科学の限界

  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本
  • / ISBN・EAN: 9784480066909

感想・レビュー・書評

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  • 池内了(1944年~)氏は、天文学者、宇宙物理学者。名古屋大学名誉教授。一般向けの書籍も多数執筆している。
    本書は、2011年3月の東日本大震災と原発事故が、現代の科学・技術における限界を露呈することになった翌年に出版され、「何が科学・技術の限界を決めているか、それは克服できるのか、克服できるとすれば現在の私たちに何が欠けているのか、克服できないとすれば今後科学・技術とどう付き合っていくべきなのか」について、“人間”、“社会”、“科学そのもの”という多角的な側面から分析したものである。
    内容は概ね以下である。
    ◆人間が生み出す科学の限界・・・人間の叡智である科学の進化に対して、技術の進化のスピードが圧倒的に速く、今や人間が技術を追いかけねばならない事態になっている。人間の持つ、功利主義的な発想や限りない欲望の追求が、無節操な技術の発展を後押ししており、また、ヒューマンエラーや不注意などの錯誤、自尊心やメンツなどの心理的な逸脱、更に、心理的なバイアスなど、人間としての生物学的な限界がある。
    ◆社会が生み出す科学の限界・・・19世紀半ばに、科学が国家の制度の中に組み入れられ、国家が科学の最大のスポンサーになることによって、それまでの「科学のための科学」が「社会のための科学」に変質し、「社会に役立つ科学」が求められ、「役立たない科学」は時代遅れとして見捨てられていった。具体的には、科学の軍事化、科学の商業化、ビッグサイエンスの推進、地震予知、原子力の利用など。
    ◆科学に内在する科学の限界・・・不確定性原理や不完全性定理は、自然認識や論理の無矛盾性に対する限界があることを示している。更に、現代においては、複雑系や確率でしか論じられない事象が認識され、不確実な科学知しか得られないという限界が明らかになっている。
    ◆社会とせめぎ合う科学の限界・・・現在、さらに今後においては、地球環境問題、エネルギー資源問題、核(原子力)エネルギー問題、バイオテクノロジー問題、デジタル社会の問題、マンモス化(ビッグサイエンス化)問題などにも取り組まなければならない。
    そして、以上のような科学の限界を踏まえつつ、著者は最後に「あるべき科学の姿」として、「精神的所産としての文化の一翼を担う科学」、「科学者倫理を正面に据えた、人間を大切にする科学」、「サイズも費用も身の丈に合った、誰もが参加できる、等身大の科学」、「これまでの右肩上がりの人間を置き去りにした科学でははく、人間の精神を揺り動かす科学、社会との調和を視野に入れた科学」を提唱している。
    近年、AIの急速な進化により、技術が人間を追い越し、いずれ人間は技術を制御できなくなるという危機感が高まり、多くの人びとに共有されつつあるが、こうした今こそ、科学・技術における限界を改めて認識し、我々はそれにどのように向き合い、科学・技術を如何に位置付けるべきなのかを考える必要がある。本書はその一助となる一冊と思う。
    (2020年4月了)

  • 本文の内容より、脳梗塞を起こしていたのに自覚症状が少なくて4日も放置して医者に怒られていたんです、推敲の期間に…のあとがきにビックリした。あれこの間亡くなったのはお兄さんの方よね?って思わずググって確認しちゃったよ。ご自愛くださいね…。

  • 科学の限界

    著者 池内了
    2012年11月10日発行
    ちくま新書

    炭鉱に入る鉱夫はカナリアを先頭にする。敏感なカナリアが有毒ガス発生を感知してくれるからだ。1995年のオウムの強制捜査でも機動隊が持っていた。ヨアヒムスターレルというチェコの銀鉱山では、ゴキブリがカナリアの役を果たしていたらしい。ゴキブリも感知するとパタバタと騒ぐため。著者の池内了氏は、科学者は「社会のカナリア」であれと主張している(「社会のゴキブリ」では誤解を招くとも)。

