死生観を問いなおす (ちくま新書)

  • 筑摩書房
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  • 本 ・本
  • / ISBN・EAN: 9784480059178

感想・レビュー・書評

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  • 似非ニーチェ的にニヒル嘯き「どうせ死とは無にすぎない」などという考え方をやわらかく否定し、時間から永遠という事象の考察を経て死とは絶対的な無と絶対的な有、すなわち永遠という結論を導く。宗教哲学観念論すれすれではあるが明確に論じられているため、説得度が強い。

  • 私はどこから来てどこに行くのか、死とは無であり断絶であるのか、という生と死の根源的な問題に、時間論というユニークな視座から答えようとした著。さて、著者の結論は、死は決して終わりではない、無の断絶ではない、だから、安心して自信をもって生の充実に向かっていけばよいというもの。生きることに不安を感じている人、毎日にモヤモヤしている人、目の前の困難を突破することにはならないけれど、救われたような気分になるのではないでしょうか(私もそうでしたが)。

    文学部 H.K

    越谷OPAC : http://kopac.lib.bunkyo.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=1000297449

  • 自分にとって新しく、記憶に残ったのは下の3つの考え方

    ・死生観を理解しようとすると、時間、特に「永遠」という概念ををどう捉えるかに行き着く
    ・人間の子供と老人の期間が生殖可能期間に比べて長いという事実から、それぞれの期間の役割を考える
    ・生と死について考えるとき、どこかで科学や哲学の世界から宗教について触れることが不可欠であり、キリスト教は直線的に、仏教の多くは円環的な時間軸を持っている

    日本人には無意識に浸透している、アニミズムと、人は死ぬとカミになり、子孫を見守っていくという神道の死生観について著者がどう捉えるかも聞いてみたい。

  • ふむ

  • 私には、生まれたときから祖父母がおらず、身内の死に出会ってこなかった。十数年前現在のパートナーと出会って、私にもやっと「おばあちゃん」と呼べる存在ができた。私の子どもたちからすると「ひいばあちゃん」。年に2回帰省の際には、ひ孫とも仲良く遊んでくれていた。ところが次第に、孫やひ孫を認識する能力がなくなってきた。最終的には特別養護老人ホームに入り、生きてはいるけれども会わないままで最期の日を迎えた。私たち家族が駆けつけたときは、火葬される直前だった。というか、私たちが着くのを待ってくれていた。そして、一目だけ最後の顔を見ることができた。子どもたちにはこう言っている。「ひいばあちゃんはいなくなったけど、思い出せばいつでも心の中で会えるよ。忘れさえしなければ、心の中に生き続けているよ。」短い期間ではあったけれど、同じ時を共有できた。それが大切なのだろう。本書では、物理学的時間から、宗教の中の時間観まで、時間について多岐に渡って検討されている。それを通して、我々の死生観を見直していこうとしている。このお盆休み、ひいばあちゃんの3回忌を迎えた。めったに集まらない親戚が集まって、ひと時を過ごした。良い時間であった。

  • 時間がキーワードとなっているようだ。死と生を教える時に個人(ひとりの人間)を考えるなら、生により時間が始まり、死により完結する。(心臓の鼓動、生命現象)
    概念としては、その前後では、時間の流れは繋がっている。祖先から繋がる家系として、遺伝として、進化としての時間、DNA記録と記憶、また後に繋がるものは、魂としての永遠性、仏、霊である。それらの線後に流れる時間を機械的に取扱っている、思考しているようだ。

    第1の旅
    時間を定義、理解することは、不要であると思われる。
    第2の旅
    ライフサイクルとしてのイメージ(p86)として図示されるが、時間とは、まさに感動的なものであると思う。基軸をどこにおくかにより、様々に変化する。
    第3の旅
    谷川俊太郎、二十億光年の孤独の詩(p109)、人間の時間と自然の時間をまさに、端的にあらわしていると思う。
    第4の旅
    聖なる時間としての宗教(の時間観)の対比を試みている。仏教徒キリスト教時間観=死後の生命(概念)がどうなるのか?は教義の真の部分である。と思う。自分以外の他者を理解するためには、知っている必要があると考える。肉親の死(間際)に面することが少なくなった今、このような問いかけは、良いかもしれない。

