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Amazon.co.jp ・本 / ISBN・EAN: 9784480058775
みんなの感想まとめ
哲学の深淵に迫る本書は、ハイデガーの思想を理解するための入門書として、多くの読者に新たな視点を提供します。著者は、ハイデガーが実存主義ではなく「存在への問い」を再考する重要性を強調しており、プラトンや...
感想・レビュー・書評
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この本が入門書として良書かどうかはこの後実際に「存在と時間」を読む段になって明らかになると思う。なので今は星三つ。
不満な点を挙げるとすれば、一部の術語(「時熟」、「脱自的」など)が最後まで意味を説明されずに使われていることか。入門書の読者としては、国語辞典に載っていないような術語については一言説明が欲しかった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
僕の学生時代、中央公論社から「世界の名著」シリーズが出て、今年5月に逝去された、辻村公一先生が、ハイデガー(Martin Heidegger)のそれまでは通常「存在と時間」と和訳されていた「Sein und Zeit」を「有と時」(うととき)という刺激的なタイトルで訳されて、僕も古本屋で買った。結局正直難しくて読み終えられなかった。大学一年先輩のYさんが確か、卒論を書かれたと思う。息子が大学へ入った時にプレゼントした。今、アマゾンでみると結構プレミアムがついている。(笑)
そこで、死ぬまでに読めなかったトラウマ解消のためにも、少しチャレンジしてみるべく、入門書から読むことにした。「ハイデガー入門はそれが必要とされなくなることをめざしている。」と著者がおっしゃる通り、僕にとって、正直、素晴らしくよくできた入門書であった。ハイデガー哲学は実存哲学でない。「存在への問いを新たに立てること」だということから始まって、プラトンとアリストテレスの存在への問いを取り返すことだという。キーワードWoraufhin「それへ向けてのそれ」、「存在者ー存在ー存在の意味=時間」から「形而上学の二重性」を神を「範例的存在者」とする解決策、ニーチェ、ウィトゲンシュタインとの関わりなど興味深く、哲学への思いがますます強くなった。 -
大学の後輩(?)が、「死」をテーマにした文学の授業作りで卒論を書いているそうだ。そのとき、指導教員の先生に読むように勧められたのが、ハイデガーだったそうで、来週、ゼミで立松和平「海の命」を扱う上で、基礎教養として勉強していこうと思って読んだ。率直に言って、当面の自分の目的に照らすと、ハズレの本だったことは否めない。
全体として、ハイデガーのテクスト、主に『存在と時間』を通俗的な実存主義哲学の系譜に位置付ける読みから、プラトンやアリストテレスといった古代のギリシア哲学の系譜に位置付ける読みへと読み替えようとする。そうすることで、ハイデガーのテクストを自力で読む準備を、読者に提供しようというのが、この本のコンセプトである。
ただ、批判対象になっている通俗的な読み自体を知らないので、全編通して、何が批判されているのかが分からないというのが率直な感想だった。加えて、ハイデガーの原著を読む予定はないので、一般的なハイデガー思想を網羅的に説明してほしい人間のニーズには合わない。
前提がよく分からないという点で、一番よく分からなかったのが、ハイデガーとナチズムのくだり。ハイデガーがナチズムに加担したという話は、小耳に挟んだことがあったけれども、この本でそれ以上に解像度が上がることはない。やっぱり、「入門」を謳うのであれば、一般的にハイデガーがなぜナチズムに加担したとされるのか、その歴史と経緯を、常識的な範疇で説明してほしかった。著者は、ハイデガーを擁護しようとしているらしいが、一体何から擁護しようとしているのかが、やはりここでも分からない。
強いて参考になったところを挙げれば、ハイデガーが考える「死」に関して説明しているところについては、やや参考になった。アリストテレスの、「キーネーシス(運動)」と「エネルゲイア(現実態)」の分類が面白い。
例えば、歩くという行為には、目的地に到着するという目的(テロス)があるが、美しい花を見るという行為には、到着するべきテロスがない。アリストテレスは、前者のようなあり方の行為を「キーネーシス(運動)」、後者のようなあり方の行為を「エネルゲイア(現実態)」と読んだ。
「死」を「生の終わり」と捉える考え方は、「生」を「死」がテロスとなる「キーネーシス」としての捉え方である。しかし、ハイデガーは、人間の「生」を「エネルゲイア」として捉える。つまり、人間は、死に向かっていっているのではなくて、生きていることがすでに「死」なのだと言う。こうした人間のあり方を、「死に至っている存在」という風に、この本では整理している。
