自分をつくるための読書術 (ちくま新書 134)

著者 :
  • 筑摩書房
3.19
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本棚登録 : 134
感想 : 12
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  • Amazon.co.jp ・本 (206ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480057341

感想・レビュー・書評

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  •  団塊の世代は社会的な価値観よりも個人的な価値観をその上位に置くという生き方をこの国ではじめて示した世代。(確かに、そんな気もします)勢古浩爾「自分をつくるための読書術」、1997.11発行。色んな本を推薦されてます。例えば: ①世間を知るには、海老沢泰久「帰郷」②弱さを鍛えるには、ソルジェニツイン「収容所群島」③論理力をつけるには、竹田青嗣「ニーチェ入門」④理不尽を生きるには、五味川純平「人間の条件」⑤覚悟を決めるには、堀江謙一「太平洋ひとりぼっち」⑥自分をゆさぶるには、三浦綾子「道ありき」。


  •  様々なテーマについての持論を展開しているが、それらの持論が「読書術」というタイトルに適したものであるとは必ずしも思えなかった。つまり、「読書術」を学ぼうとする読者にお勧めできる本ではなく、筆者の主張から自分の本に対する料簡を広げられるだけの能力を有している読者が読むべき本なのかもしれない。残念ながら評者は、そのような能力を持ち合わせておらず、期待していた「読書術」を本書から学び取ることはできなかった。
    「世間に同化しているとき、世間はかぎりない包容と擁護の甘えの体系であるが、ひとたびそこから足を一歩でも踏み出しでもしようものなら、世間はその瞬間に排斥と差別の恐怖の体系に変貌する」。したがって、「この国で社交性とは、無縁の他者とうまく関係をとり結ぶことではなく、世間にいかに同調するかという意味でしかない」(18-19頁)。その例として、「ひとに迷惑さえかけなければ、あとは好きなように生きてよい」(=他者危害の原則)は、戦後日本の親たちが口をそろえて言ったが、その考えが立派な世間とされるという風潮を生んでいること、そしてそのことは、「世間から褒められたくて、好きなことはしなければならない」という圧力になりうるということについては、職場で働いて1カ月の評者には共感できる部分であった。この記述から、ある格言がいかに正鵠を得ていても、論理的に正しくても、無条件に受け入れて同調することは、受け入れない者たちを排除する力を生んでいることを忘れてはならず、視野を広く持ち、受け入れない者たちが信ずるところ、その理由について頭ごなしに否定することなく考えてみることが、排除力を弱める第一歩であると感じた。

  • 自分が死んだらこの世は終わるのか?という問題をホンキで考えて、承認欲求に苦しんでいる。で、他者との関係を重視し自分探しを否定しつつ、読書による自分探し(自分つくり?)を推奨しているという倒錯した内容ではあるが、刊行時50歳の著者の熱さに驚いた。著者の人生哲学をひたすら展開して読書術は関係なく、単にオススメ本を紹介しているだけだが、読み物としては面白く悪くはない。学生向けかなって気はするが。
    学者になるわけじゃないんだから、自由に独学を楽しめ。というのはひとつの助言ではある。
    著者も70近くなってどのような老年期を過ごしているのかが気になる。

  • 第5章、第6章がよい。

  • 04084

    11/14

  • 自分を作ることはしんどいことである。
    しかし、自分を作らないことはもっとしんどいことである。

  • [ 内容 ]
    生まれついての一部の幸福者をべつとして、ほとんどの人にとって「自分」とは理不尽で納得のいかない存在である。
    が、嘆いてもしかたがない。むしろ「自分」を発見したときから、「自分」をつくりあげていく長い道程がはじまる。
    それはたとえば、「弱さ」を否定して「強さ」につくりかえようとするのではなく、「弱さ」の意味を問い、それをハガネのような「弱さ」にさらにつくりあげること。
    読書という、とびっきり地味で静的な方法によって「自分」をつくるという意味はまさにここにある。
    自分を揺さぶり、鍛えていくための実践的読書術。

    [ 目次 ]
    はじめに 「自分」をつくるとはどういうことか
    第1章 「世間」を生きぬくための読書―あらゆる形式を疑え
    第2章 「弱さ」を鍛えるための読書―一冊の本は決定的に発火する
    第3章 「論理」の力をつけるための読書―読むなら考えよ考えぬのなら読むな
    第4章 「理不尽」を生きるための読書―すべての本を軽蔑せよ
    第5章 「覚悟」を決めるための読書―わたしがルールブックである
    第6章 「自分」をゆさぶるための読書―自分に関係のない本などない
    おわりに 「自分」をつくらないことの責任

    [ POP ]


    [ おすすめ度 ]

    ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
    ☆☆☆☆☆☆☆ 文章
    ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
    ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
    ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
    ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
    共感度(空振り三振・一部・参った!)
    読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)

    [ 関連図書 ]


    [ 参考となる書評 ]

