- Amazon.co.jp ・本 (250ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480065537
作品紹介・あらすじ
「日本語の哲学」を目指すとは、いったいどんなことなのか。-少なくともそれは、古代ギリシャに始まった西洋の哲学をただ日本語で受容する、ということではないはずである。かつて和辻哲郎が挑んだその課題は、いま、もっとも挑戦しがいのあるテーマとして研究者を待ちかまえている。ここに展開するのは、パルメニデス、デカルト、ハイデッガーといった哲学者たちと、「日本語」をもって切りむすぶ、知的バトルの数々である。これまでに類を見ない知的冒険の姿がここにある。
感想・レビュー・書評
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和辻とハイデガー、さらにデカルトとヘーゲルの思想を理解する助けになる。文章は読みやすく潔い。第4章までが勉強になる。第5章と第6章は、西洋語でなかなか捉えきれないものが日本語ではできる、ということが丁寧に説かれていて面白いが、だからどうなのか?とも思ってしまう。本居宣長同様、“だから日本はすごい”という気持ちが文章に滲み出ているので、そこはちょっと引いてしまう。
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大学の課題のために読んだ。そうでなければパルメニデスの「哲学詩」のところで挫折して読み切れなかっただろう。哲学の「難関(アポリア)」に立ち向かう際においての日本語と西洋語の違いを考察するという内容。ただ私の思想には反していた。
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もう忘れていますよね。この頃は
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<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4860111923?ie=UTF8&tag=daysofzephyr-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4860111923">本の雑誌 2010年12月号</a>で、渡辺十絲子氏が連載コラムで取り上げており、そこで書かれていた文章を読んで、買おう、と思った。<blockquote>「我思惟ス、故に我存在ス」と「我思う故に我在り」と「わたしが思う、だからわたしがある」とは、それぞれまったく別物であるとわたしは感じる。別の思想だと言いかえてもいい。それはわたしにとっては自明のことである。だけれども哲学の本は、この問題を歯牙にもかけてくれない。</blockquote>まったくだ、とぼくも思う。
この違和感は、英語では理解されえない違和感なんだろうな、と思っていた。
日本人の哲学者は、どう思っているんだろう、とも思っていた。
本書を読んで、ああ、そういう哲学者はいたんだ、とほっとした。
本書は、こんな書き出しで始まる。<blockquote>「日本語をもって思索する哲学者よ、生まれいでよ。」
昭和十年、和辻哲郎が『続日本精神史研究』のなかの論文「日本語と哲学の問題」をこう言ってしめくくったとき、彼はたしかに、きわめて重要なことを語っていたのだった。</blockquote>まったくだな、と思った。
本書は、和辻氏の呼びかけに応えて、デカルトやハイデッガーの「哲学」を、「日本語」で思索することを始めていく。
そこで、「ある」や「もの」、「こと」といった日本語の根幹とも言えるような語句に隠されている「哲学」を、深く突き詰めていく。
本書は、題名からして「日本語の哲学『へ』」である事からもわかるように、まだその歩みを始めたという決意表明のようなものに近い。
あとがきで、著者も書いている。<blockquote> 実際に自分の足で、この「もの・こと」論の道を歩んでみて、あらためてこの道の奥深さと複雑さに驚かされてゐる。本文にも書いたとほり、この本はまだ、ほんの入り口に足を踏み入れただけであつて、「もの」と「こと」についてもただ一通りを概観したにすぎず、さらにこの先には。「主語の思想」と「てにをはの思想」の対決といふ、もつとも大きな主題(メイン・イベント)がひかへてゐる。</blockquote>次の著作がどのようなものになるのか、とても楽しみである。
本文中で感銘を受けた箇所を、二箇所ほど引用しておく。
<blockquote> ところが、ヘーゲルのこの「純粋の有」は、「われわれはそれを感覚することも、直感することも、表象する事もできない」のだという。これでは、「がある」の有だ、ということすらできない。むしろ、これに一番近いものをさがすとすれば、『荘子』の「応帝王篇」に語られている渾沌の姿であろう。世界の中央の帝である渾沌は、南海の帝?と北海の帝忽とがたずねて来たときこれをよくもてなし、喜んだ?と忽とが、お礼に、目鼻耳口の七穴を、一日一つずつ渾沌にうがってやったらば、七日目に渾沌は死んでしまったという。