だから何なのかというところまでは、今一つまだ応用が効かないのだが、「死」に対する捉え方として、今まであんまり考えたことがなかったので、面白かった。こういった死生観から見ると、立松和平「海の命」なんかは、どんなふうに読めるのかは、ちょっと考えてみたい。
とにかく、ハイデガーの入門書として、特に、一般的なハイデガー思想を理解したい人には、まったくおすすめしない本である。そうでなかったとしても、この本が面白いのか否かは、まったくもってぼくのものさしでは未知数である。
ハイデガーをそれなりに読み込んだことのある人がいたら、自分の読みと比べてみてほしい。 -
「ハイデガーは実存主義ではない」というのは昨今では当たり前になりつつあるように思えるが、本書が刊行された2001年時点では、そうでもなかったのか非常に強調されているのが印象的。という意味では、現在となっては「存在への問い」というアリストテレスに由来するオーソドックスな内容と言えるのかもしれないが、「入門」というわりには少々難解に思える。
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良くまとまっています。但し、欲張っているのでやはり原書を読まないと思いますが、難解な文体とのことで二の足踏んでいます。今サルトルを読んでいるので、敵対したようでその参考にくらいのつもりで読もうかと思います。
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東2法経図・6F開架:B1/7/277/K
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よくわからないから、もう少し入っていくことにするよ。
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プラトン、アリストテレス、カント、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、そして存在と時間。この辺りがハイデガーを理解するのに重要であることまではわかった。ただし他はかなり難解。
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自分が何を知らないか、何を読むべきかがわかった。本書の内容は5章以降からなんとなく理解できる部分が増えたものの、それ以前はやはりアリストテレスやプラトンを、彼らの言葉を知らないので致命的にわからなかった。
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ハイデガーをプラトン、アリストテレスと接続し、ギリシア哲学から存在論を位置づける。ナチズムのニーチェ利用との距離とプラトン哲人政治と詩・思惟・政治の三位一体の理想と失望。ハイデガー『存在と時間』を中心に歴史的位置づけと狙いをさらう入門書。
『存在と時間』の根本的な問いが存在の意味への問いであること、そしてその問いがアリストテレス存在論の核心であるプロス・ヘンの取り返しであり、さらにプラトンの善のイデアの取り返しであること。現存在の明るみを照らす光は時間性に求められる。このことを『存在と時間』は「脱自的時間性が現を根源的に明るくする」と表現している。認識が成立するために認識する者と認識されるものだけでなく、第三のもの(イデア、カテゴリー、形式、言葉、基準枠、パラダイムなど)が必要とされる。「現象は光のうちで視られうる」というテーゼがハイデガー現象学の核心をなしていること、光の問題がプラトン、アリストテレスにおいて重要であること、善のイデアの光、能動理性の光が語られていること、そしてこれらを関係づける可能性。前期ハイデガーはギリシアの光の視覚モデル、後期ハイデガーは言語の聴覚モデル。
古代ギリシアから西洋近代まで貫かれる、形而上学の二重性。ハイデガー存在論・メタ存在論、アリストテレス存在論・神学、プラトン イデア・善のイデア、カント一般・特殊形而上学、ウィトゲンシュタイン論理・倫理、ヘーゲル現象学・論理学。
プラトン『国家』の「哲学者=統治者」のテーゼに言及する。このプラトンのテーゼに対して、ハイデガーは「詩人―思惟者―国家構造者」の三位一体を構想した。ナチズムとの接続を見出すが、戦後決別する。
アリストテレス『デ・アニマ』「心はある意味で存在者である」が『存在と時間』「現存在は存在者をその存在に関して理解する」の根幹をなしている。
