- Amazon.co.jp ・本 (206ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480061652
作品紹介・あらすじ
日本国憲法第九条を改正すべきか否か、私たち一人ひとりが決断を迫られる時代が近づきつつある。だが、これまでの改正論議では、改憲・護憲派ともども、致命的に見落としてきた視点があった。立憲主義、つまり、そもそも何のための憲法かを問う視点である。本書は、立憲主義の核心にある問い-さまざまな価値観を抱く人々が平和に共存するための枠組みをどう築くか-にたちかえり、憲法と平和の関係を根底からとらえなおす試みだ。情緒論に陥りがちなこの難問を冷静に考え抜くための手がかりを鮮やかに示す。
感想・レビュー・書評
-
同じ著者による『憲法とは何か』を読んだ際、しばしば引用されていた本書。
民主主義や立憲主義の基本的な説明は、こちらに書かれていそうだったので、続けて購入しました。
読んでみると、予想した通り。
例えるならこの『憲法と平和を問い直す』は、もう1冊の『憲法とは何か』の双子のお兄ちゃん。
華やかで社交的(発展的な議論を多数紹介)な弟に対して、実直で勤勉(基本的な考え方を丁寧に解説)な兄。
なぜ民主主義や多数決が採用されるのか。
その上でどのように立憲主義に基づく近代国家が成立したのか。
そして、国家間の争いを解決するにはどのような方法が考えられるか。
お兄ちゃんがじっくり解説してくれたお陰で、ようやく弟くんの内容も含めて議論がふに落ちました。
本書全体から感じられたのは、憲法は政治や社会をコントロールするための1つの手段に過ぎないのであって、平和を維持するためにはどのような社会でありたいか、人が粘り強く考えて決断を重ねなくてはいけないこと。
憲法は1つの手段に過ぎないとはいえ、その性質からみて安易に改正する、若しくはやみくもに護持するだけでは、本質を誤る可能性があること。
一人ひとり、異なる価値観をもつ人が一緒に暮らしていくって大変なことなんだな。
毎日ふつうに夕ご飯が食べられることだって、決して当たり前のことじゃない。
沢山の戦争と死の上に、今の私の生活がある。
終章「憲法は何を教えてくれないか」の中で、「自分で考えるということは、『……である以上、当然……だ』という論法で使われる、そうした『切り札』など実はないとあきらめをつけることである。」と記す著者の言葉が、祈りのように静かに心に沁みた1冊でした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
今や時の人になってしまった感もある長谷部恭男先生の著書。昨年夏に読んだものを再読。しかし難しい。去年読んだときも難しいと思ったが、再読でもなお難しい。この1年間に噴出した様々な憲法がらみの議論と照らし合わたとき、その多くが的外れであると指摘する内容だけに、現実とアカデミックな事実とのすり合わせによけい頭を使うことになる。しかしここには「民主主義や立憲主義やとは何か?」に関する様々なヒントが書かれていて、その豊潤さは汲めども尽きない。
昨年初めて読んだとき、「ソーシャルライブラリー」用に書いた感想が意外にまとまっているので、それを以下に再録しておく。
タイトルのイメージとはだいぶ違う本である。日本の憲法、特に第九条について詳しく書かれた本かと思いきや、憲法や立憲主義の意味について、ロック、ホッブス、ルソーまで遡って考えていく"政治哲学"の本だ。新書の体裁を取りながら、大学の教科書なみの歯ごたえ。「なぜ多数決なのか?」「なぜ民主主義なのか?」など、普段その意味を深く考えず、当たり前のように受け取っている事柄について根本から問い直していく。当然スラスラ読みこなすのは難しい。
しかしこれがすこぶる面白い。目から鱗の連続。立憲主義というものは多様な価値観を共存させるために生まれたものであるため、そこには違う価値観同士の対立が必然的に内包されていること。それ故に、自分が一番大切だと思う価値観を抑制しなければ維持できない不自然なシステムであること…そのような立憲主義の本質と限界を踏まえた上で、日本にとっての戦争と平和について考え直すと、これまでとかなり違う風景が見えてくる。改憲派と護憲派、どちらの立場にも情緒的な動機や、自らのイデオロギーを普遍の正義だと思い込む面が見られるが、それは立場の如何にかかわらず、立憲主義に反するものだということが分かってくる。立憲主義とは「普遍的な正義など無い」という立場から違う価値観同士の共存を目指す、非常にシニカルなシステムなのだ。
