- Amazon.co.jp ・本 (213ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480061256
作品紹介・あらすじ
平和を説くキリスト教が、なぜ十字軍など戦争を起こしてきたのか?キリスト教信者には偽善者が多いのではないか?信仰心に篤い人が、不幸な目に遭ったりするのはなぜか?キリスト教に対し、このような疑念を抱く人は少なくない。本書は、こうした問いに真正面から取り組み、キリスト教の本質に鋭く迫っていく。キリスト教徒によるユダヤ人迫害などの事例から、神とは何かを真摯に問い、隣人愛とは何か、祈りとは何かを追究した本書は、これまでにないラディカルなキリスト教思想の入門書である。
感想・レビュー・書評
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信仰とは何かを説く。
キリスト教が抱える問題、戦争。キリスト教発生以来抱えている問題かもしれない。
国家の繁栄のため、キリスト教は国策として利用された(民衆をまとめるために)vsイエスの教え。
キリスト教の説く「愛」とはー隣人愛
キリスト教「神」=一神教=「わたしはある。
信仰「わたし-あなた」。他者(=あなた)を通して、自分に出会うこと。自分のために祈っている。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
キリスト教への疑問を真正面から受け止め、誠実に答えようとしてその姿勢は高く評価せねばならない。
例えば、十字軍のようにキリスト教の名前で幾多の戦争や残虐行為がなされたのはなぜか?
神の説く愛とは何か?
善人なのに不幸になるのは何故か?
祈っても通じないのはどうしてか?
一神教はどうして他の宗教に対して不寛容なのか?
何で神は見えないのか?
などなど・・・
これらの疑問に対して、聖書からはもちろんのこと、古今の書物を参照して説明している。
だけれども、説明すればするほど、こういう説明が必要なこと自体おかしいことに気付く。
そもそも宗教なんて、理屈じゃないんだ。
疑問を挟まず頭から信じてりゃいいんだ。
・・・宗教ってそういうものはないだろうか?
だが、理性抜きで信じろというと、それは学問ではなくなる。
そう、神学というものが存在するくらい、キリスト教は理屈っぽいのが特徴だ。
それが自信のなさに見えてしまうのはぼくがひねくれているからだろうか。
キリスト教の本質を解明するためには聖書が基本であるが、その聖書が分かりにくいのである。
それぞれの学者が自分の都合よい解釈が可能なのだ。
それを元に、ぼくのような無神論者を説得するしかないのが難しさの原因じゃないだろうか。
・・・・・・
とはいえ、キリスト教に対する疑問のいくつかが分かった気がする。
例えば、なぜあれほど布教に熱心なのかという点。
「わたし-あなた」の教えがそれを推進しているとか、
何者であるかは、一般的なことと個人的なものを分けて考えるべきという意見には賛成だ。
一方的な信者からの立場じゃないところから回答しようとする姿勢に、とても好印象を受ける。
良書である。 -
キリスト教徒でない人が理解の及ばない(認識しにくい)点を、キリスト教徒として真面目に論じた好著。
主体性をもたずには、隣人愛も神も祈りも理解出来ない。だからこれまで私にはキリスト教を知ろうとしても常にいいようのない違和感(気持ち悪さといってもいいかもしれない)が付き纏っていた。おそらくこれからもそうなのだろう。
でも、主体的でない立場にいるという事を自覚したのは、大事な一歩だったように思う。「あなたーわたし」のまさに主体的な関係から隣人愛、神、祈りが機能し、領域を超越する。そのことを認識することができたから。
しかしながら、一般論で語る以上、あるキリスト教徒個人の問題をすべて議論できないことになるが、キリスト教では個人の関係しか問題にならないので、非キリスト者への説明には矛盾が常に生じてしまうのではないだろうか・・・ -
烏兎の庭 第六部 11.21.21
http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto06/doc/doi2.html -