もしヘーゲルが素直に、自らの学の始まりを語っていたならば、すべての学は渾沌を殺すところに始まった、と述べていたことであろう。そして、それはとても解りやすい話になっていたことであろう。(あるいはさらに、哲学という学問は、渾沌に目鼻をつけて殺しておきながら、しかも渾沌の素顔を見たいと願う、いかんともしがたい学問なのだ、とつけ加えてもよかったかも知れない)。</blockquote>
この、<blockquote>哲学という学問は、渾沌に目鼻をつけて殺しておきながら、しかも渾沌の素顔を見たいと願う、いかんともしがたい学問</blockquote>という表現には本当に感心した。
哲学という学問の本質を、とてもよく表していると思う。
もう一つ。<blockquote> 前章にも述べたとおり、漢字で日本語を書き表すということは、それまではまったく無自覚に使っていた母国語の全領域を<意味測定器>にかける、ということに等しい。</blockquote>この文章を読んで、はっとさせられた。
日本語は、その黎明期において、このような「棚卸し」が行われており、その後、多言語(文化)との交流のたびに、都度「棚卸し」が行われていたのではないか。
その事が表すことというのは、ちょっと凄いことなのではないだろうか。
自分たちの言語を、その意味や表現において総浚いし続けている言語体系というのは、果たしてどれくらいあるんだろうか。
言葉は「道具」である。
道具は、局面に応じて適切な用途で使い分けられなければいけない。
「日本語」という「道具」は、きっと多言語では表現できない部分を表現する手段をもっている、と思う。 -
和辻哲郎の『続日本精神史研究』に収められている「日本語と哲学」という論考を手がかりにしながら、日本語という観点に立つことで西洋から輸入された哲学的な思索がどのような新たな眺望が得られることになるのかを考察している本です。
前半は、デカルトやヘーゲルらの思想と、それに対して和辻がどのように切り結ぼうとしているのかを明らかにしながら、少しずつ著者自身の問題意識が明らかにされていきます。後半になると、日本語の「もの」と「こと」をめぐる著者自身の思索が展開されます。とくに著者は、「もの」ということばに「無のかげ」が差し入っていることと、「こと」ということばによってその内容が区切られ、際立たされていることに鋭い考察のメスを入れています。さらにこうした著者自身の洞察が、存在の呼び声に聴従し、言葉を「存在の家」と規定した後期ハイデガーの思索に接近していることにも目を向けつつ、「もの」と「こと」を交差させることに「日本語の哲学」の可能性を見ようとしています。
静謐な文体と強靭な哲学的思索があいまって、深い印象を残す内容になっていると感じました。 -
途中から追いつけなくなった
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「もの」と「こと」の違いから日本語の哲学を構想する。
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【目次】
1. 日本語と哲学
2. デカルトに挑む
3. 「ある」の難関
4. ハイデッガーと和辻哲郎
5. 「もの」の意味
6. 「こと」の意味
【概要】
物事をどのように理解するかは、言葉の形によって左右される。
「存在とは何か」という哲学の根本命題を日本語で思索する場合にも、西洋哲学の用語を翻訳して理解しただけでは不十分であり、まずは日本語自体のもつ「わかり」の形を明らかにしなくてはならない。
そうした道具立てをしっかりとした上で、日本語の哲学が始まる。
【感想】
結局、「もの」と「こと」との根本義について、筆者の見解を述べただけで終わる、中途半端な内容。
物事が次々に生じては消えていく時間の流れの中で、「こと」は「つぎつぎになりゆく」側面に目を向けたものであり、「もの」が出で来たものが去り行く後ろ姿を眺めている、という解釈は、それなりに納得できるものではある。
(もっとも、著書の中で解説されている、大野晋および荒木博之の、「こと」は時間的に変化する出来事や行為をさし、「もの」は時間的に不変な物事をさす、という解釈の方が素直な気もするけど。)
でも、そのように解釈をすることで、著書の中心課題である「あるということはどういうことか」についてどのような知見が得られるのか、何ら説明がない。
それは、新しい日本語論ではあっても、日本語の哲学とは呼べないと思う。 -
第1週 1/11(水)~1/18(火)
テーマ「日本・日本人・日本語」
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