哲学マップ (ちくま新書)

著者 :
  • 筑摩書房
3.46
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本棚登録 : 978
感想 : 59
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  • Amazon.co.jp ・本 (254ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480061829

作品紹介・あらすじ

「哲学を学んでみよう」と思い立ったはいいが、そのあまりの多様さと難解さにひるんでしまう人も多いはず。しかし、それぞれの哲学者をほかの哲学者とのかかわりにおいて眺めてみると、「なぜそれが問題になるのか」「どうしてそういう考え方をするのか」という哲学の勘所が見えてきます。古代ギリシアから現代哲学まで、西洋形而上学から東洋思想までを網羅し、哲学を「思考の道具」として徹底活用するための実用ガイドブック。

感想・レビュー・書評

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  • 受験倫理以来ご無沙汰してた哲学のリハビリのつもりが、名著に出会った!点でしかなかった知識がすべて線で結ばれていく感覚に身震いした。これから哲学やろうと思ってる人には最適じゃないでしょうか。

  • 私たちは、自分の当たり前から抜け出すことがなかなかできない。「無知の知」は非常に有名な言葉だが、実践は難しい。一人の人間が知り得ることには限界があると理解していても、やはり自分が身につけてきた認識や思考の枠組みにとらわれてしまい、知らないという状態そのものに気がつかず、過ちをおかしてしまうことがある。

    自分にとっての未知を発見し、新たな知識や経験を得ていくために、問いを立てるという方法が一つあると思う。日常考えもしない事について、なぜだろうと考えてみる。幸運にもうまく問いを立てることができれば、自分が答えられるかどうかで、自分の無知に気づくことができるかもしれない。

    本書にあるように、哲学史は「問いと答えのアーカイブ」だといえる。先人達がいかなる問いを立てて、いかにして自分なりの(しかも後世に伝えられるような)答えに到達したかという事例の宝庫だ。それは、うまく利用すれば、自分が問いを立てる上でのヒントとなりうる。このアーカイブを有効に利用するためには、誰がどのような事を問うたのかを、大まかにでも知っておいた方が良いだろう。

    本書は、西洋哲学が問題として来た内容を、概ね時系列に沿って紹介するとともに、どのようなことが、どのような切り口から問われてきたか、を哲学的思考図式の変遷という視点から整理するものだ。

    すなわち、

    ①「~とは何か」
    ②「わたしとは誰か、なにを知りうるのか」
    ③ 問い①×②
    ④「なぜそれを問うのか」

    というように「哲学の問い」が変化してきたとして、先人たちの哲学をマッピングしようというわけだ。なお、巨大な地図がついているというわけではない。

    ①から④に至るまでの流れは、問いの変遷というシンプルなガイドを導入することにより、確かに位置づけしやすくなっているように感じた。しかし、④「なぜそれを問うのか」に至ってから以降の現代哲学の紹介については、私には少々分かりづらかった。

    これは一つには多様な学説を紹介しきるには字数が限られているということもあろうかと思うが、現代哲学を整理する有効な座標のようなものが、現時点ではまだ見出しづらいということにもあるように思う。もちろん、現代哲学に親しみがある人だとまた感想が異なる可能性はある。

    幸いにも、本書には、さらに理解を深めたい読者のためのブックガイドも用意されている。これらを参考にさらに知識を得た後に、もう一度立ち返り、再び思考を整理してみるという方法もありそうだ。

    ブックガイド付きでお値段もお求め安く、文章も平易であるため、興味はあるが難解な専門書はまだちょっと、という方にとっては十分お買い得ではないだろうか。

  • プラトン、デカルトまではなんとか理解できたんだが。。。

    うーむ。 カントわかんね。

    いっぱい人の名前が出てくるし、その理論をわかりやすく説明しようとして、例え話がすごく多いんだけれども、それがもう沢山すぎて、余計わからん!

    入門書もいいけど、著作品読んだ方が理解できるのかも知れない。 待ってろ光文社古典文庫! 待ってろ純粋理性批判!

  •  哲学史の全体を俯瞰するものとして、非常に良かったと思う。
     僕たちが何かを学び始めようとする場合、全体を見渡せる「地図」を手に入れることはとても大事なことのように思う。その地図を手に、具体的な事柄に一つ一つ当たっていく。そのとき自分の今いる位置がわからなくなっても、また地図に戻ればすぐに確認できる。
     しかし実際には、この世界全体を体系づけることは不可能である。世界志向の西洋伝統哲学は今や否定され、流動性が肯定されつつある。同じように、僕たちは何かを学びながら、全体を把握しようとする理解の体系をそのつど修正していかなければならない。そのことを、「地図」であるこの本はきちんと教えてくれている。

     また、個人的には、この本を読む前に読んだ社会学系の本と、とある部分の主張が一致していたことにとても感動した。「それはなにかの「ため」ではなく、その瞬間こそに意味がある。」(235ページ)

  • 哲学史について大まかに知りたかったので購入。
    ヨーロッパ哲学の変遷と現代哲学の内容が9割を占めており、期待していた内容に合っていた。

    プラトン、デカルト、カント、ニーチェの四人については特に詳しく記述されており、それぞれがどういった流れでその思想に至ったか、またその思想が後世の誰に影響を与えたかなどが分かりやすくまとまっていた。