    科学者は、個人的な欲望や社会的な制約、圧力などで、必ずしも“正しく”科学と向き合っていない。成果を上げたい、成果を上げて研究費を獲得したい、理論より実用化せよとの社会からの求めに応じたい、などなど、いろいろな要素により、科学のいい面ばかりを公表している。激しい競争の中、危なそうなもの、完全に安全性が実証されていないものを、可能性が低いとして使ってしまう。そんな状況に警鐘を鳴らし、科学者は危険をいち早く察知して知らせるのが役割なのだ、そのためにも等身大の科学を取り扱うことが大切だと結論づけている。

    この本に書かれている科学とは、自然科学のことである。著者は国立天文台や名古屋大学などの教授を経ている宇宙物理学者、天文学者であるが、最近は科学・技術・社会論へと方向転換した、と別の本に書いている。科学について本気で書かれた本は、我々門外漢にはちんぷんかんぷんだが、科学を通して考える文明批評はわかりやすく、優しさのなかにとても厳しい目を感じる。

    この本では、科学の限界について、1.人間が生み出す科学の限界について、2.社会が生み出す科学の限界について、3.科学に内在する科学の限界について、分けて考察している。例えば、2の社会が生み出す科学の限界については、まさに日本で起こっているような、文系軽視、理系重視の政策を予言。18世紀の産業革命以来とくに、国家が科学のスポンサーになってしまった宿命について思い知らされる。

    では、どうするべきか?著者はこういっている。
    1. 「通時性の論理の回復」
    今がよければいいという科学はやめろ。未来世代の立場から見てプラスかマイナスかを判断せよ。
    2. 「予防措置原則」
    禁止する、小さな基礎実験に留める、いつでも止められ現状に引き返せる、安全への手だてを常に準備しておく、など。
    3.少数者、弱者、被害者の立場を尊重する論理

    著者の主張は、これまでの原子力利用のあり方に関する以下のような指摘によく現れている。

    1954年、日本学術会議は、自主・民主・公開の三原則の下に原子力の平和利用に踏み切った。研究の自由が保証されている大学では三原則は守られたが、電力会社ではほとんど無視された。外国産の原発の直輸入(非自主)、数多くの事故隠し(非公開)、原子カムラの暗躍(非民主)などを見れば明らか。
    また、原理や法則性に主要な関心がある物理学者は基礎研究から始めるべきだと主張したが容れられず、応用・開発を優先する政府。経済界が主導権を握った。その結果、物理学者は一斉に手を引き、実用研究を行う工学者の手に委ねられた。原子力工学があっても原子力理学は存在しないのである。工学者は早く実物を操作したい、より大型化したいとの欲求が強い。たとえ輸入技術であっても、それを洗線させれば外国を凌鴛できると考える傾向がある。技術輸入からのし上がってきた明治以来の習性だろうか。これが原子カムラを形成する原因となった。技術の推進一色となり、外部からの批判を許さない状況が作られたのである。

    理論が軽視され、技術が最重要として求められる社会。危ない。

  • サイエンス

  • 【大西浩次先生】
    本書は、職業としての科学者が誕生以降の、発散的な科学進展状況において、この現代の科学に内在するいろいろな限界について議論されている。その最後に、著者が「等身大の科学」を提唱していることは興味深い。実は、私が実践している金環日食やブラックホールによる天文学の普及、科学の普及は、著者のうち等身大の科学の実践だといえる。本書を手にとって、科学の限界が本当にあるのか、自問してみるのが面白い。なお、著者の池内了(さとる)は、有名な理論天文学者であるが、あの著名なドイツ文学者、池内紀(おさむ)の弟として、非常に強いコンプレックスを持っている方である。高校時代から多数の評論を書いてきたが、このコンプレックスが、彼の多数のエッセイや科学評論の原動力になっている。こんなことを思うと、彼のいろんなエッセイがさらに面白く読めてしまう。