終章の「憲法は何を教えてくれないか」の一部を引用しよう。
#
立憲主義は現実を見るように要求する。世の中には、あなたと違う価値観を持ち、それをとても大切にして生きている人がたくさんいるのだという現実を見るように要求する。このため、立憲主義と両立しうる平和主義にも、おのずと限度がある。現実の世界でどれほど平和の実現に貢献することになるかにかかわりなく、ともかく軍備を放棄せよという考え方は、「善き生き方」を教える信仰ではありえても、立憲主義と両立しうる平和主義ではない。
#
ここだけ読むと改憲派(軍備拡張派)が喜びそうな内容にも聞こえるが、もちろんそんなことはなく、次の下りでは、憲法が定める枠組みは、自然ではなく人為的なものであるからこそ、いったん後退を始めると踏みとどまることが出来なくなってしまうという趣旨が述べられていて、改憲派に冷水を浴びせるような内容になっている。
要するに、改憲派・護憲派双方の議論や活動が、いかに立憲主義の基本理念から外れたものになりがちであるかが、この本を読むとよく分かる。
立場の違いにかかわらず、憲法と平和の問題に興味を持つ人なら、ぜひ一度読んで欲しい本。文章は無駄に難しい部分もあるが、この著者の他の本も読んでみたくなった。 -
違憲証言で脚光を浴びた著者。「憲法とは何か」と同様、憲法の本質を哲学的、政治学的に追究していく一方で、立憲主義と民主主義の両立しない側面、立憲主義と平和についての矛盾点?を追究していく。これまた内容の濃いコンパクトな一冊!。今回の安保法案は両立しえない典型例だった!平和を囚人のジレンマ命題、またチキン・ゲームに譬えての説明はユニークで斬新に感じた。絶対平和主義を唱えることが非常に危険であることも諄々と説いていく姿勢に感銘さえした。自民はこの点でこの人を国会召致したのかも。しかし、立憲主義の大切さを訴えることからすると自民は浅薄だった!次の言葉があった。「集団的自衛権は自国の安全と他国の安全を鎖でつなぐ議論であり、国家としての自主独立の行動を保障するはずはない。自国の安全が脅かされているとさしたる根拠もないのに言い張る外国の後を犬のようについて行って、とんでもない事態に巻き込まれないように、あらかじめ集団的自衛権を憲法で否定しておくというのは、合理的自己拘束として充分にありうる選択肢である。」(P162)
-
立憲主義の意味と限界を丁寧に端的に指摘している
「憲法で決まっていること」にどれほどの重みがあるのか
あとがきにあるように、
凝り固まった憲法観を持つ人ではなく、
なんとなく「じゃあ何が問題なのよ」って人向け
どっぷりと楽しめた -
おもしろかったです。
ちょっと難しいけど。
憲法九条は原理(principle)であり、準則(rule)としてとらえるべきでない、という主張はけっこう目から鱗だった。表現の自由が憲法で保障されているのにもかかわらず、名誉毀損や猥褻な言動は罰される。それは、憲法が、条文に違反したら罰される準則(rule)ではなく、あくまで原則を示した原理(principle)であるからだ。ということで、軍隊保持の禁止を九条が明記していても、例外的に考えることができる軍事力の行使はありうる。その例外にあたるのが、自衛隊だ、ということのようだ(僕の理解では)。
だから、自衛隊は別に憲法違反じゃないし、九条も別に改正しなくてもよろしい、ということになる。それどころか、九条(というか憲法)は「目先の短期的考慮で勇み足をしないように」作られた「仕切り」であるから、これがなくなると踏みとどまるべきところはなくなり、どんなひどい軍事的行為も論理的に可能にしてしまうだろう、と述べる。
これは別に九条がなくなると「いつか来た道」をまた歩み始める、というようなある種の情緒的な論法ではないところに注意しないといけない。というのも、この「九条=仕切り」論の根底には、「立憲主義は、民主政治のプロセスが、自分では処理しきれないような問題を抱え込まないように、民主政治で決められることをあらかじめ限定する枠組み」(p180)である、という前提があるからだ。民主政治の限界性をスタートに据えるこの思考方法は、けっこう目から鱗だった・・・まあ、今さらそんなことに気がついたのかよ、といわれそうですが。 -
1月?
