- Amazon.co.jp ・本 (357ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480080165
作品紹介・あらすじ
さまざまな社会の変遷のなかで、現代日本人の「心」のありようや、人と人とのかかわりはどのように変わったのだろうか。思いこみやイリュージョン、主観的な全能感を生きるエネルギーとし、ひたすら自己像に執着し続ける自己愛人間、すなわち我々の心理や性格を、実例をまじえながら明快に論じた精神分析学者の代表的論考。
感想・レビュー・書評
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■自我理想、理想自己。
「自我理想」:社会的道徳的価値規範を取り入れたところで成立。
「理想自己」:自己愛そのもの。自己中心的なパーソナリティ。
※自我理想→理想自己を一度否定したところから生じている。そして、戦前などは「自我理想」の強い人間が多かった。だからこそ、集団幻想に駆られて、日本では天皇崇拝やドイツではナチス崇拝が生じてしまったのであろう。自我理想が強すぎる悪い点はそこであり、良い点は、自らを社会や歴史に残る人間になれるような切磋琢磨できていた点であろう。今は社会性や歴史性から切り離された個人的な領域での安穏のようなものを皆が求めてしまっている。だが、その個人領域においては自らは満たされ続けねばならないのである=裸の自己愛。よって、以下の公式を小此木啓吾は当てはめるのである。
<アイデンティティ>-「自我理想≒集団幻想」=<裸の自己愛>⇒自己愛人間の誕生。
■自己愛人間
小此木は、自己愛人間としてさらに5つのタイプを挙げている。
1.「自己実現型の自己愛人間」:作家や学者、政治家など。強烈すぎる自己愛とそれを満たすための努力と才能によって、自らの自己愛を維持し続けているある意味幸せな部類。
2.「同調形・画一型の自己愛人間」:いわゆる大衆的存在。画一的な理想自己を満たすことで満足。
3.「破綻型の自己愛人間」:1型の自己愛人間が理想自己を実現できずに破綻した部類→登校拒否、家庭内暴力、自殺。
4.「シゾイド人間」:いわゆる精神的なひきこもり。表面的に友達はいても、基本的に自分の領域に閉じこもってしまう。
※とはいえ、現代は画一化を強いられる局面が多いのでシゾイド人間であることによって個性を守れる場合も多い。
5.「はみだし型の自己愛人間」:不良などが含まれる。破綻するほどの強烈な理想自己もないが、システムから落ちこぼれてしまうために、その枠から逃れて恰好をつけている部類。
※小此木はこの5分類を挙げているものの、これが重複している場合も多いだろうし、3→1へと変化、あるいは、その逆もありえるだろう。更には、2と4の複合型も近年は見られるだろうし、5→2なども多いだろう。あくまで類型論=タイプ論は大まかな分類しかできないものである。
■自己愛パーソナリティ
1.「渇望型」:誇大自己と現実の自己とのギャップが大きくて要求水準が非常に高い。
2.「男根型」:非常に傲慢。
3.「他者操縦型」:自己中心的で他人を手段としてしてしまう。
4.「パラノイア型」:純粋な妄想一歩手前。現実検討能力を保持した状態のパラノイア。
■「精神分裂病」
フロイト→病的な自己愛状態への退行。
フェダーン→健康な自己愛の不足。
※フロイトは基本的にマイナス思考的なところがあるよね。
※ジェイコブソンやカーンバーグはこの流れを統合。
■フェダーンとバリント
フェダーン:自我の働き⇒能動態、受動態、再帰態、中間態。
※再帰態=自分で自分を愛する。
中間態=自分が行為することや自分が存在しているといったことにある種の満足=自己愛があるとする捉え方。
バリント:受動態の自己愛⇒受身的対象愛。
※受身的対象愛=親からの愛が満たされないと、a.自己愛に走るb.能動的対象愛に走るかのどちらか、と捉える。
⇒自己愛の源泉をたどるとき、バリントによれば「愛情欲求」へと、フェダーンでは「愛情欲求+自己保存本能」へと還元される。
■愛情欲求+自己保存本能
「自我理想」:欲望の抑制による自己愛の満足→構造化→「自我理想」
「超自我」:自己愛の傷つきを回避するために欲望の断念や放棄→構造化→「超自我」
※つまり、欲望を断念する際のポジティブな動きが自我理想へ、ネガティブな動きが超自我へ?エディプス的な葛藤においても、母親をあきらめる際に、父親を理想的な対象として+に評価する部分が「自我理想」になり、父親を恐怖の対象として-に評価する部分が「超自我」になる、ということだろうか?
※自己愛の発達段階:理想自己→自我理想→アイデンティティ
※超自我も、理想自己の先にあると考えられ、フロイトは自我理想と超自我をそれほど分離して考えていなかったようである。
■誇大自己
1.「現実の自己愛の満足」
2.「理想的な自己」
3.「理想的な対象である父親、母親像」
という、三つの要素から成立。
※カーンバーグ:正常な発達ラインから逸脱。病的な自己愛が構造化→自己愛パーソナリティ。
※コフート:正常な発達のある段階の自己愛に固着→自己愛パーソナリティ。
⇒コフートでは、「自己ー対象」という、自己と対象を一体として捉えてしまうような段階に固着してしまっている、つまり、マーラーのいうところの分離個体化の過程において分離できずに固着してしまったと考えられる。自己ー対象とは、全能な自己、そして全能な自己を満たしてくれる全能な対象=母親とが、未分化である状態。自己愛パーソナリティになってしまうと、出来事を常に自分に都合の良いように解釈してしまう=ポリアンナ。ちなみに幻滅や外傷に際しての、逃避によって自己ー対象に固着、肥大化してしまう。ちなみに、誇大自己とはつまるところ理想自己の肥大化したものと言えるだろう。よって、理想自己の先に、「自我理想」「超自我」が分化してゆかなくなる。
■考察、感想。
結局のところ、「理想自己」→「自我理想・超自我」へと、我々の自我機能は発達してゆかねばならない。自我理想が強靭な自我を、超自我が我々の道徳機能を果たしてくれるわけである。我々の自我はかくありたいという気持ちを原動力とし、超自我はこうしては罰されるという恐怖が底にあるとすれば、欲動をコントロールする際のポジティブな面が自我へ、ネガティブな面が超自我へと発達することは理解できる。とはいえ、そこに至るまでの理想自己が誇大化し、誇大自己となってしまえば、我々は自分に都合の良いことにばかり関心を持ちそれ以外は排除する悪い意味での自己愛人間と化してしまう。自己愛自体は誰もが持ちうるものであり、健康な自己愛へといたれればよいのだが、対象愛のようなものを考慮せずただ自らの自己愛が満たされることだけを追求してしまえばそれは料簡の狭い人間となってしまうことだろう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
