心地良い酸味のある、ラズベリーのメレンゲクッキーのような本。
阿久悠と和田誠の対談を文藝春秋で連載していたのかな。それを1985年に書籍化したと思う。
アマゾンとかの評価が低かったので図書館で借りなかったんだけど。なんだよもう。ちゃんとおもろいじゃん。ぷんすか。
阿久悠には他にも自身の生い立ちや心に残る名曲(他作品)への想いを綴ったものや、スター誕生、残念ながら売れなかった歌ばかり集めたものなど数冊のみ読んだけれど、こちらは対談ということもあってか表現もやさしく、内容も軽くなっている。その軽さが欠点のみにならないのは対談者和田誠の「引き出し上手」なところなんでしょうかね。内容はしっかりあるものの口当たりは軽い。ともかく他の歌回想録に比べてスラスラ読める。
作詞家になる前、代表曲、各スターへと時代を下りながらタイトルもうつっていく。
かなり前半の「七五調」
ここでは七五調が古臭いと型破りなことを試す阿久悠に周りが諭すところから始まる。日本人は大衆はそうじゃないんだよと。阿久悠は言葉を選んでいるが要は電通の名台詞「バカにも分かるように」が業界のコンセプトと言いたいのだろう。が彼は100を60に落とす従来のやり方を拒む。100あるなら110出せという。そこで話は展開し
「森昌子や新沼謙治は好感度で必ず上位に来る。歌上手いね、また見てもいいねと。それは第一衝撃。でも金掴んで外に出てレコード買いに行くかというとそうはならない。それは第二衝撃。歌は歌の中だけで競ってはいられない。人間何が楽しいかの中で競わないとね。」と。
彼が作品のクオリティは勿論、売り上げ枚数や賞に執着しているのは決して表面的なことではない。彼の相手は他の作詞家や彼らが手掛ける歌手だけではなく、700円で買えるもの、ハンバーガーやインベーダーゲームをも含むということか。
開始22ページで心掴まれるワタシ。
ざんげの値打ちもない(こんなシャンソン調になるとは思わなんだ。刑務所のパートはカットして正解。)、青春時代(暗い歌詞なのにこの曲なの?と思った)、また逢う日まで(サンヨールームエアコン)などがあって「森昌子」「アイドル歌手」について。
森昌子がラジオの時代ならひばりの再来で売り出したかもとはなるほど。テレビ全盛時に13歳の少女を売り出すにはジュニア演歌しかなかったわけだ。そして大ヒットを受け「学園もの」の継続が決まる。これも阿久悠の本意ではなかった様子。
アイドル歌手の歌は他人が歌わない。これは演歌のように競作がないということね、なるほど。
いわばブロマイド。究極は湯川れい子作詞の松本伊代。ほんとそうね。
岩崎宏美はカタカナ路線で続けたもののデビューに格好書きの漢字が入るのはスタ誕スポンサーのライバル会社のお菓子がデュエットだったからと。
シンデレラハネムーンは0時に帰らないといけない男女の歌なのにみんな間違って歌ってるとは確かに。
「スター実像」
阿久悠は歌手の実像をあまり知りたくないと。その点沢田研二はプライベートを隠して素晴らしいとある。また沢田研二と岩崎宏美はずっと書いていたい歌手だと。特に岩崎宏美は没個性で歌に入り込まず客観的なところがいいと。「何か個性があるとそこが光らないと次がない」
対談でもこういうことをさらっと言っちゃうのが阿久悠。身体の中が詩で埋まってんのね。
和田誠の岩崎宏美イラスト。大丈夫?これ。
ひまわり娘はロンドンで曲もらって停電の中電気も暖房も無しにその場で作詞つけたと。天才かよ。
「和田アキ子」
「あの鐘まで。やってれば面白かったかもだけど顔知られずにもっと壮大な歌とか。何をやればとかもう思い浮かばない。だって歌なら歌で裏切れるけど司会だ何だで拍手もらってるし。本人も歌がやりたいと言いつつあんまり思い詰めてない。歌は基本二枚目だから。でも研ナオコは違う。コントが歌に入り込まない。歌の方が本当でコントがそれを隠す嘘に見える。細く儚げだ。ジュリーもスターがシャレでやってる。」
