- Amazon.co.jp ・本 (251ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480057662
感想・レビュー・書評
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1
60年間隔
柄谷行人「昭和・明治平行説」
1920大逆事件 1972連合赤軍
加藤『敗戦後論』=敗戦による自己否定の構造による抑圧
太宰治は戦後、戦争についてほぼ書いてない
戦前と戦後のあいだの水門
太宰治だけ開けても水が微動だにしないようだ
=戦時中にかけた以上のことは戦後に書こうとしなかった
『薄明』『トカトントン』
江藤淳
戦後知識人の日本の現状を批判するための「作為の論理を可能にする他者の視点」=アメリカによってsymbolizeされていた何か
アンダーソンのナショナリズムの理論
ウルトラマンとしてのアメリカ
佐藤健志『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』
2
ウルトラナショナリスト
ヘーゲルの論理学
西田
共同体のなかの自己確立
3
内向の世代は過渡的なもの 柄谷
「マクベス論」詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
大澤真幸の本には、いつも『考える』ことの楽しさ、面白さに満ちている。
社会学の先人には、見田宗介という存在がいるが、昨今は、あまりにも抽象的過ぎる。
その点、大澤真幸は、具体的な事件を扱いながら、誰も想像しないような解きほぐし方をする。
最初に出てくる、慰安婦問題。
なるほど、そういう読み解き方かあと合点がいった。
ウルトラマンや小島信夫の『抱擁家族』に絡めて、アメリカや母性を論じる箇所は、とても粗く、強引に大澤が論じたいように、読み替えていると言っても過言ではない。
文学作品、アニメなどが、単なる小道具に使われているという感がある。 -
3回に渡っておこなわれた講演をまとめた本で、柄谷行人の「昭和・明治平行説」に則る形で、戦前と戦後の日本社会における超越的な審級の変容を読み解いています。
第1章では、江藤淳や加藤典洋の議論を参照しつつ、戦後の日本がそれまでの「天皇」に代わって「アメリカ」が超越的な審級に位置づけられていたと論じられます。ところが、1970年以降もはや「アメリカ」は超越的な審級としての役割を果たさなくなっていきます。1970年代の日本では、「日本」というローカリティが意味を失い、日本人であることがそのまま世界市民であるという奇妙な錯覚が行き渡ります。戦前においてこの時代に対応するのが、超越性を持たない天皇を戴いた大正時代です。
そして、その後にやってくるのが戦後においては「ポストモダン」であり、戦前においては「近代の超克」です。著者は、西田幾多郎や田辺元といった京都学派の議論を参照しながら、彼らの主張した多文化主義の立場が、それまで超越的な審級としての機能を果たしていた「西洋」が普遍性を失い、オブジェクト・レヴェルに引き下げられることに注目しています。ここでは、超越的な審級をたえずオブジェクト・レヴェルに繰り込んでいくことが、逆説的に普遍性を示すことになるというロジックが見られます。そして著者は、これと同じロジックが、「ポストモダン」の時代における消費社会的シニシズムに見いだされると主張しています。
正直に言って、個々の議論の扱い方が恣意的に見えてしまうところがあるのですが、著者の議論の大きな枠組みが共有できるならば、興味深い見方なのではないかと思います。 -
[ 内容 ]
いま戦後思想を問うことの意味はどこにあるのか。
戦後民主主義を潮流とする戦後知識人の思想は、アメリカを中心とする世界システムのマージナルな部分として位置づけられた戦後空間のなかで醸成された。
だが、70年代を転回点にして、アメリカの善意を自明の前提とした構造がもはやリアリティを失いはじめているのは明らかだ。
西田幾多郎、田辺元の京都学派や和辻哲郎などによって唱導された戦前の「近代の超克」論を検証し、ポストモダンから「戦後・後」の思想へと転換する戦後の思想空間の変容を、資本の世界システムとの関連において鋭く読み解くスリリングな戦後思想論講義。
[ 目次 ]
第1章 戦後思想の現在性(なぜ「戦後」を語るのか 戦争と敗戦 戦後知識人とアメリカ 1970年代の転換点)
第2章 「近代の超克」とポストモダン(脆弱な天皇 資本主義とその挫折 「近代の超克」論 天皇制ファシズム)
第3章 戦後・後の思想(記憶の不在 戦後・後思想概観 消費社会シニシズム ガスについて 自由の条件の探求に向けて)
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