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Amazon.co.jp ・本 / ISBN・EAN: 9784480056856
感想・レビュー・書評
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読みやすくてよかった。
日本人の宗教感について、違和感なく読めました。あんまり偏見もない感じ。
大雑把には、
日本人の無宗教は、過去の政策が無茶した歴史が絡んでるよ、
って話でした。 -
日本人は無宗教だと言われている。実際には葬式等で神社仏閣等でお世話になるので薄らと神様とか仏様という形の本著でいう日本ならではの宗教には皆入っていることだろう。それらも自然宗教(土地や祖霊、家の神々などを自然に敬う等)の一部なのであろう。同時に日本人は創唱宗教(キリスト教や仏教、イスラム教などの教祖や教義に基づく)には関心が無いだけであり、創唱宗教側から見たときに日本人は無宗宗教と見られるのであろう。
さて、私たちは日本人として生まれた時に土地や家など既に自然宗教の中に生きている。創唱宗教へ親が何かに熱心に信仰しているものもあるだろう。それらは構わない。それらは親の信仰であり子に強制されるのは信仰では無い。子の判断で分別がわかった段階でそれを信仰するかを決めることが望ましいだろう。宗教を脅しや恐怖に縛るだけの信仰とはそれは逆にその信仰をする何かへ失礼だと思うのだ。
日本人はアニミズム(自然信仰)として、ゲーム、推しやアニメ、アイドル、インフルエンサーなどに課金をする。これもコンテンツの宗教だろう。解釈を如何様にも広げ柔軟に捉えれば目の前に信仰する何かがいるのだ。それは飽きられ消えることもあるだろう。それは宗教でも同様であり、廃業して解散していく宗教は多い。
宗教は気温や気候、場所によっても性質を大きく変える。日本は四季があり多様な文化が日本という海洋国家として機能しているからこそ、自然宗教が出来上がったのだ。
今ある何かを不必要に強いられて信仰することはない。それは信仰ではなく虐待に入る。本当の信仰というのは引き寄せられるように自分の中から生まれるものなのだ。宗教という言葉に縛られることなく、日常という今を生き感謝出来ることが出来たとすればそれもまた立派なあなただけの宗教となり得るだろう。 -
日本人が「無宗教」を標榜するのは、「創唱宗教」に対して無関心なだけで、「自然宗教」は信奉していることが多い。そして、日本人が「創唱宗教」に関心を持たないのは、現実主義的な儒教の普及と、葬式仏教による死後への安心感によって生まれた日常主義(あるいは「浮き世」の観念)が、日常と緊張関係を持つ創唱仏教と相容れなかったためである。
丸山の「日本の思想」と同じくらい勉強になる本だった。下手な歴史書よりも、こういう平凡な人々の歴史が知れる本が好きだ。
それにしても、人の宗教観なんてものは、明治のゴタゴタのような、権力者が作った構造のもとで、いとも簡単に変わってしまうのだと思うと恐ろしい。 -
大学に入る際に読まされたがあんまり内容を覚えていなかったので再読。
宗教学や民俗学に興味を持ち始めた今現在読んだらとても面白かったし幾つかの発見もあったので本は読みたいと思ったタイミングで読むのが一番と再認識させられた。
「創唱宗教」と「自然宗教」の違いや歴史を追っていくなかでそもそもこの括りを私たちの中で曖昧にしているからこそ祭や風習を楽しむのに「無宗教」という言葉を使うのではないかとこの本を読んで感じた。ただ、これらの宗教を雑に纏めてしまうことに対して仕方のないことなのかもしれないなとも思う。それは多くの物事に対して細かいところまで区別し主張するのにはそれに対するプライドやこだわりのようなものが必要だからだ。こだわってもないものをただなんとなく否定するためにそれっぽい言葉を使うということはめんどくさがりの人間にとって楽なことであるため、正直なところ知識を得た私たちもこだわりのない人のない集団の中では今後も「自分は無宗教である」といったフレーズを使ってしまうのではないかな(もちろん時と場所は選ぶが)と思ってしまう。 -
とても勉強になり、とても面白かったです。
日本においての宗教や信仰について、私は知識不足であり、間違った考えをしていたように思います。
現日本で言う「伝統」は、意外と歴史が浅いのかも、という疑問も私の中では生まれたりもしました。 -
