百姓の江戸時代 (ちくま新書 270)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (219ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480058706

作品紹介・あらすじ

江戸時代は士農工商の時代だ、という常識がある。きびしい身分制度のもと、農民は田畑の所有を許されず、重い年貢に苦しめられ、自給自足を強いられたという説明だ。だが、村々に残る資料をみて歩くと、まったく異なる世界がみえてくる。百姓たちは銭を用いて布を買い、それを身にまとって祭りを盛り立てた。また、広い敷地に庭を造り、茶・書・華をたしなみ、俳句をよんで旅をした。その一方で、乏しい資源を大切にし、浪費を抑え、そして元気よく働いた。本書では、これまでの権力の側からの史観を覆し、当時の庶民である百姓の視点から江戸時代の歴史をよみなおす。

感想・レビュー・書評

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  • 今まで読んだり聞いたりした江戸時代とは違う角度からの視点で面白い。農民は百姓でありもっと自由だったと。決まり事はあったけどそれは自分たちの生活を守るためのもので自分たちが決めたもの。
    村の史料の中にこそ江戸時代の真実がある。
    しかし、書き方が一般的な近代史に反論する気持ちが強すぎる書き方だった。

  • [ 内容 ]
    江戸時代は士農工商の時代だ、という常識がある。
    きびしい身分制度のもと、農民は田畑の所有を許されず、重い年貢に苦しめられ、自給自足を強いられたという説明だ。
    だが、村々に残る資料をみて歩くと、まったく異なる世界がみえてくる。
    百姓たちは銭を用いて布を買い、それを身にまとって祭りを盛り立てた。
    また、広い敷地に庭を造り、茶・書・華をたしなみ、俳句をよんで旅をした。
    その一方で、乏しい資源を大切にし、浪費を抑え、そして元気よく働いた。
    本書では、これまでの権力の側からの史観を覆し、当時の庶民である百姓の視点から江戸時代の歴史をよみなおす。

    [ 目次 ]
    序章 「日本近世史」のあやうさ
    第1章 百姓を独立させた検地
    第2章 身分社会の終焉
    第3章 法と制度のからくり
    第4章 新しい社会の秩序
    第5章 百姓の元気
    第6章 民意が公論となるとき
    第7章 村に学んだ幕閣

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    [ 参考となる書評 ]

  • 江戸時代の農民といえば、貧しく辛い生活をしていたという印象があったが、まるで違っていたということが分かりました。色々な禁令は、実は守られることのほうが珍しく(ほとんど無く)、思った以上に自由にのびのびと暮らしていたのですね。

  • 慶安のお触書は、法令というよりも、但し書きであり、ほとんど実効性を持たなかった。ただ江戸法令集に載っているという理由で、「近代史」すなわち支配者史観が、教科書にも載せるという愚かさを演じた。「幕府の法は社会現象に対する後追い対策」であり、近世史が、もっとまともな江戸の百姓の現実生活に沿った活写していれば「現代」にも僅かながら残る?村落に残る「入会権」を生活の掟と秩序に拠る理屈あるものであった。■村にとっては生活上の必須の根拠である掟と秩序を近代の「民主主義」という胡散臭い俯瞰的な視点で、眺める否定することだけであった。相対主義観無き「学問」は、擬制の権威と腐敗を持つ。それは犯罪感無き「犯罪」に等しい。■「第二次大戦後、こうした生産上の秩序をめぐって、民主主義だ、いや封建制だという紛争がおきた。昭和30年代、佐渡小木(おぎ)半島の村で、ワカメの刈り取りをめぐって紛争が起きた。この争いのときにわたしは、現代の日本人が、秩序をすべて封建社会の産物だと考えてしまっていることをこの眼で見たのである。江積という地先の村人は、ワカメ魚場は自分たちの村が昔から独占的に保持してきたのだから他人にはワカメを取らせない、と主張した。■これに対して、海は公共のものだから、誰が海中のワカメを刈り取ろうととがめるべきではない、と主張した人たちがいた。そしてこの紛争はその地域と直接関係ない人たちの間に議論を広げ、ついに民主闘争と呼ばれる本来民主主義と何の関係も無い似非運動に発展して行ったのである。」
    ■百姓は、比較的豊かな生活を送っており、「名主」という「身分」の売り買いがなされ、村の「寄り合い」が、自治組織であり、村の掟に背く村八分は生活上必要であった秩序をとるという共同社会を、ヨーロッパの史観?を当てはめた、共同観念の支配された裏返しの「民主主義」観念史の破棄を読者に要請している。■作者は、近世史観の批判と同時に、「学者」達の似非の「権威」についても、批判しているが、それは告発にも近いものにもなっている。
    ■「百姓は、『もうける』ために商品生産をした。越後魚沼に生まれた縮(ちぢみ)の生産は、村でも尤も大きな農業生産に従事するもおから開始されている。家計補助のために商品生産を始めたとか、家計補助のために他国に出稼ぎに行ったなどという繰言を(近世史の学者)は、いつまでくりかえすのであろう。■簡単に言ってのければ、江戸時代の農民は、食糧は自給していても、家族はそれぞれもうけになる仕事を選んでいるのである。そういう意味ではみんな二足のわらじを履いていた。そのような村人を百姓と呼ぶのである。
     ■幕府は士・農・工・商と称して村に住む人々を一括りにして捉えるが、実態としての農民は、農業を経営しながら他方で鍛冶屋をしたり、馬を持って運送業に従事したり、酒を作ったりするのである。そういう意味で江戸時代は百姓の時代なのである。現に村では、農民は百姓と呼ばれた。そしてこの構造は現代にまで及んだ。」p153
    ■ともあれ、江戸時代は人口構成の80%の百姓が主体となる前資本主義社会であったとする著者の歴史観によって、江戸時代の見方を変える必要性がある。■そして、権威に悖る「権威」による既得権益を持つ歴史学者の批判は、これから徹底的に「現在」の生活からもなされるべきだろうという視点が、本書から得られるだろう。

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著者プロフィール

1944-2018年。新潟県佐渡郡金井町生まれ。新潟大学人文学部経済学科卒業。高校教諭を経て、67年京都大学国内留学、88年筑波大学教授、94年群馬県立女子大学教授などを歴任。従来の、武士を中心とした「日本近世史」の史観に異議を唱え、当時の一般庶民である百姓こそが時代の主役であったという視点を、村々に残る史料をひもときながら主張しつづけた。著書に『佐渡金銀山の史的研究』(刀水書房、第9回角川源義賞)、『帳箱の中の江戸時代史』(刀水書房、新潟日報文化賞)、『日本の江戸時代』(刀水書房)ほか多数。

「2022年 『百姓の江戸時代』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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