- Amazon.co.jp ・本 (306ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480061744
作品紹介・あらすじ
大正ロマン香る革命家の伝説。破滅と頽廃に縁どられたテロリスト列伝。祝祭としての群集蜂起。生命流の爆発。相互扶助と自由連合のユートピア。唯一者を生きる矜持。戦士たちの共同体。あまりの純粋さと単純さゆえに、多くの若者たちを魅了してきた思想史上の異色、アナーキズム。そこにかいま見える近代の臨界とは何か。十冊のテキストをステップとして大胆に講釈される、根源的に考え生きるためのレッスン。
感想・レビュー・書評
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著作の紹介。評論の記事から思想を理解することは出来なかった。まだまだ修行が足りないようだ。アナーキズムとは、個人なき集団か?集団が基本単位ではないようだが。テロやマルクスとは違うようだが、よく分からず。任侠やアバンギャルド芸術が、近い存在であると感じる。新左翼、反スターリニズムと否定する「学者」的存在が、アナーキーなのかもしれない。現状を変えられない、芸術的集団。芸術表現として、自己表現の一手段。千年王国、浮浪者。ファシズム的時代背景が現れたときの反作用として台頭してくる物かもしれない。平和な時代、アンチが無いところではでてこない権力なきユートピアはないと考えるので、アナーキーな国家としては存続できない。
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宮崎哲弥『新書365冊』(朝日新書)と松岡正剛「千夜千冊」の紹介をきっかけに読んでみた。本書が素晴らしいのは、読書ノートと索引が充実してるところだ。新書本であるのにもかかわらず、各章ごとに、関連する書籍を多数案内してくれたり、本書で登場した用語と人物名のページをくまなく載せたりと、著者の誠実ぶりに感銘を受けた。では肝心の内容はどうであるかというと、こちらも「アナーキズム」の知識が体系的にまとまっており、今回初めて知ったものが多かったため、内容的に満足のいくものであった。はじめにアナーキズムの定義を記述し、次にこの概念と関連する人物像の経歴と影響力を、最後に現代(といっても本書は2004年出版であるが)におけるアナーキズムの意義を考察して本書を締めくくる。そのなかでも興味深かったのが終章である。これは、近代以降に誕生した概念(例えば、自律的な個人、強い自我など)を改めて見直し、それ以前の時代では当たり前であった自給自足、相互扶助、共同体などに再注目する。近代以降に発生したさまざまな弊害を考える際、上記のような価値観を今一度振り返って、そこから何か得られるものがあるのではないだろうか。
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38115
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新書文庫
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近代・現代日本のアナーキズムに関する諸思想を案内している入門書です。
まず取り上げられているのはアナーキスト大杉栄です。頼むべきは自分一人だと考える大杉は、個人の自由を最大限に尊重する気質をもっていたと著者は指摘しています。そうした大杉にしてはじめて、アナーキズムを人びとに「啓蒙」するというジレンマを解決することができたというのが、本書が語る大杉像です。大杉にしたがう人びとは、彼の思想の奴隷となったのではなく、彼の人格に魅せられて自主的にアナーキズムへと進んでいったと著者はいい、大杉のキャラクターを、彼と親交のあった任侠の世界との関係のなかで読み解こうとしています。
著者はまた、権藤成卿の「社稷」という考えに見られるコミュニタリアニズム的な発想を、アナーキズムの系譜のなかに置いて理解しようとします。大杉の妻だった伊藤野衣は、無政府という理想社会が空想にすぎないという批判に対して、無政府社会はすでにわれわれの「世間」としてじっさいに存在するのだと回答しました。こうした共同体主義は、しかしながら西洋のアナーキズムが依拠している個人の自由という理念と著しく背馳するという問題を孕んでいたという指摘がおこなわれています。
そのほか、戦後日本のアナーキズムの展開として埴谷雄高がとりあげられ、「個」へと退却する彼の身振りのうちに現代の「引きこもる」個人の先駆と、その限界を見ています。また、鶴見俊輔の「方法的アナーキズム」は、コスモポリタンの立場に身を置いて、とりあえず自分が今いる場所で、具体的な生き方としてのアナーキズムを実践するという可能性を提示したものとして評価されています。そのほか、松本零士の『宇宙海賊キャプテンハーロック』に見られるヒーローの姿や、笠井潔の『国家民営化論』で理想的に描かれるアントレプレナーの姿に、個人の自由を最大限に尊重するアナーキズムの理想が重ねて描かれています。 -
個人的にこれまでアナーキズムを深く考えたことがどれほどあっただろうか。アナーキストなど何を考えているか得体の知れない完全なる他者だと確信していた。それは無意識のうちに信念として存在するほどに。その思想は社会を国を共同体を破壊して何を達したいのかと疑問に思うだけで、こちらから知ろうともしなければ、あちらからも呼び掛けられもしない存在。それがアナーキズムであり、アナーキストであった。
しかし本書は呼び掛ける。
「我々誰もが、徹底すればアナーキストにならざるを得ない」と。我々の生活する社会の原理原則を突き詰めた先にアナーキズムはあるということだ。自由、平等、反権威などを建前として暮らす以上、人はその究極においてアナーキズムと無縁でいられない。目が覚める思いをした。近代性の妥協を排した極北としてアナーキズムは存在するということだろうか。
一見するとアナーキズムは解釈次第でいかようにも定義されうるように見える。本書では大杉栄などのビッグネームはもとより、任侠のヤクザや漫画のキャラクターなどを例として提示している。しかし、そこに通底しているものは何だろう。ある種の純真さみたいなものかもしれない。大人になれない子供の精神なのかもしれない。もしくは過剰な程に潔癖なのかもしれない。
近代の原理原則を、知行合一よろしく究極のかたちで自分の生き方とすること。それは、保守思想がニヒリズムのうちに諦めたであろう権力という必要悪を、その潔癖さゆえに諦めきれない生き方のように思う。あたかも求道者のように。
つまり本書を読めば今よりもアナーキズムを身近に感じることができる。 -
NDC:309.7