震災学入門: 死生観からの社会構想 (ちくま新書 1171)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480068781

感想・レビュー・書評

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  • カテゴリ:図書館企画展示
    2016年度第9回図書館企画展示
    「災害を識る」

    展示中の図書は借りることができますので、どうぞお早めにご来館ください。

    開催期間:2017年3月1日(水) ~ 2017年4月15日(金)
    開催場所:図書館第1ゲート入口すぐ、雑誌閲覧室前の展示スペース

  • なんか今ひとつ。

  •  海に背をむけることなく海で生業を営む人びとは、海と遠く離れて住むようなことはない。たとえ命や家屋を流されたとしても、津波を日常の連続性のなかに組み込んでいるのである。漁師や海の近くで暮らす人びとでも、流されればまた建てればいいだけの話とかなり割り切った言い方をする人はかなりの数にのぼる。
     しかし、このような日々の暮らしの水準における時間は、自然科学者のフラットな時間軸に対して、かなり濃くて、自分が生きる前の時間は、30年前も何万年前と同じように現在から比べれば薄いのである。(p.39)

     悲しみは、それだけ自分の人生に大きなものがもたらされていたことの証であり、死者は目には見えないが、見えないことが悲しみを媒介にして、実在をよりいっそう強く私たちに感じさせる、という。彼の言明は、死を彼岸に追いやる現代の趨勢に抵抗して、家族を突然亡くした人びとの感覚と非常に重なっているといえるだろう。(pp.98-99)

     危険地域に堤防をつくるのは行政の仕事、浸水想定区域をハザードマップで示すのも行政の仕事、避難の必要があれば防災無線で知らせてくれる、これら自分の命を守ることに対する主体性が失われ、災害過保護的状態が顕著で、その結果として人為的につくり上げた安全は、物理的、確率的な安全性を高めたが、人間や社会の脆弱性をかえって高めることになっている。(pp.109-110)

     原発避難とは何か。そこには直接的な放射能の被害は今のところない。しかし、原発事故から派生して避難生活のなかで食材や衣料を要領よく選べないことや、常に避難先で周囲の目を気にして生活しなければいけない暮らしがあった。いつ終わるとも知れない避難生活が彼女ら彼らの未来を閉ざすことになる。普段当たり前のようにやっていたことが環境が変わることによって、身体がついていかない歯がゆさやぎこちなさ、誰も知らないところで、自分のふるまいがあざ笑われているのではないかという過重な重圧を感じることになる。(p,170)

  • ■被災者同士のタブー。家族を亡くした遺族から話を切り出されれば自分たちも話すがそうでない人に対しては話さない。家族を亡くした遺族も亡くならなかった人も一線をお互いに設けている。
    ■「記録筆記法」は被災者自らが大災害で経験した事象についていつ誰がどこで何をどのようにしたのかを書き綴っていくというシンプルなもの。
    ■災害や戦争など生き残った人々が強迫自責を追うとされる「サバイバーズ・ギルト」に囚われている被災者遺族は「そのとき何かができたはずである」「亡くなった人に申し訳ない」という罪悪感を心の中に強く刻みつけている。
    ■痛みは取り除くよりも,温存すること
    ■ポーリン・ボスは「曖昧な喪失」(行方不明)を「明確な喪失」と区別し,その状態が最終的か一時的かが不明であるため,残された人々は困惑し問題解決に向かうことができないとしている。
    ■「曖昧な喪失」が多くの人々に長期にわたって深刻なストレスフルな状態を引き起こす一方で,経験的知見を加えながら失われていないものを明らかにすることを通じて,経験者がその人生を前進させている。
    ■国の中央防災会議「東北地方太平洋沖地震を教訓とした地震・津波対策に関する専門調査会」において,二つの基準をつくる
    ・L1:数十年から百数十年に一度の頻度で訪れる規模の津波の高さ
    ・L2:数百年から1000年に一度の割合で訪れる当該地域で最大規模の津波の高さ
    ■国や自治体は津波被害を完全に封じることは不可能だとしてL2対策に舵を切っている
    ■防災は行政の役割という考え方が当たり前になっているがこれはとても危険。自分の命を守ることに対する主体性が失われ,災害過保護状態が顕著で,その結果として人為的に作り上げた安全は,物理的,確率的な安全性を高めたが,人間や社会の脆弱性をかえって高めることになっている(片田敏孝)。
    ■宮城県気仙沼地域が市を挙げて巨大な防潮堤に反対している理由を探ってみると必ずしも費用対効果論では収まり切らない「文化的価値」が歴史的にみて比重が高く防潮堤をつくらない方向に向かわせていることが分かる。
    ■「沖出し」は,水深50メートルの沖合に行くことができれば津波の被害受けないとされる。
    ■「津波」という言葉自体,三陸沿岸で使われるようになったのも明治29年の大津波のときからで,それ以前は「ヨダ」という言葉を用いており,海霊を表す「ヨナ」に近いものとして単なる海のことではなく,そこには意志を感じるものが含まれている。
    ■D・P・アルドリッチは,中央集権的な復興政策の計画の大半がうまくいかない背景には,地域が持つソーシャル・キャピタルの機能を軽視している点を挙げ,公的及び民間部門の意思決定者は災害前後の各段階においてソーシャル・キャピタルを高めるような政策を構築・適用していく必要性を説く。
    ■避難生活を強いられ,初めての都市の暮らし,そこには匿名性でありながら,誰かに常に見られている「まなざしの地獄」がある。