これは和田アキ子が読んだらかなりショックを受けるのでは。歌手としての本気具合、汚れ具合を明確に区別され阿久悠から捨てられたのだ。阿久悠だけが執筆していればここまであからさまな言い方にはならなかっただろうし、研ナオコは?ジュリーは?と阿久悠の持論を崩すような反対例を挙げる和田誠もいない。対談ならでは。
和田誠という潤滑油を得て本来なら言わなくてもいいことがツルッと滑り出る。阿久悠の心の中では「だって和田誠が」と免罪符も得られる。本当に言いたかったことなのかな。まぁホリプロが切ったのかも知れないし。(デビューの時に阿久悠に迎えにいかせるくらいだけど)
阿久悠は言葉こそ選んでいるが続けて読むと「コントや司会が影響」どころか「汚染」「穢れ」と聞こえる。どれほど本業は歌手だと言ったところで和田アキ子の歌手としての花はもう地面に落ちてると言われたようなもの。拾い上げて茎に挿したところでもうそれは花ではないのだ。
私の周りでもそういう人はいる。
日本に色彩が戻った、高度成長期での望郷、倦怠期の恋人たちの会話の代わりとしての林檎。
フニフニは久世プロデューサーからの依頼という林檎殺人事件。
阿久悠が手のひらをかざすと、世の中の空気が勝手に文章になるよう。
舟唄。TVやステージでは季節や雰囲気によって違う歌詞のダンチョネ節を歌わせたかったと。(非実現)阿久悠のプロデュースセンスたるや。
で、中盤。「映画的手法」
画面スイッチで書きたい。雨が降るからではなく全体の風景に対する人物の大きさで悲しさを表現したい。主人公より意味ありげなエキストラ。客観。俯瞰。AでA’と来る作曲家にはA’と出来ないような字数で挑戦する。
なんだよもう。これ以上好きにさせないでよ。
「ピンクレディ」
「沢田研二でハリウッド、ピンクレディでディズニーランド、都はるみで俺も日本人。」
「ピンクの葬式やったらどうかと思ったがレコ大の頃と重なった。」
「湯町エレジーやかえり船を前奏から思い出すのと同様ピンクは振りも思い出す。」
阿久悠はウォンテッドを英語でなければダメだと主張したが時代的に通らなかったらしい。今日初めて気付いたが歌詞は全て英語のWantedでカタカナはタイトルしか出てこない。
ちょっとタイトルで遊んでたコミック調だったのがサウスポーからはっきりと子供向けで作り出したと。だよね。渚シンまではまだ大人向けだよね。
UFOが宇宙人もUFOも出てきてないのも今初めて気付いた。あれは地球人なのか宇宙人なのか分からない、とにかく未知との遭遇の歌なのだ。反省。
「グレートレース」「ハタリ」「海底探検」「大統領選挙」
次の「人事」では、熱い勝負は恋の気分となるのを弱く悔しいとしている。「ここで恋の気分と書かないと歌にならないのか」と。大自然を野球の勝負だけを歌って心情を伝える歌手がいないから?いや聞き手の問題だと思う。
メルヘンだったポップスが現実に、現実だった演歌がメルヘンに。
「校歌」建物に感謝なんておかしい。むしろ建物の方が君ら元気でやれよと言うべきと。この前に宇宙戦艦ヤマトや契りを通して軍歌について語っているが(残る歌は概ね悲惨な記憶とセット)この辺りの感覚は昭和15-20年に物心がついた人達特有の感覚を感じる。
作詞と作詩。体内でポエムになればいい。
「作詞法」では聴く側が理解しない習慣がついているとボヤく。この本が出たのは今から40年前の1985。当時すでに日本の一般視聴者のレベルはかなり下落していたのだ。ちょうど昨日録画していた鬼滅の刃を観たが、阿久悠がこのアニメを観たら泡吹くだろう。理解しない習慣どころか、離乳食を匙で一口ずつアーンだもの。
「A面B面」当初B面予定乙女のワルツ。アレンジやり直しで大シンフォニー。但しエンディングのようだとクレーム。ドリフの箪笥かよ。
「作詞家作曲家」では自身となかにし礼がホテルの男女についてどう書くかを想像している。山口洋子ならタバコは、谷村新司なら朝は。