  • 科学者は追試実験を好まない。先を越された実験を繰り返すよりその結果を受け入れて次のステップに進むほうが効率的だから
    科学の商業化の風潮が強まるにつれて科学者が社会に迎合する方向になびいている
    商業化という社会の制限が入ると費用対効果を指標にしてある一つの方式に固定されてしまう。科学の多様性が取捨されてしまう
    科学に内在する法則によって物質の質量や密度は限られた範囲しか存在できない。下は不確定性原理、上はブラックホール条件
    事前確率は模擬実験にすぎず信頼できるかどうか不明
    事後確率は原因の分析がなくそのまま未来まで適用できるか不明

  • この本は2年前に出たのですが、現代の科学に共通する問題を多く説明しています。STAP細胞以前の出版ですが、章ごとにその問題について考えさせられました。科学の中身については私は素人でわかりません。STAP細胞にしても、原子力についても、人文系の人間は、胡散臭さを感じても、中身を踏まえた批判ができません。
    いや、この著者がSTAP細胞についてどう考えているかなと思ったら、今日、みすず書房のPublisher's Review28が届き、巻頭のコラムに著者の批評がありました。本体『科学・技術と現代社会』、おもしろそうな本だけど、かなり値段が高い。

  • 科学に関する考察が素晴らしい.原子力ムラの問題点を的確に洗い出しているが、出てきた問題点を解決するための方策についてはまだ不十分な感じだ.だた最後の章での「文化としての科学」や「等身大の科学」は共感できる部分が多く、著者の科学に対する深い理解力の一端を垣間見た感じだ.

  • 科学が「限界」に突き当たっているとするならば
    それはどういう経緯から、どういう構造で
    そうなってしまったのか、そこから脱出する道は
    あるか、ということを理学研究者である著者が
    幅広い科学知見ならびに政治・経済の現実を
    踏まえながら論じていく。

    今日の科学を取り巻く状況を見つめなおす手助けと
    なる一冊だと感じた。
    ただもちろん著者も自ら言っていることだが、
    複雑系の現実の中では、未来を確かに予測することは
    できないわけで、
    その前提に立つと著者が鳴らす警鐘も、
    「予測できない未来のこと」という論理から否定
    されうるとなってしまい、
    とりわけ「通時性視座の回復」「等身大の科学へ」
    といった主張は正当性を感じるものの
    さりとてカネや国家権力と不可分に結びついた
    現代科学の状況では、空しく響くという印象を持ってしまう。

    本書では触れられていないが、海外は知らないが
    日本ではいまだにノーベル賞崇拝志向が強力だなと思う。
    ノーベル賞を取るには、そもそもスポットライトの当たる
    分野を選ぶべきだという発想になり、それはおそらく
    「等身大の科学」とは異なる、どちらかというと
    「ビッグサイエンス」に含まれるように思う。

    ビッグサイエンス信仰を振り払うには、根底にある
    ノーベル賞崇拝をなんとかする必要があるのでは・・・。

  • ・科学はマンモス化している。「等身大」の科学にシフトしていく。「等身大」って何?

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著者プロフィール

1944年姫路市生まれ。名古屋大学・総合研究大学院大学名誉教授。1967年京都大学理学部卒業、1972年京都大学大学院理学研究科博士課程修了、1975年京都大学理学博士。京都大学理学部助手を皮切りに、北海道大学理学部・東京大学東京天文台・大阪大学理学部・名古屋大学理学研究科を経て、総合研究大学院大学教授・理事の後、2014年3月に定年退職。九条の会世話人、世界平和アピール七人委員会委員。著書に、『科学の考え方・学び方』(岩波ジュニア新書、1996年)、『寺田寅彦と現代』(みすず書房、2005年、新装版2020年)、『科学者と戦争』(岩波新書、2016年)、『物理学と神』(講談社学術文庫、2019年)、『江戸の宇宙論』『江戸の好奇心』(いずれも集英社新書、2022年、2023年)、『姫路回想譚』(青土社、2022年)他多数。

「2024年 『新潟から問いかける原発問題』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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