無思想の発見 (ちくま新書)

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  • 筑摩書房
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レビュー : 80
  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480062802

感想・レビュー・書評

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  • 養老先生がまた変な事を言い出した。
    日本人には思想・哲学ははないというが、「思想はない」という思想があると。また、日本人は特定の宗教は信仰していないと言うが、「特定の宗教は信仰していない」という一種の信条のようなものを持っていると。
    よく言えば多層的に、悪く言えばアイディアの羅列のように日本人の「思想はないという思想」を分析している。大まかには、日本人にとっての「世間」が欧米人の「思想」に対応すると。脳内の思考をより抽象化して上に積み上げていく作業より、下に下げて、現実との結びつきを重視するのが日本人だと。

    確かに、日本人が世界に送り出したもの、「食」「マンガ」「アニメ」「武道」「建築のセンス」「電化製品」「自動車」、全て具体的な形を持っている。抽象度は低く、非言語的だ。
    養老先生はやはり面白い、変な事を思いつく人だな。現在生きている日本人の中では最大の思想家だと思う。

  • そう、僕も「無思想という思想」の持ち主なのであります。
    養老せんせいの本ってその深さがどうも計り知れません。いつも理解しきれない感じが残る。どうやらまだまだ僕には人生経験が足りないようです。

  • 日本人は自分自身で無宗教、無思想であると思っているが、本当のところは「無思想、無宗教」であることを思想、宗教としているという話であった。
    無を信仰しているということはすなわち仏教のことではないかという話があったので仏教について興味がわいた。

  • 教え。

  • 遠い国の物語やことばを読んでゐて、その隔たりを感じることがあつた。あるひは、遠い国であつても同じ様な精神の人間に出会つた時、もつと身近に知つてゐたのなら、話してみたいことがたくさんあつた、そんな風に感じることもあつた。それは時に限らず、時間も同じで。遠い忘れてしまふくらい昔のひとに感じる隔たりと、引き合ふ寄り添ふ力。
    どこかで感じてゐただけで、このやうに考へ、ひとつの形にしないできてしまつた。考へ続け、それを何ものかで表現し続けるといふことに耳を塞ぎ、またもや与へられるだけで流され続けてきてしまつた。知りたくて知りたくてたまらない。もつとことばがほしい。
    養老先生はいつも考へ続け、生きてゐるひとだ。後どれくらい続けられるかはわからない。けれど、最後の最後まで考へ続けてゐるのだと思ふ。
    構造と機能、感覚と概念、違ふと同じ。これらは相補的なものであつて正反対のものではない。なぜなら、どちらもことばによつて重なるところがあるからである。
    純粋、といふものは概念では存在するが、感覚としてそれが存在するといふことはあり得ない。感覚からすれば存在しないが、概念からすれば存在する。どうもそんな風に人間はできてゐる。有るといへばあるし、無いといへばない。これこそ、無思想なのだと思ふ。
    一見矛盾してゐるやうにみえるが、それは概念で捉へるのか、感覚で捉へるかの違ひに過ぎない。どちらもこのひとりの人間、脳のしてゐることなのだ。どうもそんな風に考へるより他ない。無意識の発見になぞらへた、無思想の発見。
    無思想に裏打ちされてゐると考へると、いわしの頭も信心から、八百万の神々、無宗教が一変にあること、自分が漠然と感じてゐたことの正体に気づかされる。
    無思想といふ思想、故に価値基準を世間・状況に委ねる。形を重んじながらも、簡単にその形を棄てられる。善し悪しはともかくとして、このやうになつてゐるのだとすれば、それに気づくことは少しは生きやすくなるだらう。
    自分はかうだ、とひとつに決めてしまへば、それは再び自分ではない何かに委ね、不満となれば形をとりかへることになるだらう。しかし、この地球といふひとつの球体の上で、さう考へない者と生きてゐる以上、それだけで生きてゐては埒があかない。自分は変るし、変らない。柏手をうつこの右手と左手の間の存在。知ること、気づくことは、かうもひとを自由にする。