  • ・ライフサイクルのイメージ
    直線的に年老いていく、円環的に回帰してくる
    ・エコロジカルな時間
    時間は生物によって無限に存在する。それぞれリズムを持っている。物理的時間、生物的時間の違い。相対的時間。
    歴史は一本の長い時間上の出来事ではなく、時間の重曹的な積み重なり。

    ・永遠
    円環からの解脱の先にある。直線的な復活の先にある。
    仏教では内在的に、キリスト教では超越して行く対象である。
    ・相対的な有と相対的な無の混じった世界が「生」

  • ヒトはいつから人なのか?

    臓器移植や中絶の問題を考えるときいつもこの疑問が頭を支配する。

    臓器移植法案が成立した際に分子生物学者の福岡伸一博士が興味深いコメントをしていた。
    それは法律によって脳死を人の死とされたことで脳の誕生が人の誕生になってしまうjのではないか、ということであった。
    このことには納得させられた半面、違和感があった。

    そこでこの本を手に取った。
    人の死とはなんなのか。
    どこで人は死ぬのか。

    本著ではキリスト教と仏教の「2つの時間観」の比較から考えを進めていく。

    キリスト教の「直線的な時間観」と
    仏教の「円環的な時間観」
    どちらも行きつく先は同じであると説いているが、今の私では完全に理解することができなかった。

    著者は死生観とはどういものかという答えは示していない。
    しかし、私が「死」というものを考える際に「宗教と時間観」という新しい観点を与えてくれる良著であった。

  • 死生観を問いなおす、時間論から、ていう内容だった。
    キリスト教とか、近代哲学とか、近代科学とか、キリスト教との対比としての仏教とか、における時間論。

  • ・「私」が死んだ後も、私はかたちを変えて存在し続ける。
    したがってそのような意味での私には「死」はない。これはたしかに「私の死」というものを乗り越えるひとつの世界観である。

    ・人間の場合、生殖を終えた後の「後生殖期」が長い、ということである。
    つまり、純粋に生物学的に見ると”不要”とも言えるような、子孫を残し生殖機能を終えた後の時代が構造的に長い、という点に、「ヒト」という生き物のひとつの大きな特徴がある。

    ・「老人」という時期を、それだけを他と切り離してとらえるのは妥当ではない。人間という生物の本質的な特徴は、「世代間」相互のコミュニケーションの強さ、あるいはその「関係」性にある。

    ・日本人の生き方は神中心でも人間中心でもなく、「自然」中心であり、ここでの自然とは、「大きな自然のいのちのリズム」とも「宇宙の大生命」ともいいかえてよいものである。

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著者プロフィール

広井 良典(ひろい・よしのり):1961年生まれ。京都大学人と社会の未来研究院教授。専攻は公共政策、科学哲学。環境・福祉・経済が調和した「定常型社会=持続可能な福祉社会」を一貫して提唱。社会保障、医療、環境、都市・地域等に関する政策研究から、ケア、死生観、時間、コミュニティ等の主題をめぐる哲学的考察まで、幅広い活動を行っている。著書『コミュニティを問いなおす』(ちくま新書、2009年)で大佛次郎論壇賞受賞。『日本の社会保障』(岩波新書、1999年)でエコノミスト賞、『人口減少社会のデザイン』(東洋経済新報社、2019年)で不動産協会賞受賞。他に『ケアを問いなおす』(ちくま新書)、『ポスト資本主義』(岩波新書)、『科学と資本主義の未来』(東洋経済新報社)など著書多数。


「2024年 『商店街の復権』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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