万博幻想: 戦後政治の呪縛 (ちくま新書 526)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (302ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480062260

作品紹介・あらすじ

高度成長の頂点を象徴する大阪万博から数え、二〇〇五年の愛知万博は日本で開催される五度目の万国博覧会である。その間、万博は一貫して、豊かさへの大衆的な欲望と国家の開発主義政策との癒着を可能にする仕掛け-万博幻想-として機能してきた。本書は、こうした「幻想」を広く長く作用させてきた「政治」の場としての万博の内実とその行く末を、国家と地方行政、財界、知識人そして大衆の間に繰り広げられるせめぎ合いに焦点を当てることで浮き彫りにする試みである。

感想・レビュー・書評

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  • 都市発展史や土地ネタを探す上で、その都市が「最も輝いていた時」を探すことも大事だが、その逆を掴むことも肉付けで重要となる。

    この本も「突き放された」側を追いかけた作品。
    冒頭は必見。

  • [ 内容 ]
    高度成長の頂点を象徴する大阪万博から数え、二〇〇五年の愛知万博は日本で開催される五度目の万国博覧会である。
    その間、万博は一貫して、豊かさへの大衆的な欲望と国家の開発主義政策との癒着を可能にする仕掛け―万博幻想―として機能してきた。
    本書は、こうした「幻想」を広く長く作用させてきた「政治」の場としての万博の内実とその行く末を、国家と地方行政、財界、知識人そして大衆の間に繰り広げられるせめぎ合いに焦点を当てることで浮き彫りにする試みである。

    [ 目次 ]
    序章 戦後政治と万博幻想
    第1章 成長のシンボルとしての万博―東京五輪から大阪万博へ
    第2章 沖縄海洋博という分身―「本土復帰」と万博幻想
    第3章 学園都市と科学万博―つくば科学博と幻想のほころび
    第4章 Beyond Development―愛知万博の転変と選択
    終章 万博幻想と市民政治

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    [ 参考となる書評 ]

