大学改革の迷走 (ちくま新書)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (478ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480072634

作品紹介・あらすじ

シラバス、PDCA、KPI……。大学改革にまつわる政策は理不尽、理解不能なものばかり。なぜそういった改革案が続くのか? その複雑な構造をひもとく。

感想・レビュー・書評

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  • 文科省が実施する「教育内容等の改革状況について」調査結果に見るように、大半の大学が数字の上では改革を進めている実態が覗える。しかし一方、大学がよくなったという話は寡聞にして聞かない。高等教育界は教育の本質や現場を知らない経済界(様々な利害団体の代表)に踊らされ、日本の景気減速の責任までも押しつけられる。批判は年々厳しさを増す。許認可権や各補助金対象事業の決定権を握る政府・行政に対し、表立って異議を唱えることもできず、昨今の「言っても無駄」風潮も手伝う。「異を唱えさせない」ガバナンス構造を、大学教職員の隅々まで徹底させたのが「学校教育法」の改正(2014年)であった。

    大学改革を迷走させている「小道具」には、次のようなものがあると著者はいう。
    〇シラバスは、「偽 Syllabus」:記載のフォーム・細目に至るまで、実質的に文科省の意向に従い、「文科省向け」に発行しているのがシラバスの現状である。一方本場の Syllabus は、担当教員が学生の学習を深めるために、「学生向け」に自律的に作成しているもので双方の約束事のようなものである。
    確かに著者の主張は分かる。しかしシラバスは、数ある教育改革の「小道具」のひとつにすぎず、それら「小道具」間の密接な連携があってこそ、教育改革の「実質化」に繋がるものである。つまり問題は、シラバスフォームの画一化よりも、教育の質を高めるための様々な取り組み(週2~3回の授業回数の確保による教育効果の向上、制度破綻している日本のCAP制、単位制に必要な予習・復習時間の確保など)との連携が図られておらず、そのために十分な教育効果が得られていないがないことにある。この点に触れていないのは残念。
    〇企業の経営手法の導入:大学経営において、企業の経営方法を援用する(本来の意味を正しく理解せず、問題点の洗い出しもせずに、言葉だけ取り入れる)ケースが増えており、これが幼稚な「経営ごっこ」と化し、混乱を助長している。例えば次のような用語である。
    (1) PDCA:本来、工場現場での品質管理・改善の手法として提案された日本発の発想。大学教育という、様々な目標を同時に追求し、さらに非定型的な側面が多い業務とはあまり相性がよくない(p.89, 131)。にもかかわらず、PDCAが2000年頃から、教育行政文書に頻繁に登場するようになった。次の理由から成果は期待できない。
    (a) 公開すること、審査に通ることが目的なので、PとCだけ(大言壮語を美しい図表で飾られ)立派になり、DとAは実質的にこれまでどおり。形式的になりがち。
    (b) Checkに関して、成功か失敗か明確な判断ができない(意見が分かれる)ケースが少なくない。
    (c) 日本の企業(組織)の体質として、次のいずれかに陥る可能性が高い(これが現に高等教育行政と大学の間で生じている)。
    ・投げ式PDCAに陥る可能性(p.133)。
    ・マイクロマネジメントサイクルに陥る可能性(p.136)。
    (2) KPI(Key Performance Indicator):最終的な組織目標を達成するうえで重要な意味を持つ個々の業務の進捗状況を示す「指標」であるにもかかわらず、政策文書では「目標」値となしている誤用が見られる(p.175)。しかし、例えばグローバルという(多くの教育目標と同様)「抽象的」な目標の場合、それを様々な「指標」として数値が示し目標値とすることは、問題ではないと思う。要は、様々なKPIを指標としつつ、大局的な目標を大学関係者が意識しているかどうかの問題なのではないだろうか。
    (3) 選択と集中:人を育てる教育機関の場合、選択と集中の大義名分のもとで、特定の大学のみに、財政補助を限定するのは得策でないし、仮に進めるとしても、人(学生・教員)の流動化の下で進めるべきではないのか。すべての大学が、ミニ東大を目指すことは現実的でないので、各大学内の取り組みの中で、何を切り捨て何を強化するかの判断は必要。その意味では、PDCAと同様、「選択と集中」は万能ではない。何に対して適用するかの判断は、極めて重要である。

