- Amazon.co.jp ・本 (206ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480057341
感想・レビュー・書評
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自分が死んだらこの世は終わるのか?という問題をホンキで考えて、承認欲求に苦しんでいる。で、他者との関係を重視し自分探しを否定しつつ、読書による自分探し(自分つくり?)を推奨しているという倒錯した内容ではあるが、刊行時50歳の著者の熱さに驚いた。著者の人生哲学をひたすら展開して読書術は関係なく、単にオススメ本を紹介しているだけだが、読み物としては面白く悪くはない。学生向けかなって気はするが。
学者になるわけじゃないんだから、自由に独学を楽しめ。というのはひとつの助言ではある。
著者も70近くなってどのような老年期を過ごしているのかが気になる。 -
第5章、第6章がよい。
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11/14 -
自分を作ることはしんどいことである。
しかし、自分を作らないことはもっとしんどいことである。 -
[ 内容 ]
生まれついての一部の幸福者をべつとして、ほとんどの人にとって「自分」とは理不尽で納得のいかない存在である。
が、嘆いてもしかたがない。むしろ「自分」を発見したときから、「自分」をつくりあげていく長い道程がはじまる。
それはたとえば、「弱さ」を否定して「強さ」につくりかえようとするのではなく、「弱さ」の意味を問い、それをハガネのような「弱さ」にさらにつくりあげること。
読書という、とびっきり地味で静的な方法によって「自分」をつくるという意味はまさにここにある。
自分を揺さぶり、鍛えていくための実践的読書術。
[ 目次 ]
はじめに 「自分」をつくるとはどういうことか
第1章 「世間」を生きぬくための読書―あらゆる形式を疑え
第2章 「弱さ」を鍛えるための読書―一冊の本は決定的に発火する
第3章 「論理」の力をつけるための読書―読むなら考えよ考えぬのなら読むな
第4章 「理不尽」を生きるための読書―すべての本を軽蔑せよ
第5章 「覚悟」を決めるための読書―わたしがルールブックである
第6章 「自分」をゆさぶるための読書―自分に関係のない本などない
おわりに 「自分」をつくらないことの責任
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
エッセイのようなところはあるが、現実を真正面からとらえようとしている。池田晶子の本のようで、私としては好きな本に入る。
自己肥大感と自己卑小感の翻弄 同時並行性。このことを忘れて、社会のウマい側に着いたら、ついていないものを馬鹿にし、着いていなければ訴えるような人間が一番嫌いだ。自己劇化した虚しい行為がまかり通っている。そこには、弱さからくる厭らしさがある。ただし、望む「関係」に対する必死なあがきでもあった。ただし、卑劣さまでなっているものは醜いものだ。所詮、人一人など無に等しい。失敗、挫折、限界などは、否応にも「無」を知ることになる。「無」とうまく付き合うことが人間関係を豊かにして、人生を味わい深いものにする。「無」で他人と繋がることが出来ている。生きる=唯一性と無の双方の交わり。存在証明やアイデンティティという概念は、自分がいかに価値のある人間か示すためのものでしかない。自慢をしたり、優劣を見るのは、ただ「自分の存在や生活は、あなたの無に比べて少ない。」と言いたいのだ。あなたは「無」だが、私は唯一者だと。私がここにいるという存在証明の役割=あいさつ そして、同時に自己承認でもある自分をつくるこのことは、社会の承認、異性による承認、家族の承認などによって強化されていく。つまり、関係の中の承認によって、自分の唯一性が定義されて、自分の唯一性を生きていいんだという基盤になる。私たちは、自己認識と他者の承認の突き合わせ(弁証)によって、自己承認を得ていく。唯一性を無傷で保護したくなる。失敗・挫折・屈辱をあからさまに認めることは、苦痛以外の何物でもない。無神経でもなく、まっいいかですますことのできない「私」はそのままの姿で承認するほかなくなる。ただし、弱さを否定するのではなく、居直るのでもなく、「弱さ」を「弱さ」として、肯定的に承認する。=強さ=「フラジャイル」このためにできることは、自分自身にたいして、あるいはひとつの関係性にたいして、あるいは自分のなすべきことに対して、全力をあげて生きることである。誰もが認めなくても自分が自分を認める確信はこのことがなくては成立しない。
日本は西洋文化・文明に強引に入り込まれて、「精神分裂」を起こした。
その「力」、そしてその「力」から、自分たちを認めてもらうことが明治時代からの日本の姿勢であった。そして、西洋は厳格な父であり、日本はその父に勝っていると考えて、アジアという父に取られていた母を取り返そうとした(エディプスな部分)その「力」である西洋はセクシーで、「性的」になった。そして、西洋は日本では確保できない「興奮」を覚えられるところとなり、憧憬と幻滅を内包したものとなり、日本人とっての格好の「不倫」相手となった。
哲学を読んでいるだけで、「ヤバイ」というレッテルを貼られるが、スターはやばくないと生まれない。社会は同化求めて、波をこちらに寄せてくるが、それに対する恐怖はだれもが一緒。どうせ流されるなら、勝負して流されてみよう。そのときに主体の拠り所になるのが、一冊の本であったりするのだ。
思想(本を読む)を作り上げることによって、自分だけをいつも聖域に置いたまま、単に人を裁断するためだけのろくでもない観念に堕落してしまいかねない。
ラッセルやアランが「幸福論」で述べていたことは、今となっては日本としては当たり前のことで、日本は昔定義したであろう「幸福」は手に入れている。ただ、幸福と誰もが思っているわけではない。「幸福」と言う言葉は実体があるわけではなく、便宜上使われていただけだったのだ。
日常では「個体の自分」と意識するが、戦争の話になると「日本人としての自分」を意識することになる。
自分は他者との「関係」でしかなく、自分を変えることは他者を変えることであり、繋がりなしでは生きていない。たとえば、双方の約束があって、自由が保障されているのであって、他者は関係ないというのは通じない論理。
自分を作る自由もあれば、作らない自由もある。どんなに「他者」が強く見えても、その想像より他者は「弱い」、自分が弱く見えても、その想像より「強い」。
現代、女性が手に入れた平等は、「情報の平等である。」
「関係」で見れば私はあなたで、私が生きることは、あなたが生きること。こうしないと「自分」たりえないという逆説が働く。そして、「関係」をあるがままに見れば見るほど、「過激」になれるのだ。自己のダイナミクスが見えてくる。
自分をつくるとは、しんどい行為。なぜそこまでして、自分を作ろうとするのか?それは作らないほうが辛いからである。ただし、しんどいけれど、それは筋肉トレーニングみたいなもので、筋肉のようなものもついてくる。
作る必要もなし、何も意味のないことかもしれないが、自分が望むような「関係」に値するために「自分」を作らざるを得なかった。
実直でクソまじめな反面、意志が弱く、いい加減で大雑把であるのだ。 -
図書館で偶然目にした本。
人間は弱いものだという前提のもと、23歳まで本を読んでこなかった筆者が、自分をつくりあげていくために必要な本や、アドバイスを綴っている。
印象的なフレーズは、『〜だと思うじゃなくて、きちんと断定しろ』
濁して言う方法を身につけてしまっただけに、時には論理的にいう時に派断定する必要性を思い出した。
時には断定も必要だよね。逃げているような言葉尻では説得力もない。
書物の紹介があるのはいいんだけど、正式名称じゃないから、ブクログの登録が手間取る。