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- / ISBN・EAN: 9784480027252
感想・レビュー・書評
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第一章
祖母の死。悲しい場面ではあるが美しく、時に滑稽に情景が描かれる。最期には生命が失われるとともに、祖母の肉体からは人生の幻滅も去ってゆく。残された祖母は微笑みを浮かべた汚れのない乙女のような顔をして横たわる。
第二章
アルベルチーヌとの突然の再会。霧の夜ステルマリア夫人のすっぽかしからのサンルーとの晩餐。パルマ大公夫人を迎えてのゲルマント侯爵夫妻の晩餐会。ゲルマント侯爵夫人の才気。その後のシャルリュス氏訪問。意味のよく取れないシャルリュスの言動。ゲルマント大公夫人からの誘い。この誘いを確かめるためにゲルマント侯爵夫人を訪ねる。再会したスワンは病に侵されている。ゲルマント侯爵夫妻はスワンを置いて出かけていく。
第一章は短く密度が濃く死の場面が美しく描かれる。第二章は特にゲルマント侯爵夫妻宅での社交の場面が長くゲルマント侯爵夫人の才気走った様子が延々と続く。その後のシャルリュス氏の態度もよくわからない。この後解決されるのだろうか。最終盤は次編への若干の仄かしをしながら、突然もう先の長くなさそうな状態でスワンが現れるところが哀しい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
読み始める前の印象。これから「私」の祖母が死にゆくことは何となく推測できる。私自身にとってもっとも刺さる巻になりそうな予感。
あと、毎度表紙の左上端にある絵を楽しみにしているのだけれど、今回はクリムトの「接吻」かあ。。。前巻の絵はけっこうグッときた。読後、なるほどそういうわけだったのか、と思いたいのだが。。。
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第1章読了。祖母は死んだ。肝心の臨終の場面で語り手は急に祖母の死後直後の「先取り」をする。この自由さにまず痺れる。また、見舞いに来たゲルマント氏が祖母の死をめぐる騒動と並べられることによって際立つその、社会階級の虚しさ。このような状況において人間の真価は出るのだが、こうしてにわかにかき混ぜられた階級は、その後の社会生活はどのように復旧されるのか。
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ゲルマント公爵夫人への「私」の思いが冷めるにつれ、なぜか彼女への言及が無駄に多くなってくる。不思議なことに、そんな思いの冷却に反比例して、良きにつけ悪しきにつけ、彼女の人間的魅力が増してくるのが本書の魅力だということは間違いない。だって、いつになったらゲルマント公爵夫人宅による晩餐会が始まるんだよ!
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と思ったら、晩餐会の描写の長いこと。公爵夫人やら大公夫人や大使やら、誰が誰だかわからない。しかもみんな親戚っぽくて。それに、だんだんとゲルマント公爵夫人に対する見方が意地悪くなってきた。
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巻末、危篤状態にある親戚から逃げるようにして晩餐会に出かける、あまりに軽薄なゲルマンと公爵夫妻が、病気で死にかかったスワン氏と別れる場面、胸潰れる。 -
「ゲルマントのほう」はとにかく長かった。
ゲルマント家との交流を中心に祖母の死や、アルベチーヌとの再開、シャルリュス氏の不思議な態度、ドレフュス事件など様々な展開があり、ようやく大作の半分読み終えたのかー、といった感じ。
晩餐会で語られる美術、音楽、文学などの芸術論は興味深いんだけど、ちょっと眠たくなっちゃう感じもあった。
でも、やっぱり続きが気になる。 -
マルセル・プルーストは、1922年に死去。遺稿がまとめられ、『囚われの女は』作者の死後一年経ってから刊行された。
物語は四篇からの続きになる。
アルベルチーヌとの別れを決意をした語り手は、アルベルチーヌに同性愛の疑いがあることを知って、バルベックから彼女を連れてパリの自宅に戻り、同棲をはじめる。
