コミュニティを問いなおす つながり・都市・日本社会の未来 (ちくま新書)
- 筑摩書房 (2009年8月1日発売)


- 本 ・本
- / ISBN・EAN: 9784480065018
感想・レビュー・書評
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コミュニティの機能が失われた現代社会で、コミュニティの再生のために、コミュニティを問いなおす。しかし、それは、従来のコミュニティの再構築ではなく、新たな関係性、価値観にもとづいた、新たな機能を持ったものになるだろう。
本書の中で、著者はコミュニティの定義について、「人間が、それに対して何らかの帰属意識を持ち、かつその構成メンバーの間に一定の連帯ないし相互扶助(支え合い)の意識が働いているような集団」としている。その、「人間が」尊厳を取り戻し、社会が再び機能する場所として、「公」(政府)でもなく、「私」(市場)でもなく、「共」の場である「コミュニティ」に焦点を当てている。
著者が言うように、現代は、人々の価値観を含めて社会システムが大きく転換しないといけない時期に来ていると思う。そして、「共」の場で変化のリーダーシップをとっていける存在としては、事業体をもつ協同組合であったり、実績を積んだNPOなどであり、そのはたさなければならない責任は大きいと感じた。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
コミュニティのあり方やその再生については多く議論されており、地方自治体では商店街や公民館、学校などを中心としてコミュニティを形成する試みがなされている。コミュニティが重要視されるのは、それが人が生活するうえでの基盤になるものと考えられているからであり、経済成長に頼らない豊かな生活を送る上での基盤になるものであると認識されているからである。
しかし、マンションの住人はマンションを単位としたコミュニティという意識は薄く、むしろコミュニティは排他性や同調圧力を生むためにコミュニティというしがらみからの開放が進歩であるとされてきたという歴史がある。文明の発展とは、コミュニティという集団によってではなく、個人がバラバラに生活できる社会が「進歩」であると考えられてきた。このような理由から、コミュニティという言葉に対して批判的な立場をとる人も存在する。
本書は、都市、グローバル化、社会保障、地域再生、ケアなどさまざまな観点から、人と人との新たなつながりの形を模索するものであるが、「コミュニティ(共同体)」をより具体的に分析し、感情的次元の「農村型コミュニティ」と規範的・理念的なルールによる「都市型コミュニティ」とに分類している。
人の移動が少なく、濃密な関係性が築かれるのが「農村型コミュニティ」であり、コミュニティという語についての一般的な認識がこれにあたると言える。そして、生産のために個々が集う場所が「都市型コミュミティ」であり、この外部に開かれている流動的な集団を、西欧では宗教が、日本では経済成長という理念が一つの集合として束ねていた。
明治以降、日本は欧米列強の進出に直面する中で、「文明の乗り換え」を行った、しかし価値原理(キリスト教)は受容せず、仏教・儒教の価値原理はほとんどを捨象した。この価値原理の喪失を経済成長という信奉が埋めたと言える。
そして経済成長が頭打ちになった現在、個々をまとめるコミュニティの意識が希薄になっていると言われているが、推論すると本書で言うところの「都市型コミュニティ」が薄れているのであり、重要ということになる。
しかし、ここで議論は転回し、社会保障の話に移る。制度としての保障だけにとどまらず、心のケアなども含めた保障で、ケアを施す場としてコミュニティが重要であるという内容であり、このコミュニティとは濃密な関係を受容する「農村型コミュニティ」、感情的次元による「つながり」の場についてである。
さらに、社会格差に対する保障にも触れているが、興味深いのは所得に関するフローの格差ではなく、ストック(資産)の格差が、日本の固定的な階層の中での世代交代により蓄積され、より拡大しているという議論である。このストックに対する保障という観点から都市政策による社会保障という考えが
導きだされている。これまでの都市政策は景気刺激策として行われてきた。そして福祉政策は担当省が異なるということもあり、制度やサービスが中心であった。
著者の提言は、NPOや地域コミュニティなどの「公」的な領域の発展と、所得の再配分や土地所有のあり方などの公的部門の強化が重要であるとし、大きく括れば社会保障のより一層の充実といえる。 -
第二部は”社会システム”という切り口からコミュニティを問い直していく章でした。主に都市計画や福祉政策の歴史的展開の振り返りや、社会システムの国際比較を通して、現在のコミュニティや公共を分析していくというテーマです。
具体的には、第一部の視座に加え、「公-共-私の役割分担/力点の相違」「社会システムをインフォーマルな形で支えるもの」「土地の公共性の変化」「フロー/ストックからみた公平性」「住宅政策」「コミュニティの世代的継承性」などの様々な視点から分析をし、関連付けをしていました。
一番印象に残ったことは、ある地域のコミュニティを分析するためには、社会システムという様々な視点からも詳しく、詳しく分析する必要があるなぁということです。 そのためにも、他の地域の歴史や福祉/都市政策と比較するための知識・比較の軸を養っておかなければいけません,,,!
