- Amazon.co.jp ・本 (737ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480024138
感想・レビュー・書評
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ちくま文庫
柳田國男 全集13 「先祖の話」「日本の祭」など
神や霊魂に関する 各地の民俗伝承を集めて、日本人の霊魂感、死生観、自然信仰を 体系化しようとした 凄い本。
あの世とこの世の境界線や通信手段を 民俗伝承から 抽出しており、盆、正月、祭り、家、先祖の意味がよくわかる構成。
先祖を家の神として祭るという思想に ギリシア神話や一神教と全く異なる 信仰スタイルを感じた。血縁関係に囚われておらず、共同体の中で、家を守るという 日本人の姿が印象に残った
神と霊魂、先祖と家の深い関係
*先祖は 各々の家が 祭るべきもの(日本の先祖祭思想)
*盆に還ってくる先祖は ほとけ様
*先祖から譲られたものは 本家に属する。それを削って 家を弱めては 先祖にすまない
*霊は 永久に この国土に留まり、遠方には行かない詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
NHK100分de名著:3月の名著
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柄谷行人さんの柳田国男の作品を読んでからこの全集を読み始めました。1巻からこの13巻まで読み進めてきて直観したことがあります。それはイマヌエル・カントと柳田国男についてです。
10年以上前にネットで柄谷さんの対談を読んだことがあります。たしか坂部恵さんと柄谷さんの対談でした。そこにはカントの「視霊者の夢」について書かれていました。興味を覚え図書館のカント全集を取り寄せコピーしました。今も手元にそのコピーがあります。その時、その作品の前に掲載されていた作品が「1765年-66年 冬学期講義計画公告」でした。それをなんとなく読んでみて意外と感動したのでその部分もコピーしました。
柳田国男さんはさとる(覚る・悟る)ことが学問の目標であると言っています。覚るために考えそしてさとるためにこそ学問があるのだという。この姿勢がカントの言う学生と学者と全く同じことを言っています。
引用(1765年-66年 冬学期講義計画公告 イマヌエル・カント)
《考えてみるに、人の認識は本来、こう歩む。まず悟性が形成されるが、これは、悟性が経験から直観的に判断をして、この判断を通じて概念を得ることによる。この上で、このような概念は、理性を通じて原因と結果の関係のなかで見られ、最後に学問のよって、秩序ある全体のうちで見て取られるようになる。
指導
教師には、自分の学生からまず悟性的人間を、ついで理性的人間を、そして最後に学者を育てることが期待される。
学生が最後の段階にまるで到達しなかったとしても、この学生は得るところがあったのであり、学校向けにではないにせよ、人生に向けて前より練れて聡明になったはずである。》
ここに書かれているカントの言葉はまるで柳田国男さんの姿勢と民俗学のことだと得心しました。そうなので直観したのです。柳田国男さんのいう覚りとは悟性的人間であれということであり、そしてその直観からくる概念を理性によって考え結果と原因の関係の中でみることは理性的人間あれということであり、学問として成立させることは秩序ある全体に中でみてとられることであり学者であれということである。これは柳田民俗学の成立過程を示している。
学生=学者であるということである。この学生=学者という関係性について最近面白い話を聞いた。先日、柄谷行人さん等の話を直接聞く機会があった。そこで柄谷さんは学生運動の可能性が労働者運動の可能性であると言っていた。それは現在の大学は労働者製造工場(例 就職活動)であり学生=労働者である。すなわち学生運動は=労働者運動のことを示しているという。
学生はカントによると悟性的人間、理性的人間、学者を期待される。そして学生=学者=労働者である。柳田国男の民俗学にある抑圧された社会主義の回復とはそういった過程を経てあり得るのだろうと思った。柄谷さんは最後に自分も学生であると言われた。ナザレのイエスもそういった姿勢の中で捉えることが正解であるというよりこのようにとらえなければ不毛である。
10年以上前によんだカントの作品が柳田国男を理解する助けになるとは予想していなかった。僥倖である。 -
ちくま文庫に、柳田國男全集あり。素晴らしい仕事。この13巻には「先祖の話」が入っていたので買ったのだった。
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ちくま文庫から「柳田國男全集」全30巻が出たのは、今思うともの凄く画期的なことだった。が、出版社も生き残りがかかっている。売れなければ絶版にしていくほかないだろう。目下この文庫版全集、有名な「遠野物語」の入っている4巻と、この13巻だけが生き残っているようで、じきにこれらも消えて行くに違いない。既に他の巻は古書で求めるほかなくなっている。もっと買っておけばよかった、と今更悔いても取り返しが付かない。
さてこの13巻は「先祖の話」など、先祖や祭をテーマとして編まれているようだ。
巻頭「先祖の話」がいちばん印象的で、これは昭和20年、どうやら柳田國男は戦争の終結をすでに予測しつつ、戦時下にこつこつと書いたものらしい。その切迫感やら、若者たちが死んでゆくもの悲しさが、文章ににじみ出ている。
柳田の文章は解説にあるとおり、随筆なのか論文なのかはっきりしないような、曖昧なスタンスにあるし、現在の我々にはなじみのない言葉(古いモノの名称)がぽんぽん出てくるためにイメージが掴みにくかったりする(図版がほしい!)けれども、まあ、そう焦らずに、のんびり読むのが正しい鑑賞法だろう。
「お盆」は「盂蘭盆」というように、通常は仏教に由来する行事と言われているが、柳田國男はそうではなく、日本的・民俗的な祖先への信仰から来ているものと主張している。
死んだ祖先をまつり、その祖霊がやがて土地に根ざす神として信仰されるという構図は、確かにそうだったかもしれない。柳田はさらに「神道と民俗学」等において、そうした信仰が神道として形態化されていると語っているようにおもわれる。
この神道の位置づけや、現代にも残っている「祭」のもともとのカタチなど、この本には興味深いテーマが沢山こめられている。
しかしながら、柳田國男と我々、高度経済成長後の世代とのあいだにも、決定的な断絶がある。明治以降の日本社会は、歴史的に断絶の連続だと思う。その一方で、「昔」の面影がなんらかの姿を呈して現在の社会にも残っており、その意外な「連続性」の認識に感興をそそられるのが、民俗学を読む楽しみだ。 -
(2010年清水正之先生推薦) 日本人の宗教性を考えるとき鈴木大拙『日本的霊性』などと共に必読。