方丈記私記 (ちくま文庫)

  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480022639

作品紹介・あらすじ

1945年3月、東京大空襲のただなかにあって、著者は「方丈記」を痛切に再発見した。無常感という舌に甘い言葉とともに想起されがちな鴨長明像はくずれ去り、言語に絶する大乱世を、酷薄なまでにリアリスティックに見すえて生きぬいた一人の男が見えてくる。著者自身の戦中体験を長明のそれに重ね、「方丈記」の世界をあざやかに浮彫りにするとともに、今日なお私たちをその深部で把えて放さぬ伝統主義的日本文化を鋭く批判する名著。毎日出版文化賞受賞。

感想・レビュー・書評

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  • しかし、方丈記の何が私をしてそんなに何度も読み返させたものであったか。
    それは、やはり戦争そのものであり、また戦禍に遭逢しての我々日本人民の処し方、精神的、内面的処し方についての考察に、なにか根源的に資してくれるものがここにある、またその処し方を解き明かすよすがとなるものがある、と感じたからであった。また、現実の戦禍に遭ってみて、ここに、方丈記に記述されている、大風、火災、飢え、地震などの災厄の描写が、実に、読むほうとしては凄然とさせられるほどの的確さを備えていることに深くうたれたからであった。またさらにもうひとつ、この戦禍の先のほうにあるはずのもの、前章および前々章に記した「新たなる日本」についての期待の感及びそのようなものはたぶんありえないのではないかという絶望の感、そのようないわば政治的、社会的変転についても示唆してくれるものがあるように思ったからであった。政治的、社会的変転についての示唆とは、つまりはひとつの歴史感覚、歴史観ということでもある。

    堀田善衛は「方丈記」という字数にして9000字あまりの文を、東京大空襲に遭った1945年3月10日から上海に出発する3月24日の間、集中的に読んで過ごしたという。ほとんど暗証できるほどになぜ読んだか。その説明が上記の文章である。ここに書いている「絶望の感」とは、具体的には、堀田が3月18日に出合った光景をさしている。

    1945年3月18日、堀田善衛は焦土の東京・深川をあてどもなくさまよい、冨岡八幡宮に出たところで昭和天皇の焦土視察に遭遇するのである。そこで見たのは焼け出された庶民の土下座であり、涙を流しながら「陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざ焼いてしまいました」という小声の呟きだった。堀田は心底驚く。その時の感想が以下の文章だ。

    人民の側において、かくまでの災厄をうけ、しかもそれは天災などではまったくなくて、あくまで人災であり、明瞭に支配者の決定に基づいて、たとえ人民の側の同意があったとしても、政治には結果責任というものがあるはずであった。(私は政治学に籍を置いていたことがあった)けれども、人民の側において、かくまでの災厄をうけ、なおかつかくまでの優情があるとすれば、日本国の一切が焼け落ちて平べったくなり、上から下までの全体が難民と、たとえなったとしても、この、といまのことばを援用して言えば、体制は維持されるであろう、と私にしても、何程かはやけくそに考えざるを得なかったのであった。前回に書いた新たなる日本が果たして期待できるものかどうか……。

    しかも人々のこの優しさが体制の基礎になっているとしたら、政治においての結果責任もへったくれもないのであって、それは政治であって同時に政治ではないことになるてあろう。政治であって同時に政治ではない政治ほどにも厄介なものはないはずである。(p65-66)

    堀田はこれを「無常観の政治化」と呼ぶ。

    それは長明の以下の文章に直結するのである。

    世にしたがへば、身くるし。したがはねば、狂せるに似たり。いずれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。

    古京はすでに荒れて、新都はいまだならず。ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり。

    これ以前の青年堀田は、すこしレーニンを齧り、天皇のいない日本を夢想していた。しかし、焦土の東京でそのような「新都」は夢なのだと悟ったのである。長明から受けた感覚というのは、そういう歴史感覚、「歴史というものがあるからこそ、我々人間が持たなければならぬ不安、というものであった」。