日本人の無宗教の由来を徹底的に掘り下げている。その中で、社会に無宗教(自然宗教)がもたらす安定性と危険性をえぐり出した力作である。最終章の沖縄の離島の信仰と真宗の信仰の事例は心打たれる「回心」論である。
・自然宗教は創唱宗教のように特別の教義や儀礼、布教師や宣教師はもたないが、年中行事という有力な教化手段を持っているといえるのであり、人々もそうした年中行事をくり返すことによって生活にアクセントをつけ、いつのまにか心の平安を手にすることができるのである。
・創唱宗教への恐怖心とは、厳密に言えば、それらの宗教の教えが怖いのではなく、その前提である人生を疑ったり否定せざるを得ない営みへのおそれといえるのではないか。あるいは、おぼろげに見えている人生の深淵を、あらためて正面からのぞき込まねばならないことへのおそれといいかえてもよい。
・法事は、意外にも国際的な由来を持っている。インド、中国、日本の融合。
・生前の在り方は不問に付して、死者を阿弥陀仏の慈悲にゆだねるという、生きている人間のいわばおもいやりが、「葬式仏教」を支えることになった。
・人々は、子孫に相続させる財産があっても、またなくても、それとは無関係に家の永続を願い、家族が死ぬと、仏教式の葬送と法事をくり返して、死者が成仏して、ご先祖になり、永遠に家のメンバーであり続けることを期待した。
・(江戸初期頃から)、死者を「ホトケ」という風習が成立してくる。
・(幕末期)、結論的に言えば、宗教とは「個人の私事」だという考え方であり、こうした考え方は、今日では、日本人の間に広く行きわたっている宗教観の原型になっている。
・そのために天皇は歴史上一度として参拝したこともない伊勢神宮に、はじめて参拝するようになり、宮中からは一切の仏教色が閉め出されて、新たに神々が招かれ、天皇がその祭祀にいそしむようになる。
・真宗の島地黙雷らがとった考え方は、神道は祖先を崇敬する道であり、それは宗教とはいえないという論法であった。
・大逆事件で逮捕されたものの中に、明白な仏教徒が4名もいた。
・無宗教の傾向、創唱宗教に共感を示さないとか、とりたてて宗教を論じることには気が進まないといった宗教嫌いは、日本文化がはぐくんできた、この「平凡」志向と密接な関係がある。
・部落という集団を守るために、物資的平等を期する一方、感情の面でも、ムラ人それぞれの気持ちが極端に偏ることがないように工夫する。
・近世に入って、祭りが祭礼となった結果、賽銭箱が神社に登場した。個人の祈願の始まり。神を試みる。
・創唱宗教は日常生活の矛盾、不条理から生まれており、日常生活の単純な肯定を目的としていない。創唱宗教日常生活と鋭い緊張関係を持つ面がある。その緊張関係が見失われるとすれば、それは宗教心の後退である。
・創唱宗教を選び取るということは、回心を経験すること。
・ジェームズの分類からいえば、回心を必要しないひとというのは、「健全な心」の持ち主。回心を必要とするのは、「病める心」の持ち主(人生の本質は不安や懐疑や悪にあると考える)。 -
日本人の「無宗教」の意味を、歴史的経緯をたどりながら明らかにしています。
著者は、「創唱宗教」と「自然宗教」を区別します。「創唱宗教」とは、特定の人物が特定の教義を唱え、それを信じる人たちによって構成される宗教のことを意味し、キリスト教や仏教、イスラム教などが該当します。他方「自然宗教」とは、特定の教祖をもたず、無意識に先祖たちによって受け継がれて現在にまでつづいている宗教のことを意味します。著者は、日本人が標榜する「無宗教」は、創唱宗教に対する無関心を意味していると考えます。
そのうえで著者は、日本人の宗教意識の低さを象徴する「葬式仏教」という形態がどのように生まれたのかを明らかにし、そこには日本人のうちに根づいた自然宗教の考え方が浸透していると論じています。元来は死者祭祀を重視しない仏教は、日本に伝来すると先祖祭祀に利用されるようになり、徳川時代に入ると寺請檀家制度が成立することで、「家」ごとに先祖の例を供養するという「葬式仏教」が定着しました。著者はこうした日本の仏教受容史のなかで、儒教の道徳思想からの影響や、現世享楽的な江戸の庶民の「浮き世」観などが果たした役割にも触れています。
