実践カルチュラル・スタディーズ (ちくま新書 345)

  • 筑摩書房
3.45
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  • Amazon.co.jp ・本 (253ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480059451

作品紹介・あらすじ

カルチュラル・スタディーズは、日常生活のなかで出くわす様々な問題に対応するための視点と方法を考える。サブカルチャーやメディアに深く関わりつつ、文化と政治の関係を見つめ、日常生活のなかでの抵抗の論理を作り上げる運動は、現在どこまで進んでいるのか。マニュアルもプログラムも模範解答もない問題群へ向かうカルチュラル・スタディーズの、最新動向と実践のかたちを明らかにする。

感想・レビュー・書評

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  • 2002年に書かれた内容がそれなりに古く「おお懐かしい」と感じた一冊。

    「古い」というだけでは切り捨てられない、2002年当時のカルチュラルスタディーズの振り返りとして読めた。

    90年代の末から2000年代の初頭にかけて、本書で書かれているような「実践」というのは、それなりに普及しつつあったインターネットと絡めて文字通り「実践」されていたのを思い出す。
    ただそこではわざわざ「カルチュラルスタディーズ」という言葉を使っていたケースはそれほど多くなかった気もする。

    本書は90年代末の深夜番組のノリとでもいうか、サブカルの全盛期のノリとでもいうか、ドラムンベースのノリとでもいうのか、とにかく文字にしずらいあの雰囲気、いわゆる「ノリ」という言葉で表すのが適当に思えるようなものがあったのを久々に思い出した。

    当時の「カルチュラルスタディーズ」は、正しさとは何か、自由とは何か、という今振り返るとそれなりにコアな話をサブカルや新しいアート、(インターネットなどの)最新のテクノロジーを通して傍観せずに参加して各自が答えを見出していく過程を提供するような「ノリ」があったと記憶しているのだけど、最近はどうなのだろうか。

    刊行当時に蔓延していた「ミレニアムを迎えることで人類に大きな変化が訪れる」という根拠のない期待への同調。また同じような同調による「多様性への賛美」といった「ノリ」は今考えると気味が悪いな。

  • 『カルチュラル・スタディーズ入門』(ちくま新書)の続編です。

    カルチュラル・スタディーズは、今ではすっかり大学制度の中に一定の場所を占めるようになっていますが、そこで学ばれた、「ディアスポラ」「他者性」「ヘゲモニー」などの用語を用いた論文が量産されることに、違和感を覚えている人も少なくありません。タイトルに「実践」という言葉を冠する本書がめざしているのは、大学の中で流通している概念を振り回すのではなく、実践のただ中から既存の社会学的言説に回収されないような「批評」の可能性を探ることだと言えるように思います。そうした著者たちの態度は、すでに前著『カルチュラル・スタディーズ入門』でも明瞭にうかがえましたが、本書では「RE/MAP」という小倉の町を歩くプロジェクトやラジオ放送の試みなど、著者たちが実際におこなってきた活動を取り上げながら、さまざまな人びとが新しい形の「連帯」を生み出しつつある様子が活写しています。

    また著者たちは、レイヴ文化の中で「引用」されるさまざまな宗教や民族の意匠がきっかけとなって、それを生み出した文化や歴史への「連帯」がレイヴァーたちの間で育まれつつあるという事例を報告しています。ここには、ポスト・コロニアル以降の文化理論の中であってさえ、文化の「雑種性」を、それに先行する「純粋性」を前提とし、そこから構成されたものとして記述する傾向を免れていないことへの批判が含まれています。なぜなら、レイヴ文化の「引用」に見られる「混淆主義」(syncretism)は、単なる「雑種性」「折衷主義」とは異なり、現実にさまざまな地域や文化が出会う場から主体的にアクティヴな「連帯」へ踏み出そうとする動きとして理解されるからです。著者たちはこうした新たな「連帯」の発生を希望を込めつつ見守っていこうと語ります。

  •  「実践的」という割には抽象性が強いような気もするが、前著「カルチュラル・スタディーズ」よりも理解しやすい。政治に対してどうアプローチしていけばいいのか、いまいち分からない人には「カルチュラル・スタディーズ」という概念を少し突っ込んでみるのは有効ではないかと思う。すぐに結論が出るものではないが、政治は人間が生きている限り一生つきまとうものであり、無関心を理由に自らの無知をネタにして笑い飛ばすよりもよっぽど有益ではないか。

     政治が絡むとどうして美術や音楽というものがクローズアップされてくるのか疑問を持ったこともある。その点については、政治がすべての人の生活に関わってくるものであることを前提とすれば、人間が生きるうえでなにかしらのカタチでの「表現手段」を持っているか否かは影響が大きい、ということを意味しているのかもしれない。

     本書のように専門書というには柔らかく、新書にしては敷居が高いイメージを纏ったものを読んでいると、その分野での権威ある文献の文章を引用していることが多い。これをたどってさらなる深い内容へと向かうことが多いのだが、そうしたリンク機能とでもいうべきものは、書籍の質を大きく左右する要素のひとつであろう。引用が多いということは著者がそれだけ多くの文献に接していることを意味しており、別分野での人気に乗じて出版業界に紛れ込んだ似非論客とは一線を画するものである。

     本書で紹介されている若者たちの活動を見ていて共通しているのはあらゆる活動を楽しみ、その結果政治的な影響を与えている、ということ。日々の日常の発端には政治があり、日々の日常の結果も政治に繋がるということでもある。日々勉強している学生が、日々子育てに奮闘している主婦が、日々会社へ通勤している会社員が、政治から発せられた違和感を感じた時、行動のベクトルは日常からずれた活動へと向かう。違和感を感じても無関心でいられる状態のほうが異常なのではないか。そうした「にらみ」が効いている社会には自分勝手な為政者は育ちにくい。政治や国はほんの一部の「優秀な方々」によって成り立つわでではない。