    少しわかりにくい。堀田はそこから考えを進めて、戦中戦後の「歴史の転換期」においては、常に「古京はすでに荒れて、云々」でしかない、つまり「歴史はそういう形でしか、人々の眼前に現出することができないのだ」と思い知るのである。

    堀田はもちろん、方丈記を戦中戦後の「転換期」のなかで「再読」した。それがゴヤの伝記等に結実したのだろう。我々には、また我々の課題がある。我々に課せられているのは、これまた、震災後の「転換期」のなかで、「方丈記」を「再読」することではないのか。

    原発事故があって、「たとえ人民の側の同意があったとしても、政治には結果責任というものがあるはずであった。けれども、人民の側において、かくまでの災厄をうけ、なおかつかくまでの優情があるとすれば、日本国の一切が焼け落ちて平べったくなり、上から下までの全体が難民と、たとえなったとしても、この、といまのことばを援用して言えば、体制は維持されるであろう、」
    今のところ、人民はホント「優しい」。

    期せずして、来年の大河は「平清盛」である。映像でも我々は平安末期の戦乱と、地震と、火災の災厄を見ることになるだろう。

  • ちくま文庫グランドフェア2017より。

    初版は1988年。
    巻末に五木寛之との対談あり。

    東京大空襲を受けて、筆者は『方丈記』を繰り返し読むのだった。
    冒頭に描かれる、そのエピソードの中には、天皇が焼野原を直接訪いなさった際、筆者は(どう責任取るんだよ)と内心思っていたところ、そこにいた人々が土下座をして「私たちの努力が足りませんでしたので……」と話したことに仰天する。

    このことが後に、「本歌取り」をただ重んじる日本の根深さに繋がっていくのだろう。
    この場合の「本歌取り」とは、現実を見ずに日本の伝統を憧憬しろという脅迫的システムを指している。または古歌を知る人に力があるという権威主義とも言える。
    そしてそれは、分かち難く日本文化に根付いているものだからこそ、幻であっても目を眩ませる光をたたえる。
    長明は、「本歌」に憧れた身ではあったが、やがてそうした「本歌取り」たる御所の本質を見抜く側に回っていくのであった。

    地震の被害の多い昨今、筆者と同じく『方丈記』に私も辿り着いたわけだが、災いの向こう側にあるいわゆる殿上人達はどうしていたのか?
    変人と呼ばれながらも、世と関わり、世を疎んじた長明が書きたかったのは見えるものだけではなかったのかもしれない。

    また、定家との対比も面白い。
    長明が世から外れ、しかし散文において世を明らかにしようとしたのに対し、定家は世に在って、歌という抽象世界を理論で纏めあげようとした。
    定家についての著作も、機会があれば読みたい。

    巻末対談で五木寛之が述べているように、ピラミッドでさえ半分壊れかけているのに、紙に書いた何十枚のものが残る「国」である。
    共感する。
    そして、長明にしろ兼好にしろ、同じスタンスで人の集まりを見つめてきた作品が、折に触れて温度を持つことは、なぜか嬉しい。

  • 宮崎駿が敬愛してやまない堀田さん。

    次回作という噂があり読んでみたものの、古文が難しく大苦戦。
    半分理解できたかどうか...。

    冒頭の東京大空襲について書かれたところや、堀田さんが思う鴨長明について書かれた部分はとても興味深く、
    「現実を拒否し、伝統を憧憬することのみが芸術だったからである。」といったように、煌びやかな部分のみ取り上げ語り継がれている歴史に対しはっきりと否定したり、
    東京大空襲のあと、誰もが乞食に近い状況の中、天皇が小豆色の自動車で、ピカピカの長靴を履いて、荒れ果てた土地の上を歩く姿を見て「こういうことになってしまった責任を、いったいどうしてとるものなのだろう。」「こいつらのぜーんぶを海のなかへ放り込む方法はないものか。」などと言える潔さにとても好感を持ちました。