  • 政府が対応し、マスメディアが伝える。その当たり前になった震災の「イメージ」ががらがらと崩れ、今まで気付かなかった、そこに生きる人々の息遣いが感じられた。

    ・日本は世界で希に見る四つのプレートの境界に隣接し、世界の九割以上の地震が頻発する地帯にあり、さらに台風をはじめ急峻な山々に囲まれた土砂災害や洪水に見舞われる災害列島である。
    ・記録という行為で、心の痛みを取り除くのではなく、痛みを温存する。この「痛み保存」法は、その痛みは当人にとって愛する家族との大切な思い出として、むしろ保持される。それが亡くなった家族との関係性を修復することにつながっていくのである。
    ・彼女ら彼らが慟哭の記録に対して肯定的な評価をするのには、本人がすっきりした以上に、亡くなった肉親が「生き続ける」意味が含まれていることが次第に分かってきた。
    ・カウンセリングが、受ける当人からなぜ拒否感をもたれるのか。それは、カウンセリングによって、自分は楽になることができるけれども、そのことが突然命を絶たれた死者に対して申し訳ないという気持ちをもっているからである。
    ・宗教的儀礼は彼岸の側に立った鎮魂。行方不明者を多く抱えるような大震災では、いまだに彼岸にいない死というものに対処できない。
    ・恐山の住職代理を務める南直哉は、恐山に押し寄せる犠牲者遺族の声に耳を傾けながら、彼らには、安直に語り出される宗教がかった言葉は不要で、死者を死者として納得しがたいうちから、死者を適当に意味づけするような言辞を押しつけられても、遺族が受け入れられるはずがないという。
    ・感情の共有化の意味は、個人の哀しみは、魂の不安定につながるが、集団の哀しみは、魂の安定につながるという点で重要である。いわば、死者との個別交渉を第三者のものや人々に帰属させることによって、個人および家族・親族の孤独な消耗戦はある程度軽減される。
    ・生者と死者の中間領域に存在する不安定かつ両義的な生/死の中味をあえて縮減せずに、意味を豊富化させ肯定的に転調させることで対処する方法。
    ・オキ出し
    ・自分が何ものなのかというアイデンティティの不在に、原発事故の被災者たちは苦しんでいる。
    ・「イシュー(問題化された問題)」の裏側にある「コンテキスト(文脈・状況)」を中心に、人と環境のかかわりを見て行かなければ、事の本質を見失ってしまう。
    ・目に見えない強制移住:〈いまここ〉の現在を立て続けに簒奪して、常に〈いつどこか〉へと私たちを追いやる。

  • 例えば、あの日から自分は何を学んだのだろうと考える。
    大地震、震度1にも気づく感覚、津波の恐ろしさ、原子力発電、瓦礫と被災物etc...
    あるいは死生観というものも変わっただろうか。災害列島で生きていく覚悟。

    すべてがあとがきの一文に集約されているのではないだろうか。

  • ●引用。→感想
    ●今回と同規模の地震と津波のリスクがゼロに近い場所に、すべての人が住むことができない以上、われわれに問われているのは災害リスクとどのように共存すればいいのか、ということである。言い方を換えると、リスクを完全に排除するのではなく、どのようにしてリスクを受け入れて共存すればいいのかを考えることが実践的に求められている。そのヒントとなるキーワードがレジリエンスである。
    ●災害時のレジリエンスの向上とは、困難な危機に直面してその状況に適応しながら一方でいざというときに備えて危機を許容する幅を広げておくことにある。壊滅的な状況のなかで見逃されがちな、地域内部に蓄積された問題解決能力をレジリエンスという言葉は射程に収めている。
    ●災禍が日常のもとに組み入れられることを、人びとの立場から考えたのが、常民の視点から物事を考える民俗学であった。民俗学者の宮田登は近世期以降、飢餓との時期が合致しているという口碑にある巳の年に、5月、11月の期間に二度目の正月を祝って、災厄である不幸の年を人為的に終わらせ豊年の年へと転換させる信仰的な儀礼を紹介している。稲の作農耕社会において、飢餓と豊作は交互に繰り返される。そうであるならば、いち早くやり過ごし、豊作の再来を待とうということになる。絶対的ユートピアではなく、季節のリズムによって日常と連続した先に期待される相対的ユートピアの思想は、循環的時間観がもたらす幸不幸の波の周期を短縮する呪術儀礼を生み出したのである。→「災害と妖怪」
    ●カウンセリングは、痛みを取り除くことでこころのケアにとって効果がある方法だと、一般的には思われている。だが、この記事筆記法が明らかにしたことは、こころのケアのためにはむしろ逆で、痛みを温存するほうが、亡き人との関係性を変えずに済み、効果があるのではないかということである。
    ●言い換えれば、これまで防潮堤がない暮らしを選択することで「ウミ・オカの交通権」を確保し、それを拡充させ、海からの恵みを最大限享受してきたのが気仙沼内湾地区である。自ら災厄を引き受けることで、それ以上の恩恵ひいては人生そのものを海に依存させて生きていこうという決意に似たものに聞こえる。

  • 369.31||Ka

  • 津波に襲われるのは起こりうることで、許容するのではなく、しかしそういうものだと受け容れる。これは歴史である。人は死ぬものだ。だが、街は死なないようにもできる。それが歴史だろう。

    国が生きるか、街が生きるかどちらの歴史が優先されうるのか。当事者主権というのは国を成り立たせている原理でもあるのだから、基本的には筆者の訴えるように下からの歴史と意識を尊重するべきである。

    ただし、歴史はいつでもフィクションに裏返る。そういった但し書も必要だろう。

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著者プロフィール

関西学院大学 社会学部 教授、社会学者。専門は災害社会学、環境社会学。

「2024年 『生ける死者の震災霊性論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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