  • 読み進むにつれ緊迫してくる。
    最初、油断していただけにスリリングな読書体験。

    【読書メモ】
     ・ 「日本に生まれてりゃ、日本語をしゃべることになったんだからね」 p16
     ・ 未婚の母の問題は、未婚だからではない。子育ての問題に決まっているではないか。 p30
     ・ ネアンデルタール人以降、現生人類の社会が成立したとき、もっとも強くかかった淘汰圧は言語使用ではないかと私は考えている。 p56
     ・ 「現実とは、その人の出力=行動に影響を与えるもの」/と定義したことがある。その意味では、百円玉も、オウム真理教の教義も現実である。ただしこの定義では、現実は「人によって異なる」ことになる。それが「唯一客観的な現実のみがある」ことを信じる現代人に通用しにくいことは、はじめからわかっている。思想も世間も、それがその人の行動に影響する異常は、その人にとっては現実だ、と私は規定する。 p116
     ・ 脳には感覚から入力があって、運動や行動が出力する。その間に位置する情報処理装置が脳である。この処理装置のなかに、意識という妙なものが発生する。 p119
     ・ 乱暴にいうなら、仏教思想とは「脳から見た世界」である。 p152
     ・ 意識を図書館の業務と考えよう。/朝になると、図書館が開く。そうすると、お客が勝手に出入りして、勝手に本を出し、いろいろ調べごとや勉強をする。そして本を机の上に出しっぱなしで帰ってしまう。すなわちお客の頭の中は整理される、つまり秩序が生じるが、図書館の中の無秩序が増える。そこで夜になると、書庫は空、机の上はいっぱいということになる。そうする図書館は「眠くなって」、寝てしまう。つまり閉館する、すなわち「意識がなくなる」。閉館したら、今度は司書たちが机の上の本を元に戻す作業を始める。すべての本を元に戻す作業を始める。すべての本がきちんと元に戻り、昨日の朝と同じ秩序状態になるまで、片づけを続ける。そうすれば、今朝がふたたび「業務がはじめられる」。つまり意識が再開する。司書がはたらいている間、図書館は閉まっているので、「意識がない」。ただし司書がはたらくのだから、その分だけ「寝ていても、エネルギーが要る」ことになる。ところが意識は司書のはたらきを勘定にいれていない。自分がその間、留守にしているものだから、「寝ている間は、すべてが休んでいる」と勝手に思っている。 p158
     ・ いわば「意識と無意識を足して」、はじめてゼロになるのである。だから、「五蘊は皆空」なので「五蘊は皆無」なのではない。 p161 
     ・ 途切れ途切れの意識ばかり、信用するんじゃない。そもそも意識が途切れている間の責任なんか、意識は取ってくれないんですからね。そのくせ「途切れている」間を全部すっ飛ばして、意識は自分が連続していると思い込んでいる。それが死ぬときに本当に切れてしまうと想像すると、怖がったり、慌てたりする。べつに毎日切れてるんだから、いまさらなにを怖がるのかと、私は思うが。 p165
     ・ 月給を貰いながら、思想は説きにくい。なにかを「説く」とすれば、「大衆」に向かって説くしかない。大学は組織とは関係がない。だからこそ、大宅壮一も司馬遼太郎も「大衆を信じる」というしかなかった。これを日本的普遍性とでもいうべきか。 p174
     ・ それはひたすら「追い求めるもの」である。暗黙のうちに真理を追う。ひょっとすると、それがもっとも真理に近づく道であるかもしれない。その態度こそが、真の「無思想という思想」なのかもしれないのである。 P188
     ・ 個性をいうなら、多様性というべきである。個々の独自性がいちばん大切なのではない。個々の独自性は、それ自体が滅びたら、それまでである。なにしろ所行は無常なんだから。多様性とは、さまざまな「違ったもの」が調和的に存在する、存在できるという状態である。それを私はシステムと呼ぶ。 p215


    【目次】
    1 私的な私、公的な私
    2 だれが自分を創るのか
    3 われわれに思想はあるのか
    4 無思想という思想
    5 ゼロの発見
    6 無思想の由来
    7 モノと思想
    8 気持ちはじかに伝わる
    9 じゃあどうするのか

  • 「思想は日本で言う世間、つまり社会の実情と補完し合う」との事だが、世間と社会の二重性・ダブルスタンダートへの気づきがない。コギト批判・風土依存等、思想的には和辻を踏襲しているようだが、世間と社会の混同が解消されていない点も同じように思える。

  • 個性とか、自分の意識とかを、疑いたくなった。
    そもそもちょっと懐疑的な考えはあったけど、なんか本格的に「自分」なんてどこにあるんだと声に出したくなった。
    特に般若心経の話以降は、夢中になって読んだ割には「やばい」くらいの感想しか出てこない。

    「無思想という思想」、数学のゼロと、仏教の無や空と照らし合わせることでなんとなくの理解はできた。
    新渡戸稲造の「武士道」、少し読んどいてよかったと思いながら。
    私が新年に神社に詣でることも、友人の結婚式のために教会にいくのも、お盆にお墓参りするのも、浄土真宗式のお葬式にでるのも、「無宗教」なのではなく「宗教だとおもっていないから」だと思う。自分のやっていることが宗教だと思ってない。だから教会にも行くし、南無阿弥陀仏と何妙法蓮華経の違いも分かんないでお寺に行く。神社でお守りも買う。
    自分勝手だな、と思う反面、臨機応変なのだと思う。

    「言葉」は「お互いに経験してきたちがうことを共通理解にする」と思ってたけど、
    同じ「いぬ」という言葉(音)でも「いぬは犬だろ」と「同じであると思っている」前提があって共通理解になるんだと思った。
    感情は個性ではなく、同じである。
    不確かな言葉を「みんな同じものだと思っている」と思い込んで使って、コミュニケーションをしている。なんて不確かなんだろうか。でも実際それで世間が成り立っているのだから、それも怖い。

    有思想に対して、徹底的に無思想で対応しちゃなよ!みたいなノリは嫌いではないけれど、ちょっと手放しすぎじゃない?なんて思った。

    般若心経の話はすごく興味がわいたので、関連する本を読んでみようと思う。

  • 誰かに進められて手に取ったが、なんだか解らんかった。

  • 2017年10月8日に紹介されました!

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著者プロフィール

解剖学者

「2019年 『世間とズレながら、生きていく。(仮)』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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