- Amazon.co.jp ・本 (195ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480058225
感想・レビュー・書評
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宗教への批判を分類し、各批判に答えている3章が
個人的に得るものが多かった。
宗教への批判は的外れなものが多い。
日常では遭遇しない、
常識では対処できない事柄に遭遇した人は、
その意味を求めざるおえない。
宗教とはそれに「納得」する説明を与えるものである。
著者は「自然宗教」において大切である習慣は
近年急速に衰えていると考えており、
宗教に代わる精神的支柱を探索することが必要であると主張し,
いくつかのケースを紹介している。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
人は生きてる限り仕事や恋愛、学業、それに親の介護や子育てなど何らか悩みを抱えながら生きている。それらに一切の悩みなく、全てが順調、経済的にも全く問題なし、というのはどこか石油でも掘り起こしたような遠い国の王族ぐらいであろう。そういった人たちでさえお金の使い道で悩んでいるかもしれないが。人は悩んだり困ったりした際に、カミサマ助けてと心の内で叫んだりする。日常では無宗教を公言しながらも「いざ」という時は「何か」に救いを求めてしまう人が大半だろう。世界の五代宗教と言えば、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教だがそれ以外にも新興宗教と呼ばれるものが日本でも沢山生まれてきた。日本人の多くは無宗教と言われることもあるが、人が亡くなった際には仏教の宗派のいずれかのお坊さんがいらして経を唱えてくれる。その時初めて自分の家が昔から特定の宗派に属していた事を知る若者も多い事だろう。そうでなくてもクリスマスや端午の節句、お盆に先祖を迎え入れるなど、家や地域によっては更に一年中イベント尽くし、宗教的な行事と一緒に生きているといっても過言ではない。日本の神様、八百万の神そして神道含め、様々な神様に触れて生きているせいで、特定の宗教に属している認識が薄くなった結果、何も属していない無宗教という認識が広がっていったのではないか。
本書はそうした宗教及び宗教的なものに人が惹かれていく理由や過程についてわかりやすく教えてくれる。私個人は多くの人と同様に、特定の宗教には属していないが、質問されたら日本固有の神道を中心としたあらゆる宗教の良いとこどり、とでも答えるだろうか。果たして過去に国内最大のテロを起こしたオウム真理教や、政治との関係性が大きな問題になった統一教会、駅前で毎日の様に勧誘的な行為を繰り返すキリスト教系の宗教団体などを見ていると、なぜそういったものに人は入り込んでいくのか理解が難しかった。
なぜ人は宗教を信じるのか。前述した様に人は悩みを抱えているから、何かにすがりたくなる事はあるだろう。私には自分のことは自分で何とかしろという気持ちもあるから、どこか精神的に弱い部分を補完するくらいの事ではないかと思ったりもする。ただ自分ではなく、自分に深く関係する親や子供の事だったらどうだろう。自分の子供が不治の病に侵されてしまったり、どうにもならない状況に陥ってしまったら、もう自分の力ではどうする事も出来ず、何かに祈りたくなる気持ちも理解できる。そうした自分の力が及ばない事は大きな理由になり得る。
そして人が生物である以上絶対に避けられない死への考え方も同様ではないか。死んだらどうなってしまうのか、死後の世界はあるのか、死に際して自分の生まれてきた存在の意味は何であったのか、こうした解決できない精神的な世界の問題も解きようがない。勿論物理的な肉体は朽ちて自然に還っていくとしても、多くの説明できない霊的な事象に対して私は明確な答えを持っていない。それを否定できない以上は、やはり精神が死んだらどこにいくのかは答えようがない状態にある。もしかしたら私も今医者に余命3ヶ月と宣告されてしまったら、きっと恐らくはそうした疑問を解き明かすために宗教を見つめ直すかもしれないと思う。
そうした自分の力で解決できない(本書では不条理と呼んでいる)悩みや死は宗教に入っていく大きな要因になり得る。そうした人々を「ダメ」だと否定もしないし、何かそうした理由があることを理解できないと、ただニュース報道を見て、だから宗教はダメなんだと判断してしまいがちだ。宗教がある所に理由があり、それを信じる人にも理由があり、そして救われる事実がある以上は存在の価値や意義は十分にあると思う。そうした間接的な理由を知る上でも本書は大変参考になる。 -
