結果を見ていても、それが同じ東京であるとは思えない。また「郊外風俗雑景」には、賃家札と看板が収められている。そこが郊外であることを感じさせる言葉がちりばめていて、興味深い。他の2つの調査(学生の持ち物と、新家庭の品物)では、持ち物における個人的特徴やら、その人の生活ぶりなどが覗き見られてしまう。持ち物は、その人を表すというが、まさにその通りである。
    Ⅲでは、いままでとは志向の違うものが収められている。本書の中で、私が一番興味を抱いたのは、趣味が悪いと言われそうだが、「井の頭公園春のピクニック」と「井の頭公園自殺場所分布」である。(どうやら、今は自殺場所について他にも調べているらしいのだが。)ある人にとっては、ピクニックを行う楽しい場所でも、ある人にとっては「いい死に場所」であるという事実。人はまったく異なるように空間を捉えているということがよくわかる一例である。今もいっているように、まだまだ調査が足りないのかも知れないが、私たちが地理感覚に敏感になるためにはいい資料といえるだろう。それから、「郊外住居工芸」という調査がある。郊外で出会った、棚と垣根、門などである。
    Ⅳには、本当に雑多なものがちりばめられている。誰かが、調べていてもよさそうだが、おそらく今にはかなわないのではないだろか。「宿屋の室内・食事一切調べ二つ」をしたかと思えば、「欠け茶碗多数」、「洋服の破れる個所」、露店大道商人の人寄せの人だかり」や、「女の頭」、「学生のハイカラ調べ」などだ。宿の評論をする人はたくさんいるが、ここまできっちり調べている人はいるのだろうか。特に「欠け茶碗多数」は、こんなことを思いつく人はいないだろう。(それにわかったところで、陶器であれば改善するのは難しそうだ)
    Ⅴは、「住居内の交通図」、「机面の研究」、「レビュー試験場はさまざまである」、「物品交換所調べ」がある。
    そして、最後に「考現学とは何か」「考現学総論」「考現学が破門のもと」と、今が自ら創設した考現学について、非常に丹念に述べている。おおむね納得できるのだが、若干違和感を覚えることもある。
    それは「現代文化人の生活ぶり、その集団の表面に現れる世相風俗、現在のそれを分析考査するのには、その主体と客体の間に、すなわち研究者と、非研究者の間に、未開人に対する文明人のそれのように、あるいは犯罪者に対する裁判官のように、われわれが(調査者)が一般人のもつ慣習的な生活を離れて、常に客観的な立場で生活しているのであるという自覚がなかったならば、あまりにも寂しいことのような気がするのだ。」という部分だ。本当に私たちは自らの慣習から自由になれるのだろうか。それはいささか、不可能なことではないのか。それよりは、自分自身の身につけている習慣について知ることこそが(それはおそらく他者の習慣を知ることで可能になる)、重要なのではならないのだろうか。
    しかし、そのことを差し引いても、やはり今和次郎の仕事はこれからも参照されるべきものだろう。また、今自身が述べているように、応用考現学の可能性もある。寡聞にして知らないが、おそらくこの考現学が他の学問に蒔いた種はいたるところで芽を出しているに違いない。
    聞くところによると、今はいつもラフな服装でズック靴を履いていたという。本当かどうかは確かめられないが、そういう逸話が残ってしまうくらい、彼の仕事が尊敬されていたということなのだろう。「破門された」とか「小使いさん」として早大に入ったとか、ウソをいう、ちょっとひねくれたところも面白い。
    未来を探る考現学。本書を読んで、路上を歩きたくなった。

  • 今和次郎『考現学入門』(と『ワンピース』1から50巻まで)読破。今和次郎が柳田邦男翁のところを破門されていたとは知らなんだ。

    でもComparative Ethnographyってこの頃から使われているのね。今読んでるのは恥ずかしながら『考現学入門』。学生時代あまりに赤瀬川源平に熱狂している男子が多くて読むに至らなかった経緯あり。聞きかじり読みかじりの予測可能範囲ですが面白い。

    あと今和次郎の『性分によるのだろうが、ものを考えたり書いたりする仕事場はガラクタだらけの場の方が私には似つかわしいようなのだ』っていうのは絶賛言い訳として使用したい。

    (ついったから拾い上げ)

  • 「考現学」とは考古学に対するものだとすると、ほんとうは”考今学”とするべきとは、本書にも書かれている。でも著者としては、そんなのどっちでもいいという。
    自分はひょっとすると、ご自分の苗字が「今」だから避けたのではないか?と、真面目に感じた。たとえば師匠の柳田国男との”別れ”のエピソードなどを読むと、今和次郎という人は、そんなことも感じさせる人だ。
    本書を読む前は、銀座などの都会人の生態を観察する程度しか知らなかったが、その視線は驚くほど多岐にわたっていることを今さらながら知り得た。井の頭公園の考現学は実に驚く……。
    そして観察の苦労話も切々……。たとえばいくら”古き良き時代”としても、プライバシーへの配慮は十分なされねばならない。”ヘンなのがうろうろしている”と警戒心を持たれれば、観察どころじゃなくなるのは、今と同じなのだ。
    対象物の中に「カケ茶碗多数」があるが、何十種類もの欠けた茶碗の図も載っていて、正直はじめは呆れたが、しかしふと思った。これってそれこそ考古学じゃないのか、と。アルバイトの人たちが土中から、刷毛で丁寧にかけた食器類などを掘り出している図が頭をよぎったのだ。
    著者は「考現学は、時間的には考古学と対立」と述べているが、無意識に(あるいは意識的か?)考古学へのオマージュもあったかもしれない……、と想像してみた。

  • 赤瀬川原平らによる「路上観察学入門」を読んで、「考現学」という言葉を知った。

    考古学は遺跡から掘り出されたものから当時の生活を想像するのに対し、考現学は現在の日常生活で目にするものを起点に社会について考える。

    今では考現学的な視点でのアプローチは当たり前になっているが、当時は著者の今和次郎らによるフィールドワーク的な取り組みからどんどん根付いてきたのだろう。

    今和次郎らは、関東大震災が考現学の原点となった。
    現代はコロナ時代。身の回りの変化を記録することで、コロナで何が変わって何が変わらなかったのか、社会はどう変化していったのか。
    細部に目を配ることで、社会全体を冷静に見定める。まさにいま、考現学的な視点をもつことが重要だと感じた。


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著者プロフィール

1888年、青森県弘前市生まれ。建築学者、風俗研究家。1912年、東京美術学校図案科卒業。17年頃から郷士会へ参加、柳田国男らと農村・民家の調査を行う。20年~59年まで早稲田大学教授。23年の関東大震災後、吉田謙吉とともに「バラック装飾社」や「考現学」を始める。その後の研究範囲は服飾・風俗・生活・家政にまで及んだ。73年没。

「2022年 『ジャンパーを着て四十年』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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