    そういう鋭い眼をもった堀田さんから見た鴨長明がまたとても魅力的で。
    方丈記、いっかいちゃんと読んでみようと思いました。
    方丈記を読んでから、また方丈記私記を読んだらもっとこの本の魅力がわかるような気がします。

  • 小説家である著者が、鴨長明の『方丈記』の内容をみずからの戦争体験とかさねつつ語った本です。

    火災に見舞われた京都のようすをしるした『方丈記』の叙述を、著者は東京大空襲後のみずからの体験とかさねながら紹介します。著者が驚いたのは、多くの人びとを死に追いやった戦争のあとにも、そのような帰結をもたらした日本の歴史を根底から変えるような動きが現われず、そればかりか著者自身もそうした運命を受け入れてふたたびこの国の歴史の変わることのない流れを支えようとする人びとの優しさに、みずからも共感をすらおぼえたということでした。「ああいう大災殃についての自分の考え、うけとり方のようなものが、感性の上のこととしてはついに長明流のそれを出ないことを悔しく思った」と著者は述べています。

    こうした著者の問題意識は、世の中の動きから弾き出され、恨みごとを語りつつも、仏道に邁進して俗世間を相対化するのではなく、その一端に自己をつなぎ止めていた長明という人物の態度へと向かっていきます。著者は、長明のシニカルなスタンスをつくり出すことになった彼の真理の襞にせまりながらも、たとえば西行や道元などと比較することによってそれを切り捨ててしまうことはありません。長明が捨てきれなかった「私」をえぐり出してそれを「おそろしく生ぐさい」と評しつつも、それが「長明の「私」であったとすれば文句を言う方が間違っているのである」と語る著者のスタンスも、長明の処世の態度に接近しているように見えます。あるいは、そうした態度をとることへと著者自身を引き込んでいく、長明のつくり出す磁場を、このようなしかたであぶり出すことが著者のねらいだったのでしょうか。

  • 宮崎駿の愛読書ということで購入。
    確かに面白い。言わずと知れた古典、方丈記を堀田善衛が執筆時の現在と重ねて読み解く。
    人間、鴨長明の一筋縄ではいかない人物像も浮かび上がる。
    現代にも続く国民性批判など、この本自体も読み継がれるべき古典だと思う。

  • 堀田善衛 「方丈記私記」

    方丈記を個人的に解釈した本。私記とは言え、かなり違和感がある

    著者は 鴨長明を ジャーナリストのように捉え、死の直前には 拠り所の仏教すら批判したとしている。著者が目付けしている文章をつなげると そう見えなくもないが、少し強引な論理構成に思う


    方丈記の「終わりが始まり」という無常思想を度外視しているように感じる。方丈記の結論が 仏教否定となると、方丈記に 思想的価値はないということになるのでは?発心集との関係性も説明できないし。

  • 非常に面白い、けれど理解し切れていないところがまだまだ多いと感じる。読む前と読んだ後で方丈記の印象ががらっと変わるのは確か。歴史書がこうも自分ごとのように面白く読めたらいいだろうなあと思う。歴史は繰り返すのか。
    これを読んで、鴨長明って実はすごくロックな人なのではと思った。

  • (2012.12.06読了)(2012.11.26借入)
    【平清盛関連】
    『方丈記』を読んだので、前から気になっていたこの本も読んでしまうことにしました。
    著者は、書き出しで、以下のように記しています。
    「私が以下に語ろうとしていることは、実をいえば、われわれの古典の一つである鴨長明「方丈記」の鑑賞でも、また、解釈、でもない。それは、私の、経験なのだ。」(7頁)
    読者としては、鴨長明や『方丈記』について、あまり語られることのない本なのか!?と思って読みだしたのですが、そんなことはありませんでした。
    堀田さんの大東亜戦争体験(東京大空襲、戦時下や戦争直後の生活、等)と『方丈記』の記述内容を比較しながら、鴨長明のすごさを述べたり、同時代の公卿たちの書いた日記と『方丈記』の記述を比較しながら、両者の関心事の違いを述べたりしています。
    鴨長明の鎌倉行きについては、堀田さんは、目的が不明としています。この本を読む前に読んだ本では、就職活動に行ったと書いてあったのですが。
    鴨長明による藤原定家の歌論批判については、ほかの本では触れていなかったようなので、新鮮でした。