「私の思想の根本思想とはまさに次のことである。存在あるいは存在の露呈性は人間を必要とし、逆に人間は存在の露呈性のうちに立つかぎりでのみ人間である」。人間と存在とのこうした関わりの場をハイデガーは問うのであり、存在の「意味―真理―場所」への問いは、「存在が存在として露となり、非秘蔵的となる境域」を問う。
わかったつもりの浅薄な理解(単なる誤解)より、わからないと知るほうがいい。おとぎ話を信じないためには、実際に『存在と時間』を自分の目で読むことである。そしてわからない箇所をわからないとはっきり知ることである。あるとき、突然ハイデガーの核心が見えてくるだろう。そして今までに見たことのない光景が一挙に開けるだろう。それは、人まねでない自分独自の読みを獲得することである。 -
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20世紀に活躍した哲学者ハイデガーの主著
『存在と時間』を中心に、
本入門書の著者の言葉通り、
「ハイデガー哲学が動いている問題地平を
明らかにすることを目的にしている」本になっています。
原語でハイデガーを読む人のための入門書という位置づけのため、
本書では、中身の解釈にまでは立ちいっていません。
「哲学」というもの自体、
頭を使うもので、難しくて、
なかなかとっつきにくいものだったりしますが、
そんな「哲学」のなかでも、
ハイデガー哲学はとりわけ難解な部類に位置付けられる「哲学」だそうです。
なので、本書自体も難しいです。
『存在と時間』にあたるための外堀を埋めていくにしても、
古代ギリシャ哲学者である、
プラトンやアリストテレスから始めなければわからない。
『存在と時間』は、古代ギリシャからの存在論を甦らせるというか、
より一歩進めたような哲学のようだと僕は思いましたが、
『存在と時間』を読んでいないし、たぶん読まないので、
そこはわからないですね。
ただ、存在の意味への問いが、形而上学的(神学を含んでいる学問)にいえば、
それが「神」が答えになるところで、ハイデガーは「時間」を答えだとしてました。
さらに、ハイデガーは存在の意味においては、
神がそこに立ち上ってくることを嫌い(?)、
存在の真理を問うというかたちで回避していこうとしていくようなんですが、
もうね、なかなか、読み終わってしばらくたつと、
脳内から湯気のように蒸発していくような、
頭に定着しずらい難解な抽象的思考で構築されていました。
形而上学もそうだし、現象学もそうだし、
いろいろな基礎があって、ハイデガーは自分の哲学を創っていった。
そして、当時ナチスの時代ですから、
ナチズムとの間になにかスキャンダル的なことがあったらしいのですけども、
本書はスキャンダル的にならないことをモットーとして書かれているため、
まったくそれがどういった事件なりトラブルなりスキャンダルなりなのか
書かれていないのです。
その態で、ナチズムとハイデガーについて哲学的な面から論じられていて、
なんだか核心をベールで覆ったままみたいに、
すっきりしなかったですね。
なんていうか、ちょっと純だというか、
中身については、きれいすぎる本ではあります。
というわけで、ハイデガーの哲学そのものについては
わかるところがあまりなかったですが、
外堀を埋めていくところで、その周辺部に出てきたものが面白かった。
そのひとつは、現象学です。
「見る人」と「見られる物」、
その二つがあるとだけ認識してものを見る、と考えると何か足りない。
そう、光が足りないのです。
光が照射されているからこそ、
「見る人」は物を見ることができる。
現象学のこの考え方っていいなあと思いました。
これは「考える人」と「考えてもらう物」の二つだけとすると
不完全だってことに繋がります。
たとえば医療の現場で、
医者が患者を治療するところだけを見たり考えたりしてたんじゃ足りなくて、
なにがその病気を起こしているかを考えないと完全じゃない、
みたいな疫学的思考と現象学は繋がると思う。
現場が川下で疫学研究が川上と比喩したものも以前読んだ本にあったけれど、
現象学的な光の考え方ですよね。
それと、
関連してでてきたウィトゲンシュタインの哲学があって、
彼の「人が永遠性を無限な時間持続してではなく、
無時間性として理解するならば、
現在のうちに生きる者は永遠に生きる」っていうのが、
村上春樹『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の
結末のアイデア源なんじゃないのって思ってしまった。
しかも、読んでいくうちに、
この無時間性の永遠性って、
古代ギリシャから連綿と引き継がれてきた哲学のひとつだそうで、
ポピュラーなんだなあと、自分の無知を知りました。
また、
プラトンが言ったイデアの概念については、
実は学生時代にwebでいろいろ調べて考えた経験があって、
それが今回助けになったのでした。まあ、それでも難解でしたが。
というわけで、