  • 吉見俊哉は東京大学の社会学教授だ。都市研究,メディア研究,カルチュラル・スタディーズという分野で数々の素晴らしい功績を残している人物だが,彼の素晴らしい著作として,中公新書の『博覧会の政治学――まなざしの近代』(1992年)がある。新書という一般の読者もかなり意識した出版物のなかであれほどのレベルの文章が書ける人はなかなかいない。この本は基本的にヨーロッパやアメリカにおいて19世紀末から行なわれてきた万国博覧会と,明治以降に日本でも開催された勧業博覧会をたどりながら,一番新しいところでは1970年に日本で始めて開催された万博である大阪万博までを取り上げ,博覧会というものがいかに近代国家と近代都市のありかたを規定してきたかを非常に批判的に論じている。
    しかし,こうした一般書を書くと,世間的には彼は「博覧会の専門家」ということになる。一方で研究者としては,一つのテーマで一冊の本を書くということは,そのテーマを一段落することも意味する。本書『万博幻想』で著者が書いているように,吉見氏にとっては博覧会のことは『博覧会の政治学』で終わりにしたのだ。しかし,その後,愛知万博が決定した後,その予定会場を開発から守るために万博反対運動をしていた人から講演を依頼されたという。そして,また一方では愛知万博の検討委員会の委員として依頼を受けたという。結局,吉見氏は反対運動の人々とかかわりながらも,一方で自由な意見を出せるという条件の下で,検討委員会にも参加する。
    つまり,吉見は歴史研究という形で,すでに遠い過去に過ぎ去ってしまった「博覧会」の役割を明らかにしてその研究テーマは終わらせたわけだが,今度は社会学者として現実に進行している万博に直接関わることによって,その問題を明らかにしていくことを自分の研究使命と課したのだ。しかし,本書『万博幻想』はその使命を果たすものではなく,あくまでもその前段階だ。前著で最後に取り上げた大阪万博から話を始め,その後日本で開催された数ある博覧会のなかから,主要な四つ,つまり大阪万博,沖縄海洋博,つくば科学博,そして最後が愛知万博を論じる。その方法論は基本的にメディア研究だ。各万博に関する新聞報道(中央紙と地方紙)および,各万博での公式報告書と反対派などによる団体の報告書など。大学に職を得てからさまざまなメディア研究,カルチュラル・スタディーズの紹介を行なってきた著者が1992年に『博覧会の政治学』に出版するためにその研究に取り組んだ時には,既につくば科学博も終了している。つまり,大阪万博は1970年,沖縄海洋博は沖縄本土復直後の1975年,つくば科学博は筑波学園都市の開発の後の1985年。つまり,彼が身をもって体験したのは直接関与した2005年開催の愛・地球博だけである。しかし,アプローチの仕方は前著とはかなり異なっていることは確かだ。前著では,国民国家の成立と資本主義の成熟とに博覧会は寄与する一大国家イヴェントとして,ある種の国家のイデオロギー装置としてとらえるものであったが,本書ではそのイヴェントが,開催までの過程でそのプロジェクトが紆余曲折した過程を描いている。国家の政治的な思惑と地方自治体の思惑,協賛企業の経済的な思惑,そして,愛知万博へと徐々に高まっていく市民たちの希望。特に,最後の下からの勢力は重要で,押し付けがましい開発主義的な万博計画に市民たちが反対運動を起こすところから始まって,徐々に万博のあり方自体に市民が参加していくという,社会全般の傾向を見事に捉えていると思う。
    そして,本書のあとには著者も書いているように,その過程に参加した知識人である吉見氏自身の経験を中心とした「厚い記述」によって明らかにされる「ミクロな政治学」が刊行され,「博覧会三部作」が完成するのだろうか。ただ,不満がないこともない。基本的には本書の物語は新聞で報道されたことを事実として進行する。上述したように,彼自身がつくば科学博までは研究対象として同時代的に関わっていないために,それについて知ることのできる資料は活字となっているものしかない。もちろん,当時の当事者に面接してインタビューすることはできるが,本書はあくまでも新書だし,4つもの万博を扱っているために,そこまでやるのはどうかとも思う。しかし,新聞に書かれていることをメディア研究者として意識的に検討しているのは数箇所で,ほとんどが事実そのものとして提示されるのはどうかと思う。まあ,実際にこの作業をしていると,その辺の線引きは非常に難しいところなんですけどね。それにしても,あの膨大な新聞記事はどうやって集めたのだろうか。最近のネットによる新聞記事検索が優れているのか,あるいは自分の研究室の学生によるものなのか。ともかく私のような立場では難しい研究だ。

    それにしても,この文脈で,東京オリンピックの誘致問題はどうなるのであろうか。本書を読む限り,愛知では市民の運動がかなり活発になっていることを知ったが,東京では皆無関心で,私の周りに積極的に賛成する人はほとんどいなく,多くの人は消極的な反対だ。しかし,なし崩し的に誘致運動は行政主導で進められ,既にポスターやCMなどで巨額の都民税が使われているのではないか。私は『博覧会の政治学』を書き終えたときの吉見氏と同様に,もうオリンピックという祭典自体が時代遅れはなはだしいと思っているが,なんのためのオリンピックなのか,21世紀に東京で開催することの意味は何かと都民の間でよく考えて決定するようなことになって欲しいと強く願う。もちろん,選考で他の都市に負けることが一番手っ取り早いのだが。

  • 近代知の可能性を誇らしげに歌った高度な理念テーマが、実際の企画運営や地域/産業/国家との政治折衝で、ことごとく挫折/変容していった「知識人」連敗戦歴。経済界のスーパー・プラグマチィズムとそれを軽蔑する知識人という埋まる事の亡い齟齬。動員される下部構造として国民という位置づけが、時代変遷により市民にとっての参画意義/意志を重要視せざるをえなくなり混迷をふかめていった愛知万博の例をひいて、無数のサブ政治台頭とそのネットワークに依る多面的越境に可能性を見いだす。

  • 万博は非常に興味深いイベントですね。愛知万博は成功なのかな?何をもって成功とするかによるが。

  • 分類=万博。05年3月。

  • 「博覧会の政治学」に続く、社会学者・吉見俊哉の博覧会についての著書。
    前作が日本と欧米の博覧会の歴史を対比させ、博覧会の帝国主義・植民地政策、そして大衆消費との密接な関わりについてのマクロな政治の考察だった。

