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- / ISBN・EAN: 9784480027306
感想・レビュー・書評
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終刊にして、本作は第一次世界大戦に突入。フランス本土は突如戦場と化す。「ソドムとゴモラ」の意味がこうした形で具現化。燃えるパリ。
シャルリュスの存在が一挙に際立つ。彼はドイツの血を引き、同時に同性愛者である。フランスが女とすれば、ドイツは男(あるいはその逆でもよい)。そんな彼が、戦火のパリにおいてドイツの立場にもくみしていることの意味。これは同時に、男に、あるいは女になりきっている、あるいはなりきろうとしている人々への、あるいは、フランス国民になりきろう、ドイツ国民になりきろうとしている人々への、痛烈な批評だ。また、シャルリュスのマゾヒズムも、深い。
中盤は芸術論と文学論。ドゥルーズの引用で有名になった箇所が登場。理知や理論への痛烈な批判。
老いによる、つまり時間の経過による、人格および容貌の劇的な変化(あるいは変化のなさい)に対する考察に入った。本作を読み始めたのはたしか、昨年の9月か10月頃。ほんの数日前に祖母を亡くした私にとって、あまりに身につまされる内容で、まるで、祖母を亡くす準備をするために本作を読んでいたかのような錯覚を覚えた。特に、老いるにつれて、すべての欠点を失ってしまった人物に関する言及が、私の心情をピンポイントで串刺しにした。
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ついに読了。当初は死ぬまでにプルーストを一度は通読しなければという気持ちで読み始めたのだけれど、いま、再読したくてうずうずしている。次は吉川訳で。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
20220614 遂に最終巻を読了。かつて真面目に書いていた自分のブログに依れば、最初の巻を読み始めたのは2013年の2月らしいので、まさに十年仕事である。ともかく生きている&視力のあるあいだに曲がりなりにも読み了えられて良かった。もしも時間と健康が許すなら、今度は吉川訳で、もう一巡したいものである。
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見出された時2020-1-26読了
シャルリュス氏のpromiscuous さのあとから始まる午後のパーティの冒頭、あの紅茶に浸したマドレーヌにら対応する新たな体験から復活する話者の文学的な野望。それが形になったものがこの作品というメタ的な構成。
とりあえず読み切ったという満足感があるけど特にゲルマントの図書室での心の中のシーンはもう一度よく読んでみたい。
失われた時を求めて全体としての乱暴な感想
展開するストーリーで読ませるわけではない。ストーリーはもちろん展開するけどペースがゆっくりしすぎ。世界文学の括りで出てくるドストエフスキーなんかとは全然違う。雰囲気で読んでいく、というのも全体からすると少し違う。特にコンブレーはそう感じたけど。スワンの恋は共感か反感だろうし花咲く乙女たちの影には憧れ、ゲルマントの方は色々な意味での忍耐、ソドムとゴモラは驚きと忍耐、囚われの女は秘密、逃げさる女は焦り、見出された時は絶望からの希望(しかし世界は絶望に満ちている)
メゼグリーズのタンソンヴィルとコンブレー、ゲルマントの一体性。サンルー夫人となったジルベルトは幸せではない。話者は懐かしい土地にいる感激もなく、自分は人の意見に流されているだけで文学の才能がないと嘆きサナトリウムに向かう。
戦時下のパリでのシャルリュス男爵はジュピアンに経営させているホテルで若い男とSMプレイに興じる。
話者は再びサナトリウムに行くがサンルーが死に出発が遅れる。
このサナトリウムも話者の病気を治癒するには至らない。サナトリウムを出てパリに向かう汽車の中、話者は再び文学的な才能のなさに胸を打たれる。野原の真ん中に汽車がとまり、夕日が線路に沿った一列の木々を照らしている風景を見ても何も心には起こらない。詩人の感覚は起こらない。