  • この2月にスチュアート・ホールの訃報をきいた。彼が追究したのは、サッチャリズマム(ネオリベラリズム)への対抗措置として、既成左翼のモデルではなく(それもまた批判の対象に過ぎない)、大衆文化が無意識のうちにはらむ政治性を活用することだった。
    本書が出版されたのは、9.11後、小泉政権当時である。
    そしていま、3.11後の安倍政権…
    ホールが(そしてその後継者たちが)解決しようとしたのは、人種や植民地問題に限定されたものではなかったが、その方法はキングやファノンよりずっと賢明で現実的だった。しかし落とし穴もそこにあったのである。彼らが読み違えたのは、権力者の欲望の強さや技術的巧妙さというよりも、あまりに快楽主義的な大衆(とくに彼らが期待をかけた新しい文化の創造者としての若者たち)だったのではないだろうか?

    『現代思想』誌の最新号はホールを特集するようである。

  • 「カルチュラル・スタディーズは「国民国家批判」と「サブカルチャー研究」の間、あるいはその他の問題の立て方との間にあって、つねに動いているような位置、態勢にあるとわれわれは考えている」

    最近、カルスタ(こういう略し方を嫌悪しているのは承知の上だがめんどくさいのだ、全部打つのは)とすごく親和性を感じている。僕がやろうと思っていることは、この引用にあるような「国民国家批判」というのをそのまま「宗教」に置き換えたものになる。あるいはそれはそこまで「国民国家批判」というところと変わらないところもあるのかもしれない。

    論文を書くための〜というのがものすごく大事だということもわかるのだけど、いかんせん実践知というものを重要視しがちな精神性を持っているので、こういうストリートに出かけて行って、そこで有用になりそうな、あるいはそこで有用に使われそうな論を出すということがまずやってみたい次第。誰のための論文かわからないものよりも、誰のための論文かわかりやすいほうが、逆説的に信頼度があるというか。

  • ちょっと前に読んで正直なところよく理解できませんでした。唯一次の一文に共感しました。
    「あたかも<沖縄や在日などマイノリティの人たち>の立場を理解し、代弁しうるかのように振る舞う、一見<リベラルな>ポーズほど無責任なものはありません。」
    僕もしばしばそんな感覚に襲われます。ろう者のことをわかったフリして「聴覚障害者問題」や「手話通訳問題」を受講生に説く自分はいったいどれだけろう者のことを理解できているのだろうかと疑問に感じるもう一人の自分がいます。
    「理解」とか「共感」は、やっぱり共に過ごし、共に手話で語り合い、共にろうあ運動に参画する中からしか得られない気がします。「ろうあ運動への参画」なんていうと硬い印象がしますが、まずは耳の日大会や、ろうあ者大会、ろう協イベントへ参加するところから始まるのだと思います。
    本の紹介になっていませんが、この本の中でもカルチュアル・スタディーズの実践として「野外パーティ」というのを挙げていました。手話を学ぶ私たちにとって聴者もろう者も共に集まって、なんかイベントをするって「運動」なんだと思っています。
    books87

  • 日常での、ストリートでの、抵抗のありかた。
    カッコいい!

  • [ 内容 ]
    カルチュラル・スタディーズは、日常生活のなかで出くわす様々な問題に対応するための視点と方法を考える。
    サブカルチャーやメディアに深く関わりつつ、文化と政治の関係を見つめ、日常生活のなかでの抵抗の論理を作り上げる運動は、現在どこまで進んでいるのか。
    マニュアルもプログラムも模範解答もない問題群へ向かうカルチュラル・スタディーズの、最新動向と実践のかたちを明らかにする。

    [ 目次 ]
    第1章 実践を始めるために(緊急なものから創発的なものへ 日常のなかの危機に向かって)
    第2章 都市空間を取り返せ(民族誌的転回、あるいは迂回 新宿ダンボール・アート―生きた芸術を取り返す RE/MAP―都市を再地図化する)
    第3章 ポスト・マルクス主義とカルチュラル・スタディーズ
    第4章 サブカルチャー研究(サブカルチャー論の落とし穴―ヒップホップの場合 メディア研究とポストコロニアリズム理論 野外パーティ/レイヴの文化と実践)
    第5章 メディアを作る(メディアを取り返せ ラジオ・アクティヴィティ)

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    [ 参考となる書評 ]

  • <貰い手が決まりました>
    £1

    カルチュラルスタディー的思考で、サブカルチャーやメディアを論じています。サブカルチャーで取り上げる音楽論は私的にかなり興味深かったです。

    状態は良好ですが書き込み線があります。

  • 日本のカルスタの人は、カルスタが孕む政治性みたいなものをどう考えているのだろう。

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著者プロフィール

1962年生まれ。批評家、和光大学教授。専攻は、社会思想史、文化研究、メディア論。主な著書に、『増補版 アーバン・トライバル・スタディーズ』(月曜社、2017年)、『四つのエコロジー:フェリックス・ガタリの思考』(河出書房新社、2016)、『荒野のおおかみ:押井守論』(青弓社、2016年)、『思想の不良たち:1950年代 もう一つの精神史』(岩波書店、2013)、『思想家の自伝を読む』(平凡社新書、2010年)など。

「2024年 『[決定版]四つのエコロジー』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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