まずは、各地方自治体の5カ年地域福祉計画などで、何が語られているか知るところからでしょうか。 今まであまり興味をもって読もうという気持ちにならなくなった行政の計画書や報告書が気になってきました。
現状の地域コミュニティを「地域コミュニティ再構築のチャンス!」と捉え未来を創っていくためにも、現在の地域コミュニティがどのように生まれているか、勉強していきたいと思います! -
本書のみでの論旨の理解は難しいのかもしれない。理解不足ながら、まさに東京郊外に住み、現実発生している郊外コミュニティーの課題と合わせて読むとき、視点が整理されてくる。東京郊外における高齢化問題、コミュニティーとしての団地再生の課題、ロードサイドビジネスを中心とする街作りのあり方など多くの問題の方向性を示してくれる。
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私にはまだ難しかった・・・・・無念・・・
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大学生のとき以来の広井先生。今も精力的に色々書いてる先生ですが、この本は先生の中心テーマというか関心の盛合わせ基本テキストという感じがしますね。農村型と都市型、都市論や地域に根付いた福祉のあり方など面白く読みました。日本のコミュニティの文脈を語るのに独我論まで持ち出したのはどうかと思いましたが。地球の環境上の限界という制約こそが先生のいう普遍的な価値規範になるのか、あるいはよりローカルなレベルでの価値が成り立ちうるのか。そこが「定常型」という社会のあり方が可能かどうかの分水嶺なのでしょうか。
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大阪樟蔭女子大学図書館OPACへのリンク
https://library.osaka-shoin.ac.jp/opac/volume/429551 -
361-H
小論文・進路コーナー -
コミュニティを問いなおす
非常に面白い本であった。改めて広井先生の社会福祉論の面白さに触れた。前半は増田四郎などに触れ、中世ヨーロッパの知見を援用し、社会学的な考察を行ったのち、広井先生の持論であるストックの再配分などに触れ、最後に多様な人々を結びつける共通基盤としての思想、哲学に議論が及んでいく。1冊の本の中で3冊分の知見を得たような気もする。
前半の日本社会論は非常に明快であり、個人的にも納得した。社会には都市型と農村型、テンニースの言うゲゼルシャフトとゲマインシャフト的な二分法がある。都市型は異なる人々が、規範をもとに個人をベースにした公共性の高いコミュニティを形成する。一方、農村型は情緒的なつながりであり、ある意味で自他の隔たりが緩い共同性の高いコミュニティである。日本はどうかと言えば、戦後の日本では急速に都市化が進んだものの、実は都市化されたのは外観だけで、中の人々はカイシャという農村型コミュニティで温存されてきた。そういった意味で、日本には都市型コミュニティは未だにない。家庭と終身雇用の会社を行き来し、情緒的なつながりを基調に生きる一方で、一歩その外にでると、他人とは全く話すことはない。コンビニで店員と談笑しているような人はあまり街では見かけないのである。そう言った意味で、日本社会が閉鎖的と言われるゆえんは未だに確立した個人と個人の公共的な触れ合いというものがほとんどないからである。街中で人々が道徳的にふるまうのは、近所の誰かが見ている可能性があるという意識であり、決して公共性や規範によるものではない。これまでの日本は拡張され、引き伸ばされたウチがあり、結局のところ相手の個性を認めたうえで対等にコミュニケーションするというソトのコミュニティはないのである。ここが前半の面白い部分であった。さらに、少し話はずれるが高齢者と子供は土着性が強いゆえに、これからの社会は高齢者比率が高くなるにつれてより地域性が重要になるという考察も頷けた。
また、2章ではコミュニティの意味や目的について話が上がるが、「コミュニティは外部と接するためにある」というキーワードが興味深かった。古来よりコミュニティが存在する場所は、寺院・神社、学校、商店街、公園、介護・医療関連施設であるが、寺院・神社は死者(彼岸)の世界という外部を持ち、学校は新しい知識と言う外部を持つ、商店街は商行為を媒介とした他のコミュニティとの接点であり、公園は自然と言う外部がある、最後に介護・医療関連施設は老い・病という外部をもつ。今あるコミュニティには外部が存在するという知見はこれからコミュニティを形成する上で、何を外部とするかという形で落とし込みができるのではないかと考えた。企業も、何を外部(社会課題・ペイン)とするかを設定し、それを解決することを企業理念とするという形で考えればコミュニティという意味では分かりやすい。
