- Amazon.co.jp ・本 (253ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480058386
作品紹介・あらすじ
われわれはこの世界に生きており、現代の歴史に属している。それにしては、そのことがちっともぴんとこないのはなぜなのだろう。世界や歴史と無関係に、われわれのささやかな人生がここにある。だからといってとるにたらないことなど何ひとつなく、われわれがものごとを考えて決断するときには、やはり歴史の論理のなかを、おなじ世界の他者たちとともに生きるのである。現実的とはどういうことで、真実を語るとはどのような意味か。メルロ=ポンティ哲学をひもときながら、われわれのもとに到来する出来事を真剣に取扱う姿勢について考える、一風変わった入門書。
感想・レビュー・書評
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「メルロ=ポンティ入門」というタイトルですが、メルロ=ポンティの哲学に現われる独創的な概念をわかりやすく解説することをめざした本ではありません。本書では、著者自身がメルロ=ポンティの思想という視点に立つことで、倫理学上の問題についてのどのような光景が見えてくることになるのかということを語った本であり、すぐれた哲学的実践の試みだということができるように思います。
著者はひとまず、人間の自由を高調したサルトルの実存主義に対するメルロ=ポンティの位置づけを、通説にしたがって紹介しています。そこでは、具体的な状況や他者に取り囲まれつつ、そのなかで創発的な行為をおこなうわれわれのありようを語ることが、メルロ=ポンティのめざしたことだとみなされることになります。
しかし著者は、身体というテーマを掘り下げ、「両義性」などの概念を駆使しつつ実存主義と構造主義とのはざまに立つ思想家といった、既成のメルロ=ポンティ像をえがくのではなく、むしろわれわれがそのなかに立ちつつけっしてそのゆくえを見通すことのできない歴史のなかに立ちながら考えるメルロ=ポンティの思索のスタイルそのものにせまっていきます。そこで著者は、「ヒーロー」や「愛」といった独創的なテーマにそくして、粘り強い考察を展開することによって、メルロ=ポンティの思想のもつ有効性を示そうとしています。
本書を読んでメルロ=ポンティの哲学が理解できるようになるのかどうかよくわかりませんが、本書の議論そのものは非常に啓発的でおもしろく読むことができたように思います。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
23 動物も「その統合度に応じて、ひとつの実存である」
実存
在り方のみでなく、認識された行動
英雄の前で哲学は沈黙しなければならない
論文「戦争は起こった」
実存的意味作用
弁証法的変身
rangとparole
→ドゥルーズ、デリダへ
わたしとは状況の可能性
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とりあえず手に取ったメルロ・ポンティ本。実に面白い著作
だったし、哲学書にしては珍しく読みやすく人を惹きつける
文章だった。名著だと思う。ただ、この本が正しくメルロ=
ポンティの入門になっているかどうかは不明。八割方以上
船木亨の著作と思った方が正確なのではないかな。 -
読み物としては面白いが、メルロ=ポンティの哲学を知ろうと思って読むと、著者とメルロ=ポンティの哲学を混ぜたような感じになっているので非常にわかりにくい。メルロ=ポンティの著作を読んだ上でこの本を読めばまた違うのかもしれないが。
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読み終えました。
次は、『知覚の現象学』です。
(2015年09月18日)
2回目です。
2007年2月12日に、一度、読んでいます。
(2015年09月02日) -
すごくひとりよがりな本だった。
歴史、時間、出来事がメルロ=ポンティのキーワードだということはわかった。
また、歴史と時間について少し興味を持つことができたのは、私にとってこの本を読んで良かった数少ない点の一つである。 -
メルロポンティの思想を解説しているというよりも、このひと自身の解釈や論が多かったように思う。
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メルロ=ポンティの入門書のはずですが、著者もあとがきで認めている通りにメルロ=ポンティの考えと著者の考えとが混在してしまっていて、メルロ=ポンティの思想を系統立てて理解するのには分かりにくくなっています。しかし、「なぜ、そういう問いを立てるのか」という観点から哲学的な諸問題を論じているので、それはそれで面白いと思います。ただ、本書を購入する人間の動機を考えると、もうちょっと親切であってもいいかなという気はします。むしろメルロ=ポンティの思想をある程度理解している読者向けか。
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メルロ=ポンティの解説ではなく、根源的な「問い」に対して、メルロ=ポンティとともに考察していく、という体裁。哲学とは根源に向かい、そこから生きる力を得ていくものであることを実感した。書名と内容の乖離はあるが、内容的には非常に良書。
以下、気になった記述
・人生に意味はない。なぜなら、意味というのは人生の中にあるものであって、人生そのものについて語れるような概念ではないからである。
・「われわれは意味の刑に処せられている」
・正義の味方がパロディにされた原因に、TVという傍観者的なメディアの存在が考えられる。
・TVは、それを見ている多数者を思い出させるような独特のコミュニケーションをしてくる。
・TVこそ、だれしも傍観者であるような、最も強力な現代の正義である。
・「歴史の与える状況のまえでは、われわれは自由な個人ではなくて、フランス人であったり、労働者であったり、相互にそれぞれの資格でしか働きかけあわない、もっと一般的で匿名的なひとである」
・「決断とは引き受けられた状況である」
・そうした議論(理屈っぽい問い)は、事情が切羽詰まっていない穏便なときに、理論的に考察する結果として生じるのであるが、実践における真実は、不可避的にそうした議論を虚しくさせる。
・わたしがわたしにとっての他者になるのに、時間が必要だ。
・疑惑という状態は、行為自身が疑わしいものであるかぎりにおいて、行為そのものから、やむをえざる勢いで沸いてくる。
・本来、他者とは、対象に帰属させる以前に、差異について意識されたもののことであり、むしろわたしのなかにあってわたしでなく、あるいはわたしのそとにあってわたしであるような、わたしを否定したりするところの存在である。
・「哲学はすべての事実、すべての経験に接しながら、ひとつの意味がおのずから獲得される豊穣な瞬間を捉えようとする。真実とは、存在するのはただ一つの歴史、一つの世界だということを前提しながら、これを事実としても成立させるような生成である。その真実の生成に対して、哲学はこれをわれわれのものとして取り戻し、あらゆる限界を超えて推し進めるのである。」
・意味は存在するものではなく、生成するもの。
・相手の運命に巻き込まれるのに躊躇するような半身の姿勢では、相手は自分の聞きたい助言しか、聞こうとはしない。
・世界の諸対象は、われわれがしぐさを相互に了解しているとき、そのしぐさを巡身体動作のネガティヴな形象として現れる。
・「われわれが発見したものは、意味という語の新しい意味である」
・構造主義
・語る主体とは、他なるものを他なるもののままに抱懐した、そうした奇妙な主体である。
・メルロ=ポンティのいう「ひと」は、利己的で無責任な匿名ではなく、出来事に出会うに当たって、これこれの社会的地位や思想や性や見せかけを超えて、ただの人間として立ち会っている、そうした普遍性を持った存在のことである。そこでは、みな剥き出しの身体をもっていて、おなじひとつの世界に属しており、ひとりひとりが自由に出来事に参画する、そのかぎりで出来事を捉え、そして語るひとである。--とりわけ、死に迫られるような極限的な状況では、そこに「ひと」が現れ、、まさにそのひとの存在が賭けられる。(P220)
・メルロ=ポンティのいう「わたし」とは、神ならもっているはずの絶対的視点を、決して獲得することはない。
・「時間を主体として、主体を時間として理解しなければならない」(P223)