当時のフランス社会において、結婚しない男女が男性の自宅に住むということが、どのような意味あいを持つのかよくわからないが、父親の書斎を彼女の部屋にするという大胆さに驚く。
しかし、冒頭から何度も語られるのは、語り手は、アルベルチーヌには愛情はなく、彼女に対する嫉妬のために自分の監視下に置き、彼女を囚われの女にしているのである。
囚われの女というと、なんとなく映画の「ガス燈」を思い出すのだが、アルベルチーヌは、イングリッド・バーグマンのようにシャルル・ボワイエを盲信しているわけでなく、語り手のお金で贅沢をし、嘘もつきつつ、外でもよろしくやっている。
男女間の嫉妬心というのは、相手のことが好きであるという感情がないと存在しないものかと思っていたが、通常概念は捨て去り、アルベルチーヌが、同性愛に走らないよう呪縛することで精神安定をみる語り手の回想に読者はつきあう。
この巻にきて、語り手の名前が「マルセル」であることがはじめて明かされる。
プルーストが推敲し出稿したなら、名前のことに関してはもしかして違う結果になったかもしれないと推測する。
一方、他の登場人物はどうなったかというと、シャルリュス氏は、相変わらずモレルにお熱で、同じく同性愛の相手の元チョッキ職人のジュピアンの姪とモレルの結婚を望んでいる。
しかし、モレルは、ジュピアンの姪に下品な言葉を浴びせ、二人の結婚はなくなってしまう。
かつて、語り手の憧憬の作家であったベルゴットは、フェルメールの展覧会に出かけ(プルーストも死の前年にフェルメール展に出かけ、気分不良になり、その時の経験がこの場面に挿入されたらしい)、≪デルフトの眺望≫の黄色い小さな壁面を見ながら倒れ死んでしまう。
語り手は、ヴェルデュラン家のサロンに久しぶりにひとりで出かけるが、スワンとオデットが出会った家から今はコンチ河岸のそばに移されている。
半盲のブリショとの語らいで知るスワンの死。
スワンの容態が思わしくないのは頻繁に語られていたが、スワンの死は語り手に悲しみとショックを与えただけでなく、我々読者にも時の流れを意識させる喪失感がある。
ヴェルデュラン家のその夜の夜会は、シャルリュス氏主催のもので、モレルの指揮するヴァントゥイユの七重奏を聴く。
シャルリュス氏の口からオデットの男性遍歴やゲルマント大大公も同性愛者であることなどが語られるが、性倒錯についてのプルーストの思いを垣間見る思いがする。
この夜会で、シャルリュス氏は、モレルに捨てられ、そののち、彼は風邪をこじらせて肺炎になり生死の境を彷徨った。
プルーストの遺稿の出版を急いだためか、死んだことになってるサニエットがのちにまた登場したり、同じく死んだことになったコタールが夜会に登場したりと矛盾がみられる。
アルベルチーヌと語り手は、ドストエフスキーのことなどを語らうが、彼女との同棲生活は、自分が嫉妬していない時は退屈でしかなく、自分が嫉妬している時は、苦しみでしかなく、その間に幸せな時があるとしても長続きはしないと悟り、ヴェネツィアへの憧憬を増してゆく。
アルベルチーヌの占有にも飽き、ヴェネツィア行きを決めた語り手は、女中のフランソワーズに旅行案内書と時刻表を買いに行くために呼びつけた。
そして、フランソワーズから、アルベルチーヌが邸をひとりで発ったことを聞き、蒼白になるのだった。
「囚われの女」は、どうも性的傾向の相違と言おうか、語り手の倒錯した妬心にしても、シャルリュスの老執にも似たモレルへののぼせあがりや、モレルのランボーさえも顔負けの奔放さ(モレルは縦横無尽のお調子者なのでランボーとは全くキャラが違う)など、感情移入ができにくい感があった。 -
死を迎える祖母と周囲の描写!すごいな
脱線万歳脱線命のストーリーにもいい加減慣れてきた。
つまらなく、斜め読み気味のページに突然凄い事が書いてあったりして気が抜けない。 -
全10巻の大河小説、第5巻。折り返し地点です。前半、祖母の死をめぐる記述が印象的。後半の社交界描写は少々単調かも。しかし、相変わらずの冷徹なほど客観的な視線での描写には、やはり退屈させられることはありません。いかにも次章へのプロローグ的なラストシーンが、次巻への期待を高めます。
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