- Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480056078
感想・レビュー・書評
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柳田國男を問い直す、といった内容。同じような話を、最近の民俗学会で聞いた。ちなみにこの本は1994年に出ています。これは一概に民俗学の停滞を示すとも言えないと思うのだけど、17前にすでに民俗学と柳田を分けて考えようとする風潮があったことは学史的には興味がある。柳田のテクストから像を結ぼうとする姿勢は正しいと思った。
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柳田国男は「民俗学」の創始者として知られている。だが著者は、柳田の思想の全体を「民俗学」という統一的なイメージで描き出すことなどできないと考える。本書は、「民俗学」を構築する以前の柳田がおぼつかない足取りで紡いでいった思索の軌跡をたどることで、「柳田民俗学」という統一像にいくつもの亀裂が走っていることを明らかにする試みだ。新書でありながら、たいへん刺激的な論考だと思う。
著者は、明治四十年代から大正末年にかけての柳田の前期思想に注目している。この時期に書かれた『後狩詞記』と『遠野物語』の中心には、平地とは異なる時間に浸らされた「山」に対する関心が位置している。古代先住民の末裔である山人は、定住農耕の村の外部に漂泊しながら、平地で農耕を営む低住民と交渉をもっていた。
このテーマをめぐって、柳田は南方熊楠と論争を戦わせている。南方が、かつては存在したが現在の日本には存在しない「原始人類」のようなものとして「山人」を理解していたのに対して、柳田は、敗残して山に入った先住民の末裔として「山人」を理解しており、しかも彼らは平地民と混淆しつつ現在の日本にも存在すると考えていた。こうした柳田の発想の根底には、現在の「日本人」が多くの種族の混成によって成っているという発想があることを著者は指摘している。
だが、こうした柳田の発想は、後期の「一国民俗学」の形成によって閉ざされてしまうことになった。その転換点を、著者は『郷土研究』に連載された柳田の「巫女考」および「毛坊主考」に見いだしている。柳田は、「漂泊の民」の系譜をたどるこれらの研究を続けてゆく中で、被差別部落と天皇制にまつわるタブーが幾重にも絡みついていることに気づくことになった。「漂泊の民」の問題が孕んでいるあまりにも深い深淵をのぞき込んでしまった柳田は、そこから身を翻して「一国民俗学」の構築に向かったと著者はいう。
こうして、表層の差異を超えて「日本」という名の一つの民族=文化が存在することを語る「民俗学」が生まれた。著者はこうした柳田の思索の軌跡をたどりながら、「民俗学」の構築へと向かった柳田が打ち捨てたものを拾いなおすことで、「もう一つの民俗学」の可能性をかいま見ることができるのではないかと主張している。 -
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