  • それぞれのエッセンスを詰め込んでる。概要を知るよりも、全体としての流れ方をちょい見する感覚。アタシのセレクトはなんで決まるのだろう、また漁らないと。

  • ひとはなぜ生きるのか~状況的意味【哲学マップ】
    今回紹介する書籍はこちら↓
    哲学マップ (ちくま新書)

    概要
    本書では哲学的な思考法(ルール)を4つ提唱している。
    1.全体志向:個別の具体的事象ではなく全体を問題にする。
    2,一歩、日常の外へ:全体を問うために、日常を俯瞰的に眺める。
    3.形式的問い:具体的なディテールではなく、抽象的な物事を問う。
    4.方法論的問い:問う際の探求方法が適切かどうかも問題にする。

    また、本書では哲学的な問いを4つに分類している。
    1.「~とは何か」
    2.「それを問う私とは何者か」
    3.1と2の掛け算
    4.「なぜそうした問いを考えるのか」
    これらは時代を経るごとに1→2→3→4と変遷していく。

    1.「~とは何か」
    古代ギリシャにおいて、「善とは何か」「美とは何か」など物事の本質を考える人々がいた。プラトンは現実の二項対立としての「イデア」を想起し、物事の本質は「イデア」であると提唱した。

    2.「それを問う私とは何者か」
    近世ヨーロッパでは、古代ギリシャの知見が復興(ルネサンス)し、キリスト教的知見と混ざり合った。天動説が否定され地動説が提唱されたりと今までの常識が通用しなくなる中、デカルトは「これこそは確実」といえるものを探求していき、その結果、「われ思うゆえにわれあり」に至る。

    3.1と2の掛け算
    デカルト的図式においては、主観による認識が問題となった。その認識において知性を重視する大陸合理論と、経験を重視するイギリス経験論が発展する。これら2つを調停したのがカントである。
    カントは経験の前には「カテゴリー」がわれわれの認識メカニズムにあらかじめ組み込まれていると考えた。人間の脳特有の情報処理システムがある、というわけだ。
    カントはその情報処理システムは認識・倫理・美学など分野毎に異なると考えたが、それらを統一しようと考えたのがドイツ観念論である(ヘーゲルなど)。

    4.「なぜそうした問いを考えるのか」
    ニーチェは従来価値とされていたものは弱者のルサンチマンに過ぎないと言い、価値というものの価値を否定した(ニヒリズム)。本質などというものは存在せず、固定的な自我という存在も否定した。その結果、哲学は「そもそもなぜそうした虚構を問題にしていたのか?」を問うことになる。
    地道な分析が始まり、現象学的分析・言語分析・言説分析・精神分析などの分野が生まれた。

    ひとはなぜ生きるのか~状況的意味
    「ひとはなぜ生きるのか」という問いが本書の冒頭で想定される。
    それに対して、終章で著者の考える「哲学者たちならどう答えるか?」が語られる。

    その中で、メルロポンティの「状況的意味」という言葉が紹介される。
    これは「状況に応じて各人の生き方や行為が動機づけられる」というような言葉である。

    具体的な状況を想定してみる。
    「将来プロテニス選手になるために生きる」。未来の目標・自己実現に向かって生きる。
    「愛する家族のために生きる」。献身・奉仕こそが幸せだと。
    「ローン返済のために生きる」。何らかの義務・責任のため。
    「美しい空を眺める、この瞬間のために生きる」。現在を楽しむ、享受する。

    何らかの状況を疑うことなくコミットできていて、眺望固定(byニーチェ)しているときには、その意味に没頭できる。
    ただ、人は時折状況的意味から離れてしまうことがあり、そうしたときに「ひとはなぜ生きるのか」などの哲学的問いが生まれる。
    ただし、状況的意味は流動性があるので、しばらく休んでいればあらたな状況的意味が稼働する。

    メルロポンティは言う。
    「生きることの意味はなにかとは言えない。けれども、つねに意味というものはある」と。

    ー-----------------

    いかがでしたでしょうか。

    メルロポンティの状況的意味は、平野啓一郎氏の提唱する分人思想とも似ているような気がしており、私的には非常に興味深かったです。
    私とは何か 「個人」から「分人」へ

    アリストテレスとかロックとかフロイトとかいろんな哲学者が出てきましたが、今回のブログでは大幅に端折って、ざっくりと解説するにとどめました。

    もしご興味がございましたら手に取っていただけたら幸いです。

    ありがとうございました。

  • 一般読者向けなので,冒頭と末尾に「哲学を日常にどう位置付けるのか」というありきたりな議論が展開されている。

    しかし,それ以外は専門的な内容を平易な言葉で扱っており,哲学体系を一通り理解する上でも極めて有用な書だった。ドゥルーズ(とガタリ)の説明が私には理解できなかったが,これは著者ではなくドゥルーズ(とガタリ)自身に問題があるのだろう。

