「不自由」論: 「何でも自己決定」の限界 (ちくま新書 432)

著者 :
  • 筑摩書房
3.42
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本棚登録 : 409
感想 : 27
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  • Amazon.co.jp ・本 (215ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480061324

作品紹介・あらすじ

グローバル化の進展につれて、何かにつけて「自己決定」が求められるようになってきた。その背景には、人間は「自由な主体」であるという考え方がある。しかし人間は、すべてを「主体的」に決められるわけではない。実際、「自由な主体」同士の合意によって社会がつくられるという西欧近代の考えは、ほころび始めてきた。こうした「ポスト・モダン」状況にあって我々は、どう振る舞えばいいのか?そもそも「自由な主体」という人間観は、どう形成されたのか?こうした問いを深く追究した本書は、近代社会の前提を根底から問い直す、新しい思想の試みだ。

感想・レビュー・書評

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  • 自己決定をおこなう「自由な主体」という発想の限界を指摘するとともに、そのことが明らかとなったポストモダン状況の中での態度決定はどのようなものであるべきかを論じています。

    前半は、アレントの「公共性」にまつわる考えが紹介されています。アレントは、「人間」の多元性を認め、そうした多様な立場の人びとが公的領域でたがいに意見を交換し合うことで、合意に至るプロセスを重視しました。ただし、こうしたアレントの「公共性」は、ハーバーマスの想定する普遍的な「討議的理性」と区別されるべきだと著者は言います。アレントの考える「公共性」は、古代ギリシアのアゴラにおける市民たちが自由におこなった討議に由来しており、歴史的な出生を持つ概念だとされます。

    著者は、ギリシアの理性から西洋における人文的教養の歴史を経て、ルソーの自由な個人に至るまでの歴史を簡潔にたどりながら、「自由な主体」という概念の歴史的形成を説明しています。一方、現代の政治思想に目を移してみると、「普遍的な理性」に依拠するリベラリズムの立場は、個人の自由を最大限に尊重するリバタリアニズムの立場と、共同体の文脈や歴史的に形成された価値を尊重するコミュニタリアニズムの立場に挟撃されて、苦境に立たされています。そして、こうした状況の中で浮上してきたのが、私たちのアイデンティティの基盤になっている共同体的な価値観が多元的に存在しており、しかもそれらが複雑に重なり合っているために、普遍的な正義を明確に取り出すことができないという問題です。

    ここで著者は、フェミニズム系法哲学者のD・コーネルが提唱する「イマジナリーな領域」という概念を参照しています。私たちのアイデンティティの形成は、さまざまなレヴェルで文化的な規制を受けており、そうした文脈を無視して自由に「自己決定」をおこなうことはできません。そこでコーネルは、リベラリズムなどが想定する「自己決定」に先立つメタ・レヴェルでの「自己決定」への権利を認めるべきだと考えます。自己決定をおこなう「自由な主体」は初めから存在しているわけではなく、さまざまな共同体や他者たちとの遭遇を通じてつねに変容し続けています。そこで、そうした「場」において生まれつつある「アイデンティフィケーション」のプロセスを、「自分」にもっとも適していると思われる方向へと導いてゆく(メタ)権利が認められなければならないとされます。言うまでもなく、こうした「イマジナリーな領域」を保護することは、性急な「自己決定」を人びとに迫る昨今の風潮に対する鋭い批判となっています。

  • 仲正がこれを書いたすぐ後に宮台との対談をおこなったものを先に読んでいたので、対談の中で宮台が所々でこの本に言及していて、内容をそんなに覚えているわけではないけど、なんとなくつながった感じ。

    宮台なんかの社会学の言論界隈では自己決定が強く叫ばれる。大きな物語が焼失した再帰的な現代において、自分で選び取る強さが必要だと、まあ道徳的なものとは一線を画して語られている。しかしその自己決定自体が欺瞞だろ、というのがこの本の要旨。自己決定の主体たる自己は本当に自由な自己であろうかという問いかけが、この書全体において問いかけられ続けており、結論としては完全に自由な自己なんてないだろというところに行きつく。いつも自分では選び取ることができないコンテクストに囲まれ、そこでおおわれている常識や価値観がいつも私たちの自由の下敷きにはあるわけだから、そんな自己に主体性もあろうはずがなく、自由もあるはずがない。まあ、そりゃそうだろうなと思う。宮台はこれを受けてなんか言っていたが、その肝心なところを忘れてしまった。ちょっと読み直すのもしんどいな。

    アーレントの入り口に立った気がする。仲正は現代思想の読み直しの書を多く執筆していて、やっぱりその辺は鋭い。もっと学んでいこうと思う。


    17.7.19

  •  世間で当然とおもわれる考え方や風潮を元になった思想の歴史的経緯から批判する。
     「自己責任」「ゆとり教育と主体性」「人間らしさ」「自然児」など。「主体性=気が短い」というところは唸った。いろいろ認識を新たにする箇所多し。
     アドルノとアレントの思想に興味を持った。
      毒を吐きつつごまかすこと無く誠実に論じていく。
     ちょっと癖があるけど。新書ではもったいない内容。

  • 37877

  • いみじくも著者が語っているように「分かりやすく」は書かれていない。明快な結論はない。それが哲学というものであると言わんばかりだ。

    本来、「人間は自分のことは自分で決めることのできる能力を持っているはず」という考えが、実は虚構ではないかという態度、疑問は大事。
    例えば人間は誰しも共同体の影響下で自己を形成しており、如何にその共同体を嫌っていようとその影響から完全に逃れる事は出来ない。
    選んでいる心算が選ばされているだけだったりする。

