山頭火句集 (ちくま文庫)

著者 :
制作 : 村上 護 
  • 筑摩書房
4.05
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本棚登録 : 471
感想 : 42
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  • Amazon.co.jp ・本 (396ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480029409

作品紹介・あらすじ

家を捨て、妻子とも別れ、俗世の一切から放たれて、「行乞流転の旅」の日々を、一行の俳句に託すしかなかった山頭火。うしろすがたのしぐれる放浪の俳人の全容を伝える一巻選集!自選句集「草木塔」を中心に、作者の境涯を象徴する随筆も精選収録する。

感想・レビュー・書評

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  • 出家をし、四季折々の大自然の中で一人きりの自分を見つめる、とても素直な句が並んでいる。
    だが、物乞いしながらの生活でありながら酒を飲めばキリがなく…というのが実態。
    それでも山頭火には俳壇の仲間が居たし、何だかんだと食べ物を届けてくれる友が居たようだ。

    山や風や雨、草花や鳥、食事、山頭火を取り囲む全てが俳句の題材となり、
    文庫を手にした私達も一緒に風を感じ、鳥や虫の音を聞き、野の花を見る。
    山頭火と共に季節を巡る事が出来るのだ。
    彼の句が素直であるが故のことと思う。

    よく知られる「分け入っても分け入っても青い山」は文庫を開いて初めの方に登場するが、
    それ以降も
    「捨てきれない荷物のおもさまへうしろ」
    「人が来たよな枇杷の葉のおちるだけ」
    など味わい深い句が並ぶ。

    例えば、
    「かるかやへかるかやのゆれている」
    かるかやというのはススキに似たイネ科の植物。
    「かるかやのゆれている」の前に、方向性を示す「~へ」を使って「かるかや」を重ねると、かるかや同士が重なって生い茂り、風に揺れている様子が伝わってくる。
    言葉数も少なくシンプルで、素直に詠んだだけなのに、私達もその景色を共に見ることが出来る程。

    本書は、間に小崎侃の木版画も楽しめる他、後半に随筆、年表、さくいん、解説と並び、たっぷりと山頭火の世界に浸ることが出来る。
    先に随筆と解説を読んでから句を読み始めると背景が分かって良いと思う。

  • たまにはこういうのもいい。すごくいい。
    型にとらわれていなくて、わたしはすごく好き。
    破天荒という言葉が合う人生だったようだけれど。

    数ページに一度登場する絵も、可愛いと感じてしまう。

  • 日常に疲れたら、引っ張り出して少し読み、またしまいます。
    まだ何も無い時代にタイムスリップして、鳥のさえずりや虫の声しか聴こえない長閑な風景の中に身を置きたい時にオススメです。

  • 「句集」というような本は、自身の読書傾向の中では少し異色ということになるのかもしれない。
    「読書傾向」と言えば少し大袈裟に聞こえてしまうかもしれないが、日頃読む本の分野、種類を想うと「句集」というモノに思い当たらない。
    自身が読むのは、歴史上の様々な時代を背景にした時代モノ、作中で発生した事件の解決を図る警察モノや探偵モノというような感じの作品を中心とした種々の小説作品、何かの知識の紹介や何事かを巡る著者の見解が説かれるような各種の論、随想と呼ばれるモノというようなモノが専らであるように思う。
    挙げたようなモノは「散文」である。対して「句集」となれば、詩歌の類で「韻文」である。「韻文」の範囲という感の「句集」は、余り顧みない。そういう意味合いで「読書傾向の中では少し異色」という程度に思った訳だ。
    「少し異色」は排されるべきでもない。それでも珍しいので「何故、選んだ?」ということになる。
    実は以前にも山頭火に関する本は読んでいた。これは御本人の随想(=散文)を集め、若干の解説が入った本だった。
    振り返ると、中学生位の頃に気に入って愉しんでいた学園ドラマで、主人公の国語教師が山頭火作品を愛しているという設定で、作中にその名や一部作品に言及が在って記憶の隅に在ったのだ。今般の「句集」を見掛た時、何か「偶然に山頭火と再会?」というような気分にもなり、入手したのだった。
    山頭火は独特な人生を歩んでいる。不運というのか、恵まれた境涯から少し様子が変わって行ったというような感で、結果的に僧侶として托鉢をしながら各地を巡るというような暮らし振りとなり、その中で独特な句を創ることになるのであった。
    「陪堂」(ほいとう)という言葉が在るそうだ。本来は「 禅宗で、僧堂の外で食事のもてなし(陪食(ばいしょく))を受ける」という意味であるというのだが、転じて「物乞い」というやや否定的な意味合いで用いられる場合も在る感の語だという。山頭火は禅宗の僧侶ということではあったが、明確に何処かの寺に属するのでもなく各地を巡っていた。そして語の起りのとおりの「陪堂」という行動をしていた。が、1960年代頃に御本人に在ったことが在る方が未だ多く存命であったような時期、研究家が話しを聴いてみようとすれば「あの陪堂の…」と、「物乞い」をしていた人物というような話しが頻出したそうだ。
    そういう活動、或いは「何らかの金銭や食料を施して頂きながら旅を続け、続ける旅の中で句を作る」ということが、山頭火にとっては「人生そのもの」という様相を呈していた。その作られる句というのは、俳句の約束事というようなモノを排した「自由律」と呼ばれる独特な、一行詩のような感である。何処かを歩きながら、ふと漏れる言葉のような、少し独特なリズム感が在るような句であると思う。
    本書は、山頭火が発表している句の中から多数の作品を択んで掲載していて、後段に若干の随想が在って、選者による解説が添えられているという体裁だ。山頭火の句そのものをゆっくりと味わうことが叶うような感となる。
    「どうしようもないわたしが歩いてゐる」という句が以前から気に入っていたが、他にも色々と気に入ったモノに出会った。幾つか挙げる。「分け入つても分け入つても青い山」、「また見ることもない山が遠ざかる」、「さて、どちらへ行かう風がふく」、「更けると涼しい月がビルの間から」、「おもひでがそれからそれへ酒のこぼれて」というような辺りが記憶に残った。
    加えて、5行が一連のモノのようになっている「山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春夏秋冬 あしたもよろし ゆふべもよろし」というのも好かった。
    本書には収録された句の索引が在る。辞書の方式に、50音順でキーワードが並べられている。例えば「と」で「どうしようもない」が在れば、「どうしようもないわたしが歩いてゐる」という句の掲載ページが示されているのである。これは便利だ。
    もしかすると、この山頭火というのは「時々御会いしたい御仁」という具合に、何となく自身の眼前に作品等が現れてしまうのかもしれない。一頻り本書を読んで、何かそういう不思議な気分に包まれている。
    本書は、手が届く場所に置いて、時々読むというような感じでも好い一冊だ。出逢って善かった。