中盤では、フローの社会保障からストックの社会保障というテーゼが打ち出されている。これまで私が触れてきた社会保障論では税や社会保険を財源に、困窮者に手当や保険金を支払うというフローでの思考が非常に多かった。一方で、住環境であったり、初期の教育環境というストックにより注目することで、都市計画などの別の形での社会保障論が垣間見える点は非常に面白かった。
日本はヨーロッパなどに比べて圧倒的に公営住宅というものが少ない。実際に家計をやりくりしてみてわかることであるが、福利厚生で考えてみてもいくら住宅手当と言うフローの保障があったとしても、社宅のようなストックでの供給の方がありがたい。今では社宅など死後に近いが、困窮している層に対して、住環境のストックでの保障というものは、今後高齢化が進む中でどうしてもフローの社会保障論では限界がくる中で、有益な視点であると感じた。再分配という文脈でもストックへの注目はしかるべきであろう。これまでの修正資本主義の考え方では、最初は自由経済でどんどん進めて、ひずみが出れば解決するというものであった。しかしながら、昨今では教育環境やそもそも家を持っているか否かなど、機会の不平等が進んでいる。そう考えた場合、フローへの課税だけでなくストックへの課税をもとにしたストックでの再分配は今後のトレンドとならざるを得ないと考える。
また、人生前半の社会保障という考え方もストックへの社会保障という考え方の一つの面白い視点である。これまで、人生におけるリスクは退職後という人生後半に集積していた。それは、終身雇用と核家族という強固なセイフティネットにより、見えない社会保障が機能していたからである。しかしながら、終身雇用も現在では崩れ始め、さらに人々はどんどん孤独化していっている。もとい、失われた30年とは、終身雇用は限界を迎えているのにもかかわらず、非正規雇用という外部を生み出すことでギリギリ終身雇用を維持してきた期間であった。その間に、非正規雇用は終身雇用のような見えない社会保障から外れ、非正規雇用は消費することもなく、さらには金銭的な理由から結婚もできずに孤独化していくという道筋をたどってきた。非正規雇用という外部と、正規雇用の流動性の低さという日本労働社会の潮流は、2021年の今まさに変化を迎えようとしている。同一労働・同一賃金や厚生年金への一部の非正規雇用者の適用など、一度セイフティネットから外れた人々を、なんとかより戻そうという流れがきている。それは、一方で正規雇用の流動性の向上により、むしろ労働市場はストック的な思考からフロー的な思考へ変化して言っている。その意味で、この本が書かれた2009年からさらに日本は沈み、過渡的な状況にあるともいえる。
また、最近、脱・成長という言葉も流行っているように思えるが、広井先生はかなり昔から定常経済の概念を提唱していたと記憶している。今後、経済成長が止まっていく中で、成熟した社会を構想する上では、空間への志向が考えられる。なぜなら、これまでの経済成長は時間への志向であったからであろう。今日よりも明日の方が経済が成長するという基盤のもと、現在価値や将来価値という言葉は金融論の初歩的な言葉としてカウントされてきた。今の1万円は1年後の1万円よりも価値が高いのである。しかしながら、定常社会では今の1万円も1年後の1万円も価値は同じなのである。ここに、時間が価値を生むという根本的な原理が通用しなくなり、人々は時間への興味を失っていくと考えられる。そうした場合、時間の対概念である空間の比重がこれまで以上に重要視されるのではないかということが広井先生の提言である。
終盤ではかなり歴史的・哲学的な話に広がっていく。これまでに歴史を概観するに、定常化と成長のサイクルを広井先生は見出している。そして、キリスト教や仏教、ユダヤ教などの世界宗教の多くは定常化した状態で勃興する。そこには、物質的な拡大から内面への深化、際限なき欲望の抑制という宗教的・哲学的な思考が深まるのは、拡大や際限なき欲望がかれ果てた定常化した社会なのである。今後、定常化した社会の中で、自省的で内面的な思考がトレンドとなるということは文化的な側面でも考えられるであろう。一方、もう一つの見方とすれば、空間的な拡大の果てに多様な人々をむずびつける共通基盤が必要となり、そこには長い時間軸を持った宗教的・普遍的な思考が不可欠であったという見方もある。いずれにしても、今後の文化は普遍性の高い概念への深化のフェーズを迎えているのであろう。
著者プロフィール
広井良典の作品