[内容]本書は、民主主義と立憲主義、平和主義の緊張関係を指摘している。
?では、まず、なぜ民主主義なのかという問題をとりあげる。その手始めとして多数決が議決方法としてとられる理由の分析から入る。どれか一つが答えとなりえるのではなく「直面している問題ごとに、多数決の持つさまざまな機能のうち一つが、あるいはいくつかが利用されていると考えるべきであろう」と指摘する。それに続きなぜ民主主義なのかという問題へと議論を進めていく。なぜ多数決なのかという問題となぜ民主主義なのかという問題は別であるという点は留意すべきであるが、民主主義の政治体制の下で多数決が普通であるから、なぜ民主主義なのかという問題に答える際にも流用は可能である。そこで、民主主義に対する見方として筆者は、民主主義は「正解」を発見するための手段としての見方、民主的な手続きに従って出された答えだから「自分たちの答え」として受け入れるしかないというものがあると指摘する。また、ここでの議論において、民主主義制自体に参加することに意義があるという考え方は成立し得ないと筆者は指摘している。前述のような立場は、どれが唯一の答えというわけではい。これらのかたちで民主主義を正当化できるとしたときに、民主主義で決められることに制限が設けられるのはなぜなのだろうかと問う。それに対し、筆者は民主主義は使うべきではない場面があること指摘し、その境界を線引きし、民主主義がそれを踏み越えないように境界線を警備するのが、立憲主義の眼目であると主張する。?では、なぜ立憲主義なのかという議論を進める。まず立憲主義の始まりとして、自然権という概念の持つ重要性を指摘する。つまり、「自然権ともつという考え方をベースに、異なる価値観の共存しうる社会の枠組みを構築しようとした、立憲主義のはじまりである」という。その社会生活の枠組みには、人々の深刻な対立をもたらしかねない根本的な価値観の対立が進入しないようにする必要がある。なぜかというと、「比較する客観的な物差しのないところで、複数の究極的な価値観が優劣をかけて争えば、ことは自然と血みどろの争いに陥りがちである」からである。それを防ぐために具体的には、人為的に公と私の区別をすることが必要になる。立憲主義的な憲法典で保障されている「人権」のかなりの部分は、公と私の人為的な区別を線引きし区別するためのものであるという。たとえば、本書で挙げられているのは「信教の自由」「自己決定の問題」などである。また、憲法上の権利の役割として、公と私の線引きという役割以外に、社会の利益の実現を目指して、保障されているものの説明もなされている。?では、平和主義は可能かという点から、立憲主義と平和主義の関係にかんして述べている。
[感想]
まず感じたのは、筆者は文章がうまいということである。決して淡々と自分の説を述べていくのではなく、時にドン・キホーテやハムレットを登場させながら読者を飽きさせることなく説を展開していく。かといって決して内容は薄っぺらいわけではなくかなり読み応えがあると思う。もしこの本を買うかどうか迷う人があれば、まずは「あとがき」を立ち読みしてから決めるのがいい。憲法とは、条文をおうばかりではなく、社会との関連性を重視しながら勉強すべきであると強く思った。そうしないと憲法のもつ歴史的意味や役割を理解することなく表面的な勉強で終わってしまう。本書の中で驚きであったのは、民主主義と関連させつつ、憲法の役目の一つに「公と私の境界線」を決める役割があるという指摘であった。なるほどと納得すると同時に、なんだか自分の見方が変わった気がした。価値ある一冊であると思う。
-
中央区図書館
p90まで -
平和主義について書かれているのは半分で、残りは民主主義と立憲主義。よって、憲法そのものというよりも政治(国家論)について書かれているという印象。ただし、立憲主義の中で人権にも触れてはいるが。著者に漂うある種の「ニヒリズム」に賛否はあるだろうが、個人的には好みではある。