    全体を読み終えて抱いた疑問と感想。「文科相自身は実質的なPDCAサイクルを守っているのですか?」「補助金を餌に、KPIの数値だけを無理に釣り上げて、改革が成功したように見せかけていませんか?」「文科省は哲学をもって行政に当たっていますか?」。
    それから感じたことは、「あの頃」から変わらない日本という国の体質ーー「敵(世界の現実)を知らず、己(日本の現実)を知らず」「客観的に情報を集め分析しようとしない姿勢と精神論で(経済的未熟を)カバーできると信じる傲慢さ」「現場の状況・声の軽視(無視)」「勝算(言語、公財政支出の問題)なき戦線拡大(グローバル化・大学院拡大)」「失敗を失敗と認めない上層部(官僚の無謬性)」。。。思わず嘆息。

  • 大学改革の目的は一体何だったのか?大学改革ということそのものが目的になった壮大な国を挙げての「改革ごっこ」の愚かさを著者は怒りを持って吠えている!という感じ。同感するところ多く、痛快な切り口に快哉を覚える。大学改革でシラバス、PDCA,KPI,「選択と集中」、ルーブリックなどの用語があたかも万能の小道具のように文科省が主張し、それを大学に補助金、検査、自己点検などの場面において強要している。しかし、シラバスは米国のものとは似ても似つかぬお仕着せの和製・画一化されたものであるし、PDCAもまた、日本の産業界で導入されたものが、果たして大学に有効なのか、マイナスなのではないかという検証も杜撰!日本の大学の低迷、迷走は正に文科省の誤った方向性にあることを痛感する。これから日本の大学は、そして若者は、未来の日本そのものがどうなるのか?と不安になる。グローバル大学を目指せという文科省の発破の一方で、大学の自由な改革を邪魔する行政という相互の不信感がある限り、有効な改革が出来るとは思えない。しかしこの本に関して言うと怒りのあまり些か筆が進みすぎ、で大部の新書になってしまい、しつこい感じが否めない。

  • いやあおもしろかった。もう大学改革がどうとかこうとかより、いまの会社の状況がそのまま当てはまって、なんかモヤッと思っていたことを言語化していただいてスッキリした感じ。「事なかれ主義」、そしてどうせ言ってもムダだろうという「無力感」。どこにでもあるんだろうなあ。なんか反対意見でも言おうものなら「大人げない」「大人の事情だからしかたない」などなど。それでも立ち向かっていくのだあ、、、と思いつつ、「まあいいか」となってしまう日々。忙しさにかまけてしまううちに「おかしいな」と思ったことをつい忘れてしまう。その繰り返し。それから、もう一つ。とにかくカタカナ言葉やアルファベットの頭文字による略語が多い。PDCA、KPI、エビデンス、コンピテンシーほかにもいっぱいあるけど、本書に何度も登場するこういう言葉、我が社でもたびたび耳にする。「開化先生」的というのか。しかしだ、本書も説明にたくさん登場して、もうEBPMだかPBEMだか何が何だか。シラバスについてもいろいろ思いはあるが、アメリカ式が良いと決めてかかるのも「開化先生」的ではないのか。アメリカの大学がいいとか、フィンランドがいいとか、みんないいとこだけ見て、ちょっとした自分の経験からものを言ってるのではないのか。エビデンス、エビデンスってうるさい!それほんまにそうなん。一部だけちゃうん。などなど、ちょっと興奮して迷走してしまった。でも、ほんと「よくぞここまで言ってくれました」と著者に感謝です。でも、多くの人に読んでもらわないと意味がない。どんどん宣伝したいけど、私のTwitterの能力では、無理やなあ・・・

  • 30年におよぼうとする大学改革の掛け声にもかかわらず、いっこうにその実があがらないようにも見える大学改革について、その実態を批判的な観点から明らかにしている本です。