    【目次】
    一 その中の人、現わし心あらむや
    二 世の乱るゝ瑞相とか
    三 羽なければ、空を飛ぶべからず
    四 古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず
    五 風のけしきにつひにまけぬる
    六 あはれ無益の事かな
    七 世にしたがへば、身くるし
    八 世中にある人と栖と
    九 夫、三界は只心ひとつなり
    十 阿弥陀仏、両三編申してやみぬ
    対談 方丈記再読  五木寛之・堀田善衛

    ●日本は衰えた(53頁)
    人民はつねに、「日本国は衰へにけり」とか「日本国ノ有無」などと言い出す連中に対しては、長明にならって「疑ひ侍る」眼を持つべきであろう。
    (野党第一党の代表が、そのようなことをいっているようですが)
    ●新たなる日本(92頁)
    戦時下の、当時において私が考ええた新たなる日本とは、煎じ詰めて言えば、要するに天皇なき日本、という、ただそれだけのものであった。
    ●鴨長明の時代(161頁)
    怖るべき生活難の時代であった。それは難であっただけでなく、積極的に、「戦乱で、泥棒をしなければ生きられない、あるいは人を傷つけなければ生きられなかった。」時代であった。すさまじいまでに、「狂せる」かと思われるまでに、近親者を蹴落とさなければならなかった。
    ●日野山(181頁)
    長明が隠れて入り、親鸞がそこで生まれ出で、その後の事としては中世から近世へかけての政治の攪乱者たち(日野冨子・等)を京へ送り込んでいる。
    ●生活四条件(184頁)
    兼好法師は、人間生活のギリギリの条件として四つの事をあげている。そのミニマム四条件は、衣、食、住、医である。
    ●本歌取り思想(222頁)
    本歌取り思想、文化に必然的に伴ってくる閉鎖的な権威主義は、批評をも拒否するものは新たなる創造を拒否するものである。
    ●有職故実(224頁)
    この時代の、兼実の玉葉日記、定家の明月記に、最も情熱をこめて書かれてあることは、世の移りかわりでも何でもない。それは宮廷の、儀式、典礼、衣裳、先例、故実、行列の順番、席次など、まとめて言って有職故実であり、それらの事を事細かに書かれた日記は、実は子孫に伝える大切な財産でもあった。子孫は、この日記にしるされた先例、故実の知識を振り回して威張り、かつ飯の種にすることができる。

    ☆関連図書(既読)
    「方丈記」鴨長明著・武田友宏編、角川ソフィア文庫、2007.06.25
    「鴨長明『方丈記』」小林一彦著、NHK出版、2012.10.01
    ☆堀田善衛さんの本(既読)
    「ゴヤ 第一部」堀田善衛著、新潮社、1974.02.15
    「ゴヤ 第二部」堀田善衛著、新潮社、1975.03.20
    「ゴヤ 第三部」堀田善衛著、新潮社、1976.03.20
    「ゴヤ 第四部」堀田善衛著、新潮社、1977.03.25
    「スペイン断章」堀田善衛著、岩波新書、1979.02.20
    「情熱の行方」堀田善衛著、岩波新書、1982.09.20
    「スペインの沈黙」堀田善衛著、筑摩書房、1979.06.20
    「時代と人間」堀田善衛著、日本放送出版協会、1992.07.01
    「バルセローナにて」堀田善衛著、集英社文庫、1994.10.25
    「路上の人」堀田善衛著、新潮文庫、1995.06.01
    (2012年12月7日・記)

  • 〈付〉対談 方丈記再読
    五木寛之・堀田善衛

    この作品は一九七一年七月一〇日、筑摩書房より刊行された。

  • まだ最後まで読めていないので、来月に持ち越し。方丈記と合わせてまた4月に。

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