    そして本著は大阪万博〜沖縄海洋博〜筑波科学博〜愛知万博と続く、日本での博覧会の歴史における博覧会と開発主義の政策システムとの密接な関係について書かれている。
    政治についての考察は前作よりミクロになり、中央・地方、国家・市民などと、多様な団体間の葛藤が描かれている。

    地方政治家にとって、博覧会は中央から公共事業を取ってくる手段でしかないという実情。実際毎回の博覧会において、1兆円規模の公共事業が、その博覧会が開催される地域で行われてきている。

    そしてその公共事業により、森林は伐採され、コンクリがぶちこまれ、破壊されていった風土と自然。そしてそれらの場所は「入れ替え可能」な場所となり、人の流れが流動的になり、人々は過剰流動性に陥る。そして人々は内発性&信頼ベースの生き方から、不安&不信ベースの生き方に移行し、不安と不信に溢れた生活を送ることになる。果たしてこれが「豊か」な生活と言えるのだろうか。

    博覧会の華々しい歴史の影で、物言えぬ弱者達、そして自然環境が常に犠牲になってきたことは決して忘れてはならないだろう。

  • 施設を作り人を呼ぼう、とバブル時代に地方自治体は競って施設をつくったものの、お荷物となっているのは周知の事実。万博も同じような幻想に包まれ、なおも幻想は健在……なのかも。テレビで見る愛知万博の紹介とテーマ「自然の叡智」のことばとの乖離を不思議に思った方は、ぜひ第4章「Beyond Development」を参照されたい。

  • 墓標としての万博
    メディア論の著者のイメージから、メディア的なアプローチかとおもって読み出すが、何か違う。本書は日本における万博そのものをまっすぐ捉え、万博がどのような過程を経て成立するに至るかが詳しく書かれている。もちろんそこには政治的な力関係も描かれ、深入りはしていないが、国の施策いわゆる全総についても触れて万博と国家との関係を明らかにしている。
    国が未来に求める自己像というものが全国総合開発計画によって現実のものとなっていく戦後日本。万博とは国の開発計画の体現なのであるという。万博は国家によって市民に提示される未来イメージであり、多くの場合それは成功してきた。万博自体の収支を見た場合の成功という意味ではなく未来イメージの提示、市民の間をつなぎとめる共通イメージを植え付けるという意味での成功である。
    本書の中では大阪万博、沖縄海洋博、つくば科学博、そして現在(2005)開催されている愛知万博がそれぞれトピックにされている。一番イメージの強いものは大阪万博である。それはまさに高度成長時代、日本に一番元気があった頃であり来場者が6000万人を超えるという大成功を収めたことによる。戦後日本は復活したものと誰もが認められる結果であった。これは市民の見方であるが、国家から見た場合は少し異なるという指摘を吉見はしている。
    大阪万博の源流は1940年にあるのだという。その年は、日本万国博覧会が開かれる予定であった。これは紀元2600年事業であり非情にナショナルな発露によるものであった。ここでの統一テーマは 東西文化の融合 であったが、内実は日本精神を広め世界平和を達するということが公言されるようなものであり、その流れを維持したまま戦後の万博は開かれていく。それが転換した兆しが愛知万博には見られるという。サブタイトルにもある 戦後政治の呪縛 がここにきてやっと解けたのではないかという論旨は明快だ。本書を読んでから愛地球博に行くのもよいとおもえる。

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著者プロフィール

吉見 俊哉(よしみ・しゅんや):1957年生まれ。東京大学大学院情報学環教授。同大学副学長、大学総合教育研究センター長などを歴任。社会学、都市論、メディア論などを主な専門としつつ、日本におけるカルチュラル・スタディーズの発展で中心的な役割を果たす。著書に『都市のドラマトゥルギー』(河出文庫)、『大学とは何か』(岩波新書)、『知的創造の条件』(筑摩選書)、『五輪と戦後』(河出書房新社)、『東京裏返し』(集英社新書)、『東京復興ならず』(中公新書)ほか多数。

「2023年 『敗者としての東京』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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