明治時代に入ると、「天皇崇拝」を中心とする「国家神道」のイデオロギーが整備されていきました。ただし政府は、近代国家の体裁を整えるために表向きは「信教の自由」を認めなければならず、「神道非宗教論」という戦略がとられることになります。また、島地黙来らの浄土真宗の僧侶が、宗教的真理と俗世の真理を区別する「真俗二諦」論によって、世俗生活では世間の支配者にしたがい世間の秩序を守り道徳を遵守する生き方を説きました。こうして真宗は明治政府の「神道非宗教論」を推進する大きな役割を果たすようになったのです。そのうえで明治政府は、国家神道のイデオロギーに基づいて全国の神社を「天皇崇拝」に取り込む「神社合祀令」を制定しました。
著者は、身近で親しい名もないカミガミが信仰の対象からはずされ、地域に根づいた人々の信仰心が失われてしまったといいます。現代の痩せた宗教観はこうした歴史的経緯によってつくられたのです。著者は、地域に根づいた信仰を掘り起こす民俗学などの試みを参照しつつ、豊かな「無宗教」のあり方を取り戻す方途をさぐろうとしています。 -
彼の指摘している問題は、人々の宗教性の無自覚さに尽きる。どうせなら就活で自己分析をする時、こういう己の宗教性≒思考性を見つめ直すのも良いのかも。
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第四章が特に面白かった。確かに良くも悪くも平衡化を望んでる気がする。
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日本人は無宗教だとはよく聞くが、それはよく考えてみればありえない言説だということを、分かりやすく説明している。
宗教学では、宗教が「創唱宗教」と「自然宗教」に分かれるのかということにも議論があるらしいが、創唱宗教と自然宗教の違いについてイメージを掴むにはもってこいな1冊だと思った。 -
日本人の宗教観について説明した本。新島家物質振興に関しての説明は比較的わかりやすかったが、その他の細かい背景については自分自身が知りたい内容とは少し違った。ある程度宗教の起源に関して理解のある人が読むと面白いと思った。
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日本人は、お盆に実家に帰ったり初詣に行ったりするにもかかわらず、自分のことをよく「無宗教」だと言います。しかし、初詣に行くことは立派な宗教的行為ではないでしょうか。この本は、日本人のもつ宗教観の不思議さについて、さまざまな観点から考察しています。
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日本人は無宗教といいながら、信仰を持つことは大切だと考えている人が多い!この矛盾の意味が的確に説明されている。自然宗教を信じているから。日本の仏教・神道の歴史に始まり。明治以降の天皇崇拝などの分析が興味深い。葬式仏教の良い点。江戸時代の儒学者が仏教を馬鹿にしたのは葬式仏教だからではない!目が開かれることが多かった。
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卒業研究に向けてということで読みました。
さまざまな事例をもとにした考察がどれも興味深く、論文執筆における「視点」づくりに役立ちました。
特に、創唱宗教と自然宗教の区別は明快で、卒業研究でも大いに参照させていただきました。
修士論文を書く上でまた読む機会があるかもしれません。 -
(メモ)
創唱宗教と自然宗教 -
2009/12/18
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自然宗教が習俗化されているので、結果的に「無宗教」であると認識しているとの事。日本は江戸時代以降、平和で豊かな世の中になったので現世利益的儒教が蔓延り、結果、仏教は檀家制度として国家システムに組み込まれ、葬式仏教として自然宗教と妥協した。江戸時代の象徴的存在が井原西鶴で、憂き世→浮き世への転換を図った。
ちなみに「国家神道は宗教ではなく祖先崇拝の祭祀である」というロジックで、国民に強制可能とした。それを推進したのが井上毅。
日本特殊論の要因は江戸時代の平和と、明治憲法下の「非宗教である国家神道」の押し付けであり、結果的に「無宗教」になったという事でよいのだろうか。他国で自然宗教主体の地域があれば、日本と同類であり、あとは習俗化による宗教性の意識の有無の違いになりそうだが。
著者プロフィール
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