- Amazon.co.jp ・本 (206ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480056856
作品紹介・あらすじ
いまや日本人は自分たちを「無宗教」と規定してなんら怪しむことがない。しかしほんとうに無宗教なのだろうか?日本人には神仏とともに生きた長い伝統がある。それなのになぜ「無宗教」を標榜し、特定宗派を怖れるのか?著者は民族の心性の歴史にその由来を尋ね、また近代化の過程にその理由を探る。そして、現代の日本人にあらためて宗教の意味を問いかける。
感想・レビュー・書評
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読みやすくてよかった。
日本人の宗教感について、違和感なく読めました。あんまり偏見もない感じ。
大雑把には、
日本人の無宗教は、過去の政策が無茶した歴史が絡んでるよ、
って話でした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
とても勉強になり、とても面白かったです。
日本においての宗教や信仰について、私は知識不足であり、間違った考えをしていたように思います。
現日本で言う「伝統」は、意外と歴史が浅いのかも、という疑問も私の中では生まれたりもしました。 -
日本人の無宗教の由来を徹底的に掘り下げている。その中で、社会に無宗教(自然宗教)がもたらす安定性と危険性をえぐり出した力作である。最終章の沖縄の離島の信仰と真宗の信仰の事例は心打たれる「回心」論である。
・自然宗教は創唱宗教のように特別の教義や儀礼、布教師や宣教師はもたないが、年中行事という有力な教化手段を持っているといえるのであり、人々もそうした年中行事をくり返すことによって生活にアクセントをつけ、いつのまにか心の平安を手にすることができるのである。
・創唱宗教への恐怖心とは、厳密に言えば、それらの宗教の教えが怖いのではなく、その前提である人生を疑ったり否定せざるを得ない営みへのおそれといえるのではないか。あるいは、おぼろげに見えている人生の深淵を、あらためて正面からのぞき込まねばならないことへのおそれといいかえてもよい。
・法事は、意外にも国際的な由来を持っている。インド、中国、日本の融合。
・生前の在り方は不問に付して、死者を阿弥陀仏の慈悲にゆだねるという、生きている人間のいわばおもいやりが、「葬式仏教」を支えることになった。
・人々は、子孫に相続させる財産があっても、またなくても、それとは無関係に家の永続を願い、家族が死ぬと、仏教式の葬送と法事をくり返して、死者が成仏して、ご先祖になり、永遠に家のメンバーであり続けることを期待した。
・(江戸初期頃から)、死者を「ホトケ」という風習が成立してくる。
・(幕末期)、結論的に言えば、宗教とは「個人の私事」だという考え方であり、こうした考え方は、今日では、日本人の間に広く行きわたっている宗教観の原型になっている。
・そのために天皇は歴史上一度として参拝したこともない伊勢神宮に、はじめて参拝するようになり、宮中からは一切の仏教色が閉め出されて、新たに神々が招かれ、天皇がその祭祀にいそしむようになる。
・真宗の島地黙雷らがとった考え方は、神道は祖先を崇敬する道であり、それは宗教とはいえないという論法であった。
・大逆事件で逮捕されたものの中に、明白な仏教徒が4名もいた。
・無宗教の傾向、創唱宗教に共感を示さないとか、とりたてて宗教を論じることには気が進まないといった宗教嫌いは、日本文化がはぐくんできた、この「平凡」志向と密接な関係がある。
・部落という集団を守るために、物資的平等を期する一方、感情の面でも、ムラ人それぞれの気持ちが極端に偏ることがないように工夫する。
・近世に入って、祭りが祭礼となった結果、賽銭箱が神社に登場した。個人の祈願の始まり。神を試みる。
・創唱宗教は日常生活の矛盾、不条理から生まれており、日常生活の単純な肯定を目的としていない。創唱宗教日常生活と鋭い緊張関係を持つ面がある。その緊張関係が見失われるとすれば、それは宗教心の後退である。
・創唱宗教を選び取るということは、回心を経験すること。
・ジェームズの分類からいえば、回心を必要しないひとというのは、「健全な心」の持ち主。回心を必要とするのは、「病める心」の持ち主(人生の本質は不安や懐疑や悪にあると考える)。 -
日本人の「無宗教」の意味を、歴史的経緯をたどりながら明らかにしています。