久々のパリでゲルマント大公邸でのパーティの招待を受け出かける。耄碌しながら相変わらずのシャルリュス氏とすれ違い、着いたゲルマントの館。そこで踏みつけた少し落ち込んだ敷石。p135その瞬間、突然の幸福感が舞い降りる。バルベックの周辺を馬車で散歩したときにどこかで見た木々の眺め。マルタンヴィルの鐘塔の眺め。マドレーヌの味などの感覚から来る幸福感。文学的な才能の不在は吹き飛ばされた。それはヴェネチアのサン・マルコ聖堂の洗礼堂の不揃いな二面タイルの感覚。
ゲルマントの館で通された図書室で文学への新たな取り組み方に目覚める(もう一度他の訳でも読んでみたい部分)。ゲルマント大公邸での午後のパーティは昔ながらのメンバーが見かけも役割も変わって現れる。話者の記憶の中の人々とその時現れた人々の違い。それぞれの昔と今を繋ぐそれぞれの濃密な時。時は人の足元にどんどん積み重なっていく。私は自分の遥か下に、といっても自分の中にあたかも千尋の谷を見下ろすように、多くの年月を望み見てめまいがするのだ。人間は生きた竹馬にとまってその生涯を送り、その竹馬はたえず大きく成長していき、ときには鐘塔よりも高くなり、ついには人間の歩行を困難にするばかりか危険にしてしまって人間はそこから突然転落する…
話者は自分の出会った人々を時の中に膨大な一つの場所を占めるものとして描いていく事を心に決める。
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ついに読破!マルセル・プルーストの超大作。
失われた時が見出されます。無意識的記憶を呼び覚ますマドレーヌ体験と同じ体験をして、無意識的記憶の状態を突き止める主人公。
そして、主人公はこれらの体験全てを書きとめるためとてもとても長い小説を書く決意を固める。この小説を書き始めるところで、この小説は終わるのです。こうしてまた第一部から読んでねってことなのか?
長い長い物語の全てがこの「見出された時」に集約されております。 -
『失われた時を求めて』という大長編小説の最後の巻。
マルセル・プルーストが、「完」Fin と記し、この長い長い物語を書き終えたのは、1922年、すなわち、亡くなる年の春だと思われる。
前にも書いたが、一篇から四篇までは、生前刊行。二篇目の「花咲く乙女たちのかげに」で、ゴンクール賞受賞。
五篇から七篇までは、プルーストの遺した原稿をまとめて、死後出版された。
そのため、登場人物の生死の食い違いや、人物の印象の相違など、推敲の不十分さが見られる。
『失われた時を求めて』という本の一巻を手にとって読み始めてみた方も多いであろう。
でも、有名なプチット・マドレーヌが出現する前に、あまり起伏のないその平坦な長々しい回想の文章に飽きてしまう。
かつての私もそうであり、何度読んでも頭を空回りするような描写にプルーストを読むという動作を容易に放棄してきた。
読むという覚悟を決め、読むことをやめないという日々を繰り返したが、どうも、主人公のマルセルのことが好きになれず、途中からは理解もできなくなってしまった。(プルーストが、主人公のマルセルに反映する同性愛的要素や女々しさ、執拗性など)
しかし、すべてを読み終えた今、この最後の七篇、「見出された時」のために、この長編小説を読んできたのだと思う。死に隣接する時間のなかで、失われゆく時を文学作品として閉じ込めた。その必然性の意図もすべてこの最後の巻で明らかになる。私は、一巻目を読み始めたときのようにマルセル・プルーストにもう一度きちんと向き合い、この物語を一緒に回顧しながら、第一次世界大戦前のパリのよき時代に思いを馳せる。
「見出された時」は、ジルベルトの別宅であるタンソンヴィルに主人公が滞在している場面からはじまる。
バルベックに滞在している時に知合い友人となったサン=ルーと語り手マルセルの初恋の相手であるスワンとオデットの一人娘であるジルベルトの結婚は、語り手を驚かせたが、結婚後のジルベルトは、幸福ではなかった。
サン=ルーは、彼の叔父であるシャルリュス氏を翻弄させたモレルと同性愛の関係にあり、その倒錯の隱蔽するためにあちこちに愛人を作っていた。
のちに、モレルは、脱走兵になるのだが、当のサン=ルーもその後戦死してしまう。
サナトリウムで病気療養していた語り手は1916年パリに戻る。