ハイデガーについてもちょこっとでもなにか言いたいところですが、
本書の著者が、ハイデガーについてわかってもいないのに、
部分的につまみ食いしたようなものを語るべからず、と強くいっていますし、
そういったものは「おとぎ話」にすぎないと斬って捨てているので、
やめておこうと思います。
ハイデガーを知りたければ、まず入門書としてこういう本がありますが、
原書をあたらなければわからないということです。
翻訳したものもありますがそれは不完全すぎていて、
原語の単語単位で解釈しないとわからないところがあるから、
ちゃんとドイツ語を学んで読みなさい、ということです。
……厳しい世界ですね。 -
本書の目的は、「ハイデガー哲学が動いている問題地平を明らかにすること」だとされる。そのため、ハイデガー哲学はいわゆる実存哲学ではなく、プラトン・アリストテレスによる存在への問いを改めて立てる西洋哲学の嫡子であることを導きの糸として、ハイデガーの思考がどのような問題に関わっているのかが詳細に論じられる。主たる分析対象は『存在と時間』であるが、その論点を逐一検討していくのではなく、ハイデガーがプラトン・アリストテレスの哲学をどのように解釈し、そこから何を得たのか、同時代のウィトゲンシュタインの哲学と実は形而上学の次元において交錯していることなどが主張される。「入門」と題され、しかもハイデガー哲学への導入の役目を果たせば「入門」は不要だと言い切る本書であるが、哲学史上の様々な問題群と関わるハイデガー哲学をいかなる視座のもと理解するべきかについて、極めて明快な解答を与えているように思われる。
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数学や物理学などは、ある一定の高みまで行かなければ、数学する、または物理学する喜びは得られない。本書は哲学に関して、ハイデガーを通し、哲学する喜びを味わう「入り口」まで引き上げてくれる良書だ。
ただし、ハイデガーという名前を聞いた程度、その主著『存在と時間』のあらましすら分からない、という読者向きではない。
ナチスのあたりは、なぜ?が拭えなかったが、西洋哲学史上繰り返し問われてきた内容についての指摘は、全般に驚きを持って読み進めた。 -
難解で、飛ばし読みし、ハイデガーが難解であることだけが解りました(涙)。
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基本的にあんまり著者は好きになれないと感じた。著者が主張したいことはわかるのだが、読者にとってあまりにも上から目線過ぎることと、自己心酔みたいなのを表に出しすぎている。それとも、哲学者とはこういう人ばかりなのだろうか?だが、この人は、「解釈」や「理解」が目的のような書き方をしているし、それは大したことがないと感じさせられる。基本的に、自分なりに疑問を抱いていることがあり、それに答えてくれる哲学者を探し、そこからある程度の価値基準を経たら、その哲学者の価値観を基軸としてこれまで問われてきた哲学的命題や他の哲学者を把握して生き、最終的に「自分なりの哲学観」を築くことが目的なのであって、解釈や理解はそのための道筋に過ぎない。このことを、著者はハイデガーの言葉を引用して、「私の著作は作品ではなくて道筋だ」と言わせているのに、そのことを自分ではごっちゃにしているような印象を受けた。理解する悦びは確かにあろう。しかし、理解する悦びはやはり通過点だ。解釈が間違うことは危険ではあろう、しかし、大事なのは違わず解釈することよりは自らの哲学を構築することにこそあるはずだ。どうにも哲学者を理解して有頂天になっている哲学学者を見るとこうして攻撃的にならざるをえないところがある。いえ、この人の論文を読んだわけでもないし、自分自身は素人なのだけれど、こういった風に解釈されかねない文章を著者が書いたのもまた事実であるので。
とはいえ、ハイデガーは基本的には古典プラトン―アリストテレスを基軸としているようだ。正確に言えば、現象学によって解釈されたプラトン―アリスとテレスらしい。もう少し言えば、プラトンからアリストテレスは発展していると彼は捉えているようで、言うなればアリストテレスである。ハイデガーの真骨頂はこの言葉に集約される。「存在は現在から理解される」。存在とは、存在者を超えた意味を持つものである。存在者―存在―存在の意味、というこの構図が終生、ハイデッガーの三基軸となっていたようだ。また著者はハイデガー理解の際に、「真理の三基軸」なるものを構築している。これは彼のナチズム系統の際の、「ヘルダーリン―ハイデガー―ヒトラー」の内的真理とも符合している。著者はハイデガーを政治学に関しては未熟な子供と述べることで、ハイデガーの哲学を守ろうとしている。