生権力の思想: 事件から読み解く現代社会の転換 (ちくま新書 1000)

著者 :
  • 筑摩書房
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感想 : 14
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  • Amazon.co.jp ・本 (270ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480067098

作品紹介・あらすじ

死を迫る権力から、生かすための権力へ-これこそ近代への転換であった。そして規格化された従順な身体を規律と訓練によって創り出してきた近代の権力は今や「管理型権力」という新たな形式へと転換しつつある。身体の扱いはどのように移り変わってきたのか。そして現代の我々の生を取り巻く不可視の権力のメカニズムはいかなるものなのか。ユダヤ人虐殺やオウム、宮崎勤事件などの様々な事例と、フーコーらの権力分析を交差させ、社会を根底で動かすものの正体を暴き出す。

感想・レビュー・書評

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  • P.104
    P.112
    P.156

    at interface value

  • 「生権力」とは、フーコーが分析した新しい権力の形である。生権力は、それまでの権力とは違い、死よりも生を通してその力を行使する、生かしめる権力である。そこでは「人口」が関心事となり、個人の身体を通して、個人を主体化する権力である。『監獄の誕生』で論じたパノプティティコーンの事例は有名であるが、監獄、病院、学校、軍隊、という近代の仕組みにおいて、規律訓練を通して個人による持続的監視を行うことで従順な身体を生産する。過去、権力の頂点にいるものこそが見られたが、生権力の元では権力に従うものこそが見られるのである。

    このテーマにおいて、著者はオウム真理教の事件を大きく取り上げる。オウムのヘッドギア、窓のないサティアン、神経毒のサリンなどを取り上げるのだが、ここはうまく論理と整合しているようには見えないのがやや残念なところ。もしかしたら個人的な印象なのかもしれないが。オウムの権力分析にはまた別のやり方があるように感じる。


    本書では、後期フーコーの主要概念であるパレーシアが分析される。権力への抵抗の拠点たる主体や性が、権力によって産出させられた拠点でもあることから、抵抗の不可能性の含意を見たフーコーが新たにたどり着いたものがパレーシアでもあるが、そこに著者は納得感を見い出せない。しかし、著者の分析もまた徹底されてはいないようにも思われる。そこに納得性というような可能性があるのであれば、もしかしたら抵抗の諦めと積極的な受け入れ以外にはないのかもしれない。
    もし、さらにフーコーの生権力や後期フーコーに興味があるのであれば、中山元の『フーコー 生権力と統治性』『フーコー思想の考古学』『賢者と羊飼い―フーコーとパレーシア』などをお勧めする。なかなかに歯ごたえがあるはずだ。

    やはり、フーコーの権力論は、近年のインターネットとモバイルネットワークによって再現なく拡がった情報空間における新しい現実にこそ適用されて再考されなければならない。そこでは情報と権力はそれまでとは異なる意味を持つことになるだろう。


    ---
    『フーコー 生権力と統治性』(中山元)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309245110

  • 恐らく、ベースとなる通底する論拠がないのであろう、つらつら文章が流れるだけで、何を訴えようとしているのかが、わからない。
    大澤との結論とは別に、抵抗への主体を紹介している、ソクラテスに代表される真理を語るパレーシアに見た。
    権力への抵抗は、包括的に権力に依存する。
    第3領域において、真理を語る主体、運動の方が、余程、権力にとって、厄介だ。

  • 社会

  • 事件から読み解く現代社会の転換
    よくわからないね。

  • これは生権力について語っているのだろうか。フーコーをメインに語ってるというかというと、違う。むしろいつもの大澤節というべき、猟奇犯の動機推理小説。主体の客観的同一性の自己崩壊から甘さの再措定へ。
    そこからでてくるのは、神のゾンビ。価値の生々しい否定によって別の超越的価値を復活させる錬成術。
    そして、その生々しさ(内なる他)との和解が、アウシュビッツ的悲劇を回避するという。ほんとうか。

    補論の「パレーシアとその裏側」は、けだし、超重要論考である。ヘーゲルをキーに、フーコー生政治的主体の脱構築をはかる。

  • 規律訓練型の権力から逃れるために、むしろその権力が自己否定的な結果をもたらす程度まで徹底的に作動させること。

    規律訓練型権力から管理型の生権力への変容を内在的に後付ることによって、権力に対する抵抗の足がかりを見出す。管理され尽くされること自体がその権力関係を内側から食い破っていく。

    この論点はわかるが一方で、権力は抵抗を乗り越えてしまうのではないか?この点はフーコー読みのあとでいつも議論になってたような気がする。

  • ミシェル・フーコーが提起した「生権力」から現代社会において、生権力がなぜ、どのようにして規律訓練型から管理型へと転換したのかをオーム真理教事件、宮崎勉事件などをとりあげて説明する。私には少々難解でした。

  •  思想関係の本を久々に読んだが。なんだか分かったような分からないようなことを得々として述べている,という印象。宮崎勤は幼女が「過剰な他者性」を示したために殺人へ駆り立てられたとか,オウムのヘッドギアとケータイは他者への形式的な接続という点でとても近いものであるとか。なんじゃそりゃ。そんな分析に何の意味があるのか。
     フーコーによると,旧来の「殺す権力」が近代に至って「生かしめる権力」に変容した。そのフーコーの「生権力」は元来の「規律訓練型」から,現在では「管理型」に転換していると言っていい。このあたりはまあそうかなって感じだけど,その事件への当てはめが牽強附会というか。恣意的なものを感じた。

  • 大澤先生の新書での著作。いつもの議論の展開ではあるが、権力と身体とのあり方についての考察。個人的には「見られているかも知れない不安」から「見られていないかもしれない不安」への転換についての議論は非常に面白かった。まだ自分の頭も十分に整理は出来ていないので、何度か見返したい。

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著者プロフィール

大澤真幸(おおさわ・まさち):1958年、長野県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。社会学博士。思想誌『THINKING 「O」』(左右社)主宰。2007年『ナショナリズムの由来』( 講談社)で毎日出版文化賞、2015年『自由という牢獄』(岩波現代文庫)で河合隼雄学芸賞をそれぞれ受賞。他の著書に『不可能性の時代』『夢よりも深い覚醒へ』(以上、岩波新書)、『〈自由〉の条件』(講談社文芸文庫)、『新世紀のコミュニズムへ』(NHK出版新書)、『日本史のなぞ』(朝日新書)、『社会学史』(講談社現代新書)、『〈世界史〉の哲学』シリーズ(講談社)、『増補 虚構の時代の果て』(ちくま学芸文庫)など多数。共著に『ふしぎなキリスト教』『おどろきの中国』(以上、講談社現代新書)、『資本主義という謎』(NHK出版新書)などがある。

「2023年 『資本主義の〈その先〉へ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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