    ちなみに,「哲学」マップと言いながら描かれるのはほとんど「ヨーロッパ哲学」のみである。東欧はもちろん,アメリカ系統ですらほとんど扱われない点には注意が必要。

  • 《たとえば、絶対精神を実現したもののひとつは、ヘーゲルによれば国家である。国家を支えるのは官僚だ。官僚とは、だれが権力者であろうと、その職務ならびに職位、行動規範が法によって定められた専門職である(マックス・ウェーバー)。官僚がおこなうことについて、社会の現実を持ち出して間違いと言うことはできない。なぜか。官僚の行動は法によって規定される。法とは、国家ならびに国民が成立する尺度そのものだ。法と現実との齟齬があれば、間違っているのは現実のほうなのである。》(p.106-107)

    《楽しいもの、新奇なものをつねに追い求める「美的実存」は、やがて何が自分かわからなくなってしまい、続けていられなくなる。そこで、倫理によって正義を追い、不正を指弾する「倫理的実存」を求めるのだが、そのあまりの過酷さにこの立場も維持しえない。結局、神と直接対面する「宗教的実存」においてのみ、人は「ひとり」であるものとしての自分を確立しうるというわけだ。この階梯をキルケゴールは、ヘーゲルの客観的弁証法にたいして「主観的弁証法」とよぶ。》(p.111)

    《すべての価値はルサンチマンによるのだから、価値はない。価値というものの価値を否定するのがニヒリズムだ。
     一方、価値は、世界の外部に根拠を持つものではなく、世界の内部における心理的、社会的力関係から生まれた。そうとすれば、善悪の根拠として想定されたもの、すなわちイデアや神はお役御免となる。こうしてニーチェは宣言する。「神は死んだ」と。》(p.120)

    《デカルト以来の心身問題はカテゴリー錯誤による疑似問題だとライルは言う。怜悧な発言や賢明なおこないといった、諸々の活動からなる総体をよそに心という実体があるわけではないのに、まるで心臓や手足とならんで心というものがあると考えるとき、その人は名詞であらわされるものはすべて人体の器官であると考える誤りに陥っている。》(p.147-148)

    《何かについて「本物の」と言われるのは、それが「ニセ物」でもありうるときだけなのであり、「本物の」という言い方は「ニセ物」という否定的言い方の可能性があるときに、「ニセ物」という事態を否定するためにのみ使われる。このように、否定的言い方の可能性によって有用となる言葉をオースティンは「否定主導語」とよぶ。「本物の」のほか、「健康だ」なども否定主導語だ。この事情をわきまえずに、「本物とはなにか」を追求しても何も得られないが、その過ちを犯したのが本質主義である。》(p.149)

    《時間の三局面すべてにあらわれる無を前にひとがおぼえるのが「不安」である。それをハイデガーは「不気味さ」と言う。目的も意味も理由もなく存在している自分のあり方は、手段・目的によってすべてを理解しようとする日常の思考法を超えたものであるがゆえに、理解不能な不気味さを持つ。さらに、「不気味」をドイツ語で「unheimlich」というが、これは居場所(Heim)を持たないこと、居たたまれなさを意味する。各自の存在の根にあるのは不安と居たたまれなさなのである。》(p.162)

    《フーコーにおいて哲学は、ソクラテス的に「よく生きる」理想を探求することではなく、そもそも「生きる」という事実の足元を分析する作業になった。》(p.189)

    《さもなければ、近代の制度や思考法が同一の自我を前提として作られ、そのすべての概念ネットワークが「主観性の形而上学」をもとにしているために、ひとびとは自我という概念にみあう実体を見出さなければならないという強迫にかられるのかもしれない。自我の同一性が近代的諸制度の「蝶番」(ウィトゲンシュタイン)になっているため、それを根拠づけられなければ近代そのものが立ち行かないからだ。
     だが、制度が機能するために自我という実体がどうしても必要なのだろうか。法的主体としてのわたしは、相互に承認しあう権利関係の中から、何ものかにたいする権限を有するものとして形成される。それは人格的自我や生物的人間である必要はなく、企業のように、法人でも差し支えないのである。》(p.226)

  • 哲学史の概観をおさえるには良著だと思うが、著者の専門性の偏りが原因なのか全体の約半分が現代哲学に割かれているのはバランスが悪いように思える。哲学者の関連を示すチャート図も現代パートになると複雑になり、これでは図示しているとは言えない。まともな社会人が見たら、一発でダメ出しするレベル。総じて論文書きが専門の学者はこの辺の図解訓練が足りないように思える(要するにパワポ作りがヘタクソ)。一般向けに上梓するなら、編集者はもうちょっとマーケットを意識してどうにかして欲しいところだが。「マップ」を名乗るなら尚更。

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著者プロフィール

現在、専修大学文学部教授
1956年、神奈川県に生まれる。
1985年、東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。
現象学をはじめとする現代哲学、歴史理論、舞踊美学を研究。
著書に『図解雑学 哲学』(ナツメ社)、『哲学マップ』(ちくま新書)、『哲学ワンダーランド』(PHP)、『経験の構造:フッサール現象学の新しい全体像』(勁草書房)がある。

「2007年 『ハイデガー』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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