タイトルと内容が噛み合ってないテキストでした。内容は宗教の必要性について力点を置いているので、タイトルにある問いにはあまり触れていないように感じました。とはいえ、興味深く読みました。後半は著者に馴染みがある浄土真宗を例にあげて論じている点は賛否あるようですが、偶然にも私自身が帰依している(といえるほど熱心に何かをしてる訳ではないですが)宗派だったので、法然や親鸞がどのようなことを説いていたのかを色々と知ることができたのは大きな収穫でした。ただ「人権」について触れてる点は違和感がありました。私の読み方が悪いのかもしれませんが。「歎異抄」は読んでみたい本です。
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『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)の姉妹編ということですが、前著が日本人の「無宗教」的宗教観の歴史的経緯をくわしく解説しているのに対して、本書は著者自身が考える「無宗教からの宗教」がストレートに語られているように思います。
著者はとくに浄土宗・浄土真宗の「凡夫」という発想に共感を寄せており、その考えを現代の信仰をもたない人びとにもわかりやすく説明しようと試みています。 -
『日本人はなぜ無宗教なのか』という本の姉妹編とのことだか、残念ながら前作は読んでいない。人間が宗教という精神活動に依ってしまう理由に興味があるのだけれど、本書は、タイトル『人はなぜ宗教を必要とするのか』という主旨ではなく、「人はなぜ宗教を必要とすべきなのか」という提言になっているように読めた。
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「日本人はなぜ無宗教なのか」に続く本。
タイトルとは違い「なぜ宗教を必要とするのか」では
なく、「無宗教と言われる日本人の宗教観」と「宗教心
を持っているであろう日本人がこれから既存の宗教と
どのように関わり合うか」について書かれた本と言える
のではないか。
「宗教」への道のりを示すガイドブック的内容でもある
のだが、その役割を果たすには新書というボリューム
では、圧倒的に足りないという気がする。 -
本の題名と内容は一致していない。
第四章あたりで、宗教を必要としないで「納得」していく人もいる、という結論が出ているし、「なぜ宗教を必要とするのか」は中心的な議題ではなさそうと感じた。
五章六章は、「どのようにすれば宗教と出会えるか」について。
「はじめに」で書いてあるけれど
ムラの消失や「自然宗教」の衰弱の中で、「無宗教」ではやっていけない。そんな中でどのような道を選ぶか、その一つの選択肢としての宗教の紹介
というのがこの本の内容かと。
(ほかの選択肢として、「無神論」、「無協会派」、「道」、文学、老荘思想、哲学などがあげてある)
(「このような、宗教の代わりになる文化が発達したところでは、なにも、小難しい宗教を選択する必要はなかったともいえます。」p17) -
著者は「宗教」を、
教祖、聖典、教団をもつ「創唱宗教」と、
村村の暮らしのなかで伝えられてきた確かな宗教心である「自然宗教」のふたつに分けて考えています。
現代人はほとんどが「無宗教」であるといいますが、著者はそれに変わる何らかの新しい精神生活のあり方を模索する必要があると考えます。
「死ねば無になる」という考え方に対して
著者は近代合理主義から、夏目嗽石などの近代文学者の捉え方などから考察、批判をします。
後半は「凡夫の自覚」というテーマで法然、親鸞の思想をもとに私たちの救済を試みます。
無宗教が多い社会とは裏腹に、
「宗教」に対しての本格的な知識が要求される事件が相次ぐ現代ですが、著者は「無宗教」から信仰への一歩を踏み出す道筋を語ります。
本の題名と内容には若干塑誤があると思いますが、
主に、日本の文化的な背景から「宗教」を考察した一冊です。 -
日本人は無宗教であるというのが一般的であるが、今後それでいいのかという問いかけの書。
人間の性というものを真剣に考えていったら、宗教はその一つの解決方法を提示してくれるというもの。
著者自身は何の宗教を信仰しているかは明かさないが、法然の唱える浄土宗が入門としてオススメだと暗にほのめかしている。
入信するか否かは本人の自由だが、少なくとも宗教に対する知識は必要だとの主張には賛成。
私の理解不足で恐縮だが、仏教は哲学に非常に近い感じがする。
ただ頭から信じろと強制するのではなく、本人の理解(悟り?)を持つことを要求している点が好ましい。
私のような無心論者がよくこだわるポイントに、「神がいるなら証明して見せろ」というものがある。
それに対して、信ずるものにとって存在を証明することは大事ではなく、そんなものは信仰にいささかも影響を与えないと説明している。
なんか、うまく騙された気になっちゃうが、宗教とはそんなものであることには違いない。
なんたって、信じる者が救われるんですからね。