戦時下のパリは、ルーブルをはじめすべての美術館は閉鎖されており、戦争は思いのほか長く続く。あんなにフランスを揺り動かしたドレフェス事件も忘れ去られようとしている。
コタールも死に、ヴェルデュラン氏も亡くなった。シャルリュス氏も老いたが、モレルに対する思いは断ち切りがたいのか、狂恋のような思慕を抱き続けている。
そして、語り手は、ショッキングな場景を目にしてしまう。
元チョッキ職人のジュピアンのホテルで、シャルリュス氏は、モレルに似た若者に自分を鞭打たせていたのだ。
プルースト本人もこのような場所に出入りしていたらしく、このあたりの細部にいたるリアリズムは、震撼を覚えるほどで、シャルリュスに自己投影しているプルーストの倒錯趣味がうかがえる。
時は流れ、戦後、療養から再びパリに戻った語り手は、ゲルマント大公邸の午後のパーティーに出かける。
この章が、『失われた時を求めて』の総括の章になっていて、今まで小説に登場した人物たちが、時の流れを経て現われる。
ゲルマント大公夫人は亡くなっており、なんと、ヴェルデュラン夫人と再婚し、彼女は、大公夫人になっている。
シャルリュス氏は脳卒中後回復はしたもののますます老いさらばえ、ジュピアンに世話をして貰っている。
アジャンクールは、この上もなく誇り高かった顔は見る影もなく、あちこちがぶよぶよゆれる溶液状のぼろのようになっている。
オデットの美しさは変らなかったが、3年後には、仮面の下に老いを隠すことは不可能になり、耄碌したただの老人になってしまう。しかし、以前から彼女は、ゲルマント公爵の愛人になっており、語り手に今も変らずやさしく接してくれるゲルマント公爵夫人を悲しませていた。
学校の頃からの友人であったユダヤ人のブロックは、ジャック・デュ・ロジェという筆名で物書きとして成功しており、健康そうだ。
ジルベルトは太って語り手は挨拶されてもわからなかったほどだが、話を始めると信頼は結ばれていることがわかる。
パーティでは、朗読のため、女優が呼ばれていたが、その女優とは、昔、サン=ルーの愛人であったラシェルで、今は、ラ・ベルマをも凌ぐ大女優になっている。
そして、ジルベルトから娘を紹介される。
ジルベルトの傍らの16歳くらいの少女は、ゲルマントという大貴族出身のサン=ルーを父に持ち、ジルベルトというユダヤの血の入ったブルジョアを母に持つ、語り手が遠い昔、多くの夢想を紡ぎ出した二つの対する方向の融合の造形化であり、少女の伸びた背丈は、時の隔たりを示しているのだった。
時の流れによって世界の事物の形象は変化する。絶対だと思われていた決定的なそうしたことも完全な変化を遂げ、時代は移り変わってゆく。
老齢という現実は、われわれがそれの純粋に抽象的概念をもっとも長く生活において持ち続ける現実であり、芸術作品こそ「失われた時」を見出す唯一の方法だと気づく。
そして、そうしたすべての材料は、人生の生きてきた時にあるのだと。
長い長いこの小説を読み進めるにあたって、私は、重要だと思われる部分にラインを引きながら読むことを決めた。
10巻すべて、赤いラインと上部に書き込んだ注釈で本は埋められている。
学生の時に、教科書に同じようなことをしたが、その作業も実は、『失時』を読むのと同じくらい疲労する行為だった。
三篇までは、別の本も間にはさみつつ読んでいたが、四篇からは、集中してぶっつづけで読み耽った。
死が近づいたプルーストの、死の観念は恋の観念のように決定的に自分のなかに居すわってしまったという文章は、ゲルマント大公のパーティーに認めた老いの悲しみや、時代の変遷、時間の流れを的確に描ききる。
私たちは、生れ落ちたその時代を生きており、時を失いながら終焉に向かっている。
---私はこう言おう、芸術の残酷な法則は、人間は死ぬということ、われわれ自身もあらゆる苦しみをなめつくして死ぬであろうということである、そのために忘却の草でなくて永遠の生命の草、みのりゆたかな作品のしげった草は生え、その草の上に幾世代もの人たちがやってきて、その下に眠る人々のことなど気にもかけずに、楽しく自分たちの「草上の昼食」をするだろう。---『失われた時を求めて』ちくま文庫10巻618p -
男色家シャルリュス男爵の無残な老いさばらえようにぎょっとします。
人物それぞれで「時」の現れ方が違うのですね。
マルセル・プルーストの作品