  • 「分け入っても分け入っても青い山」
    「まっすぐな道でさみしい」

    中学の時だったか「自由律俳句」というものがあることを知った時「これだと何でもありじゃないか」「自分にも作れそう」と思った気がする。若い時、古典の部類に入るようなものは、あまり意味もわからず暗唱したりする感覚を、「好き」なんだと、ある意味錯覚ともとれるような感じでとらえていたことは確かにあった。そこにあったのは古いものに対する憧れ、ロマンのようなものだったんだと思う。しかし「好き」と言いつつも、その「好き」の中には、俳句とか和歌のようなものが「とてもありがたいもの」「芸術的な価値が高いもの」という感覚は含まれてなかった気がする。そもそも俳句自体をどこか軽視していたかもしれない。そんな短い表現で世界を切り取れるものなんだろうかと。しかし、相応に年をとって、多少人生の辛苦をなめたからか、とてもこういうものが「前よりはわかる」気がしてきた。そして容易に作ることのできるようなものではない、ということもわかってくる。自身の「好き」の質もどこか変わってくるものなのだなと思ったりする。

    山頭火の句は、山頭火自身の身体感覚と直結しているような気がする。ただ、これは山頭火に限らなくて、最近私が、短く鋭利な表現形式をとるものについて、なんとなく身体と紐づけて考えてみたい、という気分があるからだ。これは他のレビュアーさんの文章もだいぶそんな気分を喚起する材料になっている。ただ、そこを割り引いても、目に映る風景をそのまま写し取ったように読めるものの中に、何か「感覚」のようなものが残っているような、そんな気がするのである。口ずさんだ時に、その感覚まで召喚されるような。

    随筆も面白かった。小林一茶を評している文章はけっこう興味深く読んだ。山頭火が語る「実作をしている者にしかわからない感覚」については、私もよく考える。一読者が感じ取れるものには限界があるのかもしれないと。高橋源一郎さんの「ニッポンの小説2」にもそんなことが書いてなかったかな。

    中学の時に教科書に載っていた句を探し求めたけれど、見つけることができなかった。山茶花か彼岸花が出てくる句だったように思い、そういうものはいくつかあるのだが、どれもしっくりこなかった。「歩きつづける彼岸花咲きつづける」とかではなかったように思うのだが… これだったかな… 覚えてないだけなのかもしれないけど…

  • ワタシが逝った時には棺おけに入れてください。

  • 第72回アワヒニビブリオバトル「【復路】お正月だよ!ビブリオバトル」第7ゲームで紹介された本です。
    2021.01.03

  • 山頭火の句は瑞々しい

  • いままでまったくわからなかったものがやっと何となく感じることができ始めてきた。
    「朝まゐりはわたくし一人の銀杏ちりしく」

  • 孤独を愛しているようであり、一人を嫌っているようであり、寂しさがあり、自然があり、そこに山頭火の死への憧憬すら見え隠れする。
    滑稽さと静寂が染み入りました。

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著者プロフィール

尾崎放哉と並び称される、自由律俳句の代表的俳人。放浪の人生のなか、句を詠みつづけ、自ら終の住処と定めた愛媛県松山にて没した。

1882(明治15)山口県西佐波令村(現・防府市)に生まれる。本名は種田正一。
1913(大正 2)『層雲』に初入選。「山頭火」の号を用いる。
1916(大正 5)酒造業が破産。妻子を連れて熊本に移住。
1919(大正 8)心機一転、上京。アルバイト生活を送る。
1920(大正 9)妻サキノと戸籍上離婚。
1923(大正12)関東大震災に遭い、熊本に帰郷し仮寓。  
1924(大正13)泥酔して市電を止め、報恩寺で参禅の道へ。
1925(大正14)出家得度。僧名「耕畝」。 
1926(大正15)すべてを捨てて行乞流転の旅に出る。
1932(昭和 7)第一句集「鉢の子」刊行。
山口県小郡町に草庵「其中庵」を結庵。
1933(昭和 8)第二句集「草木塔」、1935(昭和10)第三句集「山行水行」、1936(昭和11)第四句集「雑草風景」、1937(昭和12)第五句集「柿の葉」刊行。
1938(昭和13)山口・湯田温泉に「風来居」を構える。
1939(昭和14)第六句集「孤寒」刊行。
10月1日松山へ。
10月6日四国遍路へ 11月21日松山へ帰る。
12月15日 松山市内の「一草庵」に入庵。
1940(昭和15)句会「柿の会」を結成。
自選一代句集『草木塔』を発刊。
第七句集「孤寒」刊行。
10月11日末明、脳溢血(診断は心臓麻痺)で死去。享年59歳。

「2021年 『山頭火句集 草木塔【復刻版】』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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