  • エッセイのようなところはあるが、現実を真正面からとらえようとしている。池田晶子の本のようで、私としては好きな本に入る。

    自己肥大感と自己卑小感の翻弄 同時並行性。このことを忘れて、社会のウマい側に着いたら、ついていないものを馬鹿にし、着いていなければ訴えるような人間が一番嫌いだ。自己劇化した虚しい行為がまかり通っている。そこには、弱さからくる厭らしさがある。ただし、望む「関係」に対する必死なあがきでもあった。ただし、卑劣さまでなっているものは醜いものだ。所詮、人一人など無に等しい。失敗、挫折、限界などは、否応にも「無」を知ることになる。「無」とうまく付き合うことが人間関係を豊かにして、人生を味わい深いものにする。「無」で他人と繋がることが出来ている。生きる=唯一性と無の双方の交わり。存在証明やアイデンティティという概念は、自分がいかに価値のある人間か示すためのものでしかない。自慢をしたり、優劣を見るのは、ただ「自分の存在や生活は、あなたの無に比べて少ない。」と言いたいのだ。あなたは「無」だが、私は唯一者だと。私がここにいるという存在証明の役割=あいさつ そして、同時に自己承認でもある自分をつくるこのことは、社会の承認、異性による承認、家族の承認などによって強化されていく。つまり、関係の中の承認によって、自分の唯一性が定義されて、自分の唯一性を生きていいんだという基盤になる。私たちは、自己認識と他者の承認の突き合わせ(弁証)によって、自己承認を得ていく。唯一性を無傷で保護したくなる。失敗・挫折・屈辱をあからさまに認めることは、苦痛以外の何物でもない。無神経でもなく、まっいいかですますことのできない「私」はそのままの姿で承認するほかなくなる。ただし、弱さを否定するのではなく、居直るのでもなく、「弱さ」を「弱さ」として、肯定的に承認する。=強さ=「フラジャイル」このためにできることは、自分自身にたいして、あるいはひとつの関係性にたいして、あるいは自分のなすべきことに対して、全力をあげて生きることである。誰もが認めなくても自分が自分を認める確信はこのことがなくては成立しない。

    日本は西洋文化・文明に強引に入り込まれて、「精神分裂」を起こした。
    その「力」、そしてその「力」から、自分たちを認めてもらうことが明治時代からの日本の姿勢であった。そして、西洋は厳格な父であり、日本はその父に勝っていると考えて、アジアという父に取られていた母を取り返そうとした(エディプスな部分)その「力」である西洋はセクシーで、「性的」になった。そして、西洋は日本では確保できない「興奮」を覚えられるところとなり、憧憬と幻滅を内包したものとなり、日本人とっての格好の「不倫」相手となった。

    哲学を読んでいるだけで、「ヤバイ」というレッテルを貼られるが、スターはやばくないと生まれない。社会は同化求めて、波をこちらに寄せてくるが、それに対する恐怖はだれもが一緒。どうせ流されるなら、勝負して流されてみよう。そのときに主体の拠り所になるのが、一冊の本であったりするのだ。

    思想(本を読む)を作り上げることによって、自分だけをいつも聖域に置いたまま、単に人を裁断するためだけのろくでもない観念に堕落してしまいかねない。

    ラッセルやアランが「幸福論」で述べていたことは、今となっては日本としては当たり前のことで、日本は昔定義したであろう「幸福」は手に入れている。ただ、幸福と誰もが思っているわけではない。「幸福」と言う言葉は実体があるわけではなく、便宜上使われていただけだったのだ。

    日常では「個体の自分」と意識するが、戦争の話になると「日本人としての自分」を意識することになる。

    自分は他者との「関係」でしかなく、自分を変えることは他者を変えることであり、繋がりなしでは生きていない。たとえば、双方の約束があって、自由が保障されているのであって、他者は関係ないというのは通じない論理。

    自分を作る自由もあれば、作らない自由もある。どんなに「他者」が強く見えても、その想像より他者は「弱い」、自分が弱く見えても、その想像より「強い」。

    現代、女性が手に入れた平等は、「情報の平等である。」

    「関係」で見れば私はあなたで、私が生きることは、あなたが生きること。こうしないと「自分」たりえないという逆説が働く。そして、「関係」をあるがままに見れば見るほど、「過激」になれるのだ。自己のダイナミクスが見えてくる。

    自分をつくるとは、しんどい行為。なぜそこまでして、自分を作ろうとするのか?それは作らないほうが辛いからである。ただし、しんどいけれど、それは筋肉トレーニングみたいなもので、筋肉のようなものもついてくる。

    作る必要もなし、何も意味のないことかもしれないが、自分が望むような「関係」に値するために「自分」を作らざるを得なかった。

    実直でクソまじめな反面、意志が弱く、いい加減で大雑把であるのだ。

  • 図書館で偶然目にした本。


    人間は弱いものだという前提のもと、23歳まで本を読んでこなかった筆者が、自分をつくりあげていくために必要な本や、アドバイスを綴っている。

    印象的なフレーズは、『〜だと思うじゃなくて、きちんと断定しろ』

    濁して言う方法を身につけてしまっただけに、時には論理的にいう時に派断定する必要性を思い出した。
    時には断定も必要だよね。逃げているような言葉尻では説得力もない。

    書物の紹介があるのはいいんだけど、正式名称じゃないから、ブクログの登録が手間取る。

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著者プロフィール

1947年大分県生まれ。明治大学政治経済学部卒業。洋書輸入会社に入社したが2006年に退社、執筆活動に専念。「ふつうの人」の立場から「自分」が生きていくことの意味を問いつづけ、『まれに見るバカ』(洋泉社・新書y)で話題に。その後も『アマチュア論。』(ミシマ社)、『会社員の父から息子へ』(ちくま新書)、『定年後のリアル』(草思社文庫)など著書多数。

「2017年 『ウソつきの国』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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