これは逆に言えば、哲学というものを実践的に用いようとした時点でその本質が失われることを明確に現しているように思われる。哲学は所詮は思索である。しかし、それは根本的な究極の思索である。しかしそれでいて普遍的な日常的思索でもある。だが、思索なのである。なので哲学を実用的に改変すれば思想になるし、思想を更に実利的にすればそれは実用書になるだろう。そのようなものにはもはや哲学のエッセンスは枯渇しているだろうし、そこに哲学を見出すのはどうなのだろうか?とは思われる。ハイデガーはそれを身をもって証明してくれたとも言えるだろう。さて、話は戻るが、存在は現在から理解されるというのは、これはつまり現存在という言葉が導かれることとなる。逆に言えば、存在を理解しようとすればそこには時間が必ず必要で、絶えず現在からになる。存在は現在に従属している。しかし、存在は存在者を超えるものである。このあたりのニュアンスがかなり難しいのではないか?捉え切れられている自信はまるでない。ハイデガーはある種この形而上学とでも呼べるもの=存在に迫ろうとするときに、それへ向かうそれ、といったある種の志向性のような概念を提唱している。むしろ、志向性としか捉えきれないのではないか?そして、この志向性が向かうのは<一>である。<一>は現在である。これはアリストテレスの存在は多様に理解されるへのある種の回答とも言えるだろうし、アンチテーゼとも言えるのかもしれない。また、存在者―存在―存在の意味は、プラトンのイデア観に近しいだろう。美しいもの―美―美の意味は?といった構図がつくられる。更に著者はヴィトゲンシュタインとの関係性にも切りこむ。存在に対しては、である、と、がある、がある。ヴィトゲンシュタインは、がある、は神でありそれは論理では証明できない語りえないものとした。しかし、である、は論理で証明できるものとしてそれを語ろうとした。前者が倫理であり、後者が論理であるが、どちらも超越的である。だが、前者が超越的ならば後者は超越論的とも言える。よって、ヴィトゲンシュタインは明確に形而上学を想定しているとも言えるのであり、両者の親和性の高さが見え隠れする。存在と時間辞退は結局のところは未完で終わり、ハイデガーがどこまでたどり着けたのかは実際のところは想像の息を出はしないのだろう。彼はある種の志向性を発見し、それによって存在へと迫ろうとした。その際に用いたのは現在である。また、彼が言う現存在は人間のことであり、存在者の一部である。このことは現代物理学とも相応している。マクロな観測者によってのみ時間が認識される、という相対正論と量子力学である。全ては光だけである。この光は、プラトンのイデアの光、善の光、などといったものと照合されうるだろう。ハイデガーの哲学はこのような観点である種の相対性を獲得しているのではないか?現存在という観測者によって捉えられうる存在。ここからどこまでハイデガーが迫ることができたのかは正直わからない。ただ、存在への不安から始まり、時間によって存在を理解しようとした彼はかなり時代を先読みしていたとも言える。個人的にはヴィトゲンシュタインの方が魅力的なのだが、もう少しハイデガーについても知りたいと感じた。 -
7/30の読書会で使用。
この本が新しい所は、ハイデガーは実存主義の親玉じゃない、と言い切って解説を進める所。(いっぽう竹田せいじさんは実存主義よりな解釈)
でも実存主義じゃないことの証明になるはずなのは、肝心のテンポラリテートの論展開で、それは完成されずじまい。不満が残るというか何というか。
やっぱり、これまでの哲学を総まとめしようとした偉大な挫折っていう意味でも、最後の哲学者っていうイメージがある。 -
ハイデッガーの事を勉強しようと思って初めて読んだ本が難しすぎて、2冊目に読んだ本です。
この本は文庫だけあってものすごく読みやすかったです。
ハイデッガーの主張を筆者の言葉で言い換えてあり、理解が比較的容易に出来ました。
しかし、わかりやすさ故の物足りなさを感じる面もありました。
例えば原典の引用が全体的に少なかったような印象があります。
やはり原典に基づいているという確信が持てなかったので物足りなさがありました。
また、この本では時間と存在については結構詳しく分かりやすく触れられているけれど、詩作・思索についてなどはあまり触れていないのかなーと感じました。
この本はハイデッガーの主張を彼の生涯を絡めて考えているのですが、私はこういう視点も面白いと思うけれど、もうちょっと著作に踏み込んだ内容のほうが好きかなーという印象です。
でも、あらゆる視点からハイデッガーの思想を考えるのは有意義だと思うんので、読んでよかったと思っています。 -
ハイデガーが難しいことはわかった。
この本が好きな人におすすめの本
細川亮一の作品
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