著者は、「創唱宗教」と「自然宗教」を区別します。「創唱宗教」とは、特定の人物が特定の教義を唱え、それを信じる人たちによって構成される宗教のことを意味し、キリスト教や仏教、イスラム教などが該当します。他方「自然宗教」とは、特定の教祖をもたず、無意識に先祖たちによって受け継がれて現在にまでつづいている宗教のことを意味します。著者は、日本人が標榜する「無宗教」は、創唱宗教に対する無関心を意味していると考えます。
そのうえで著者は、日本人の宗教意識の低さを象徴する「葬式仏教」という形態がどのように生まれたのかを明らかにし、そこには日本人のうちに根づいた自然宗教の考え方が浸透していると論じています。元来は死者祭祀を重視しない仏教は、日本に伝来すると先祖祭祀に利用されるようになり、徳川時代に入ると寺請檀家制度が成立することで、「家」ごとに先祖の例を供養するという「葬式仏教」が定着しました。著者はこうした日本の仏教受容史のなかで、儒教の道徳思想からの影響や、現世享楽的な江戸の庶民の「浮き世」観などが果たした役割にも触れています。
明治時代に入ると、「天皇崇拝」を中心とする「国家神道」のイデオロギーが整備されていきました。ただし政府は、近代国家の体裁を整えるために表向きは「信教の自由」を認めなければならず、「神道非宗教論」という戦略がとられることになります。また、島地黙来らの浄土真宗の僧侶が、宗教的真理と俗世の真理を区別する「真俗二諦」論によって、世俗生活では世間の支配者にしたがい世間の秩序を守り道徳を遵守する生き方を説きました。こうして真宗は明治政府の「神道非宗教論」を推進する大きな役割を果たすようになったのです。そのうえで明治政府は、国家神道のイデオロギーに基づいて全国の神社を「天皇崇拝」に取り込む「神社合祀令」を制定しました。
著者は、身近で親しい名もないカミガミが信仰の対象からはずされ、地域に根づいた人々の信仰心が失われてしまったといいます。現代の痩せた宗教観はこうした歴史的経緯によってつくられたのです。著者は、地域に根づいた信仰を掘り起こす民俗学などの試みを参照しつつ、豊かな「無宗教」のあり方を取り戻す方途をさぐろうとしています。 -
彼の指摘している問題は、人々の宗教性の無自覚さに尽きる。どうせなら就活で自己分析をする時、こういう己の宗教性≒思考性を見つめ直すのも良いのかも。
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日本人が「無宗教」を標榜するのは、「創唱宗教」に対して無関心なだけで、「自然宗教」は信奉していることが多い。そして、日本人が「創唱宗教」に関心を持たないのは、現実主義的な儒教の普及と、葬式仏教による死後への安心感によって生まれた日常主義(あるいは「浮き世」の観念)が、日常と緊張関係を持つ創唱仏教と相容れなかったためである。
丸山の「日本の思想」と同じくらい勉強になる本だった。下手な歴史書よりも、こういう平凡な人々の歴史が知れる本が好きだ。
それにしても、人の宗教観なんてものは、明治のゴタゴタのような、権力者が作った構造のもとで、いとも簡単に変わってしまうのだと思うと恐ろしい。 -
大学に入る際に読まされたがあんまり内容を覚えていなかったので再読。
宗教学や民俗学に興味を持ち始めた今現在読んだらとても面白かったし幾つかの発見もあったので本は読みたいと思ったタイミングで読むのが一番と再認識させられた。
「創唱宗教」と「自然宗教」の違いや歴史を追っていくなかでそもそもこの括りを私たちの中で曖昧にしているからこそ祭や風習を楽しむのに「無宗教」という言葉を使うのではないかとこの本を読んで感じた。ただ、これらの宗教を雑に纏めてしまうことに対して仕方のないことなのかもしれないなとも思う。それは多くの物事に対して細かいところまで区別し主張するのにはそれに対するプライドやこだわりのようなものが必要だからだ。こだわってもないものをただなんとなく否定するためにそれっぽい言葉を使うということはめんどくさがりの人間にとって楽なことであるため、正直なところ知識を得た私たちもこだわりのない人のない集団の中では今後も「自分は無宗教である」といったフレーズを使ってしまうのではないかな(もちろん時と場所は選ぶが)と思ってしまう。 -
日本人は無宗教だとはよく聞くが、それはよく考えてみればありえない言説だということを、分かりやすく説明している。
宗教学では、宗教が「創唱宗教」と「自然宗教」に分かれるのかということにも議論があるらしいが、創唱宗教と自然宗教の違いについてイメージを掴むにはもってこいな1冊だと思った。