    <blockquote>アイヒマンの分析を通して、アーレント(引用者注:ナチスから逃れアメリカに亡命した政治哲学者)が到達した「悪」の本質とは、日常的な「陳腐さ」の中で、自分で考える能力を喪失していくことである。組織の中でルーティン的に決まったことをやるだけで、他社に対して自分の意見を表明し、自らの個性を際立たせることを怠っていれば、人は次第に「人間らしさ」、つまり他社の外的影響から自由な思考を働かせられなくなる。(P.41)</blockquote>

    <blockquote>アーレントは、ポリスでの「活動」を当して生じてきた「人間性」の最大の特性は「多元性plurality」であるとしている。「多元性」は、「市民」たちが公的領域において、
    「他者」に対して「自己」の「意見」を表明することで、自らの個性を際立たせることを通して生じてくる。簡単に言えば、一人ひとりが基本的に違う考え方をしており、異なった世界観を持っているので、自分の立場を理解してもらおうとすれば、たとえ極めて親しい人間でも言語によって説得していくしかない、という認識のもとにポリス的な共同体が成立しているということだ。(P.54)</blockquote>

    <blockquote>「コミュニケーション」とは、もともと立場の異なる「他者」同士が、互いに競い合いながら「意見」交換し、「合意=真理」に至るプロセスである。(中略)コミュニケーション「プロセス」には、「裁判」の場合のような厳密な運営のルールや一定のスタイルが必要である。何も知らない無邪気な人間が何の準備もなくそうした場に出向いて「本音」トークをしても、それによって「コミュニケーション」が始まるわけではない。「言いたいことを言う」前に、そこで行われているコミュニケーション・プロセスを学習し、身に着けていなければ、何を言っても雑音にしかならない。(P.71)</blockquote>

  • 帯の「ポストモダンの中で、とりあえずどんな態度をとったらいいのか考えていこうという主題」への記述が自分の力では読み取れなかった。

    102p
    エクリチュールによるパロール支配

    190p~
    アイデンティフィケーションと主体性、自己決定

    指摘されて気がついたが、
    このアイデンティティと所属する共同体との関係、
    そこで求められる主体性との関係が良かった。

  • 主体の自己決定という、自明なもののように思われているが自明でないもの。そもそも自己決定などという像はどのように観念されているか、どうしてダメなのか、そして具体的な事例(インフォームド・コンセント)に即してどう自己決定を実質化させていくか(パターナリズムに開き直るのでもなく、自己責任ということにしつつ自由がないということでもなく)、ということをコーネルの議論を参照しつつ論じる。
    俗流ルソー主義批判とか、アーレント概説とか、コーネルの議論とか、もう一度綿密に確認しなおしておきたい。

  • 同著者のアレント論を読むと、この本に対する理解がより深まる。

  • 文体が読みづらいのか、内容がないのか?さっぱり理解できず。「」鍵括弧が多い。各章のテーマに沿って、作者の主張が語られていると思うのだが、他者の著作を批判する記載が多く見られる。その内容の正当性は分からないが、文体は不快である。(不快になるように記されているのかもしれない)

    何でも自己決定の限界
    自己決定するとはどういうことなのか?本当に自分で決めているのか?といったことを哲学的に考察している。内容は難しいと感じたが、普段の生活ではあまり円のない話題だからとも思える。自分で決めるということは、決断するということは、日常茶飯事であるが、その意味、決定という自己との考えることは、あまりしない。
    「ゆとり」教育、ポストモダンという感じがする。

    教育、学部の選択、自分以外の意味を聞いて、それに従う、自分で決めるという錯覚。ゆとりは個人の主体性を育てるものではなく、国家からの押し付けである。

  • 「自由な主体性」をすべての人間に普遍的に備わっている共通項のように考えるのは無理がある。
    問題なのは、あたかも共同体的文脈抜きの「自己決定それ自体」があり得るような言説が一人歩きする中で、どういう状況なのかという規定なしに「自己決定」がなされることだ。「とにかく自己決定」という圧力が働いている。

    では、どういう態度をとったらいいのか。

    「思考」の面では、急いで解答を出そうとせず、自己の立脚点を脱構築し続け、「実践」面では、その場その場の状況に応じてプラグマティカルに振舞うようにしたらいいのではないか。「実践!」とか「対抗機軸!」とか言いたがる人は、お祭り的なイベントで周りの人に受けそうなマニフェストを打ち出すのはうまいが、具体的な状況を改善するための行動になるとグズであることが多い。これは逆ではないかと思う。「自分が何を求めている」のかも分からないのに、「世界」を「解釈」したり「変革」するための戦略がすぐに見つかるはずがない。自分がそのつど遭遇する「状況」の中で、とりあえず行動してみて、その帰結を原理的な問題についての考察へとフィードバックしていくしかないだろう。

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著者プロフィール

哲学者、金沢大学法学類教授。
1963年、広島県呉市に生まれる。東京大学大学院総合文化研究科地域文化専攻研究博士課程修了(学術博士)。専門は、法哲学、政治思想史、ドイツ文学。難解な哲学害を分かりやすく読み解くことに定評がある。
著書に、『危機の詩学─へルダリン、存在と言語』(作品社)、『歴史と正義』(御 茶の水書房)、『今こそア ーレントを読み直す』(講談社現代新書)、『集中講義! 日本の現代思想』(N‌H‌K出版)、『ヘーゲルを越えるヘーゲル』(講談社現代新書)など多数。
訳書に、ハンナ・アーレント『完訳 カント政治哲学講義録』(明月堂書店)など多数。

「2021年 『哲学JAM[白版]』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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