思い返せば園児の時分から成人後まで教会に連れてかれる事が多かったが、キリスト教を信じることは一瞬もなかった。創造論、処女懐胎、審判の日、復活といった伝説は反証不可能だし、全知全能の神、救世主キリスト、愛、救済みたいな概念は理解し難く、免罪符、魔女裁判、十字軍などの黒歴史は言い訳すらされないから意味がわからない。どうしてこんなにも謎が多いものを信じられるのか疑問だが、恐らく信者になるために必要なのは全体と詳細の理解ではなく、ただ1つの感情的な根拠なのだろう。これは昨今ハヤりのネットバトルにつきものの、論者を無批判に擁護する信者達と変わる所は1つもない。
とすると信者でありながらその対象の全体と詳細を理解しようと務める筆者のような人物はむしろ異端であり、本書は人の数だけある信仰の解釈の一例(原理主義者がこれ読んだらたぶんキレる)。現代人が抱くキリスト教への疑問に現実的で論理的な解説がなされ、理解しやすくはあるのだが、前提として信仰があって、それに解釈を寄せて行ってる感も否めない。ただ、「あなた」と「わたし」が全ての関係性を超越して通じあう事が隣人愛であり、それこそが神の思し召しとする考え方は、仏経の縁起の思想に通じるところがあって興味深い。
一番知りたかった祈っても救われない非情な現実とキリストの復活の関連性が曖昧なまま終わるので、別書で補完されていることを期待しよう。 -
キリスト教に対して人びとが抱く素朴な疑問を手がかりとして、著者の考えるキリスト教の根幹的な発想が、わかりやすく解説されています。
著者はまず、平和を説くキリスト教がなぜ十字軍などの戦争を起こしてきたのかという疑問をとりあげます。そして、社会を特定の教義によってまとめあげる力ではなく、社会をまとめるために引かれた境界線を乗り越えることこそが、キリスト教を特徴づけていると論じています。またこれに続いて、「善きサマリア人」のたとえを参照し、キリスト教の説く「愛」についての考察も展開されています。
さらに著者は、一神教とは何かという疑問を取り上げ、一神教と多神教を対立させる見方に疑問を投げかけます。唯一絶対の神を信仰する立場からはそもそもこうした対立が成り立たず、そればかりか神は見ることも独占することもできないと著者はいいます。神を見ることができない以上、唯一神への信仰は狂信ではありえず、むしろ神を求めて万事に配慮することこそが要求されると述べられます。
ところで、こうした何ものかとして規定されることのない唯一神が、イエス・キリストとして人格を持つことになるのはどうしてなのでしょうか。この疑問に対して著者は、私のさまざまな属性に基づく境界線を越えて、端的に「あなた」(汝)に出会うことを可能にするのが、イエス・キリストへの信仰だという考えを提示しています。こうして、神への祈りとは、「わたし‐あなた」(我‐汝)の出会いの可能性を開く場所だという主張が展開されます。
「あとがき」によると、本書で論じられる「わたし‐あなた」の関係は、ブーバーの『私と汝』にヒントを得ているとありますが、そのことは本論のなかで表立って語られず、むしろ著者自身の言葉でわかりやすく説かれていることに好感を抱きました。 -
やっぱりキリスト教は興味深い。
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渾身の一冊。大学でのこの人の授業が面白かった
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[ 内容 ]
平和を説くキリスト教が、なぜ十字軍など戦争を起こしてきたのか?
キリスト教信者には偽善者が多いのではないか?
信仰心に篤い人が、不幸な目に遭ったりするのはなぜか?
キリスト教に対し、このような疑念を抱く人は少なくない。
本書は、こうした問いに真正面から取り組み、キリスト教の本質に鋭く迫っていく。
キリスト教徒によるユダヤ人迫害などの事例から、神とは何かを真摯に問い、隣人愛とは何か、祈りとは何かを追究した本書は、これまでにないラディカルなキリスト教思想の入門書である。
[ 目次 ]
第1章 平和を説くキリスト教が、なぜ戦争を引き起こすのか(イエスは戦争を肯定していない 大義から外れた「十字軍」 ほか)
第2章 キリスト教の説く「愛」とは何か(「よきサマリア人」の譬え話 「永遠の命」を得るために ほか)
第3章 「神」の問題から神へ(神は本当にいるのか? キリスト教の創造神話は一つの世界観 ほか)
第4章 信仰、祈り、そして「あなた」との出逢い(祈ることは頼ることか? ボンヘッファーの言葉から ほか)
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