    シラバスやPDCAサイクルの導入などの実例について検討をおこない、それらが「改革ごっこ」や「経営ごっこ」にすぎないということが、ていねいに説明されています。こうした著者の議論を読み進めていくと、「どっちを向いても茶番」という気持ちになってくるのですが、本書の後半で著者は、オーリン・クラップという社会学者による、社会を舞台に上演されるドラマの登場人物が「英雄」「悪漢」「馬鹿」の三種類に分類されるという説を紹介して、わかりやすい悪役を仕立てあげるドラマ的な大学改革の見かたそのものに反省の目を向けなければならないと論じています。こうした著者の議論にしたがうならば、「どっちを向いても茶番」といったような冷笑的な態度で大学改革の問題点を理解したような見かたに終始していることも、ほんとうの問題点をさぐり大学のあるべきすがたを追求しようとする姿勢とは相反するというべきなのでしょう。

    本書には大学改革のあるべき方向性が具体的に示されているとはいえないのですが、むしろ「あるべき方向性」を性急に求める態度が、わかりやすいドラマ仕立ての改革案を生み出し、よりいっそう大学改革の迷走に拍車をかけることになるのかもしれません。必要なのは、問題をいっきょに解決するような斬新な解決策などではなく、個々の問題に対して個別的な対処をそのつど実行していくようなピースミール的な改良策であり、そのためには著者のように大学のあるべきすがたについて真剣に考えるスタッフが、それぞれの置かれている立場での活動をおこないやすくするようにサポートしていくことが、迂遠であっても正しい大学改革の道筋なのかもしれません。

  • 実に精緻なデータの分析によって、いかに日本の高度教育が「大人の事情(=無理が通れば道理がひっこむ)」によって、さらには大学側の面従腹背によって混迷を極めてきたのかが語られ、本書が正に行なっているEBPM(Evidence-Based Policy Making)、そして過去の失敗から学ぶことの重要性が指摘される。

    過去の失敗から学ぶには公文書の丹念な精査も必要となるわけだが、それが改竄されてしまうのがこの国の力量なわけで、暗い気分となる。

    後書きでは新島襄の言葉が紹介される。

    一国を維持するは、決して二三英雄の力に非す、実に一国を組織する教育あり、智識あり、品行ある人民の力に依らざる可からず、是等の人民は一国の良心とも謂うべき人々なり

    教育なき国に良心は育たないのだろう。

  • 指摘には首肯するところ多いものの、冗長。

  • ボリューム抜群。

    シラバスの形骸化、PDCAサイクルの濫用など、昨今の大学の問題点が書かれている。

  • シラバス、PDCAサイクル、エビデンスなどなど……実のない変化を追い続け、実がないのに結果を求められることのウンザリ感を余すことなく語り尽くした一冊。

    PDCAサイクルまでは面白かったのだけど、何がウンザリってさあ……と止まらず進んでいってしまう所に、段々付いていけなくなった(笑)
    まぁ、PDCAってそんなに強調するほど目新しいことか?と改めて言われると、そうですよね、とはなる。

    責任の所在がハッキリしない、主体性のない人々の集まりが、教育に主体性を求めることの矛盾もね、この情勢の最中で見えてくることからも、ホントそうですよねー、って思う(笑)

    けれど。
    現場では、ウンザリしますわー、では終われないのでしょう。
    先生も、生徒も、それらを軸にした多くの場所や人が、関わっているから。
    決まったことに声を上げていくこともそうだけど、決まったことをどうやっていくかも、併せて考えていかざるを得ないんだろうな。

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著者プロフィール

同志社大学商学部教授,一橋大学名誉教授
東京大学文学部卒業,東北大学大学院文学研究科博士後期課程中退,米国シカゴ大学
Ph. D.(社会学).
専攻は組織社会学,社会調査方法論.
東北大学助手(文学部),茨城大学助教授(人文学部),一橋大学助教授・同教授(商学部)
(2000–01 年プリンストン大学客員研究員,2013年オックスフォード大学ニッサン現代日本
研究所客員研究員)2016年4月より現職.
主な著書にKamikaze Biker(University of Chicago Press, 1991),『現代演劇のフィールド
ワーク』(東京大学出版会,1999 日経・経済図書文化賞受賞,AICT 演劇評論賞),『本を
生み出す力』(共著,新曜社,2011),『組織エスノグラフィー』(共著,有斐閣,2011 経
営行動科学学会優秀研究賞),『社会調査の考え方[上][下]』(東京大学出版会,2015)など.

「2018年 『50年目の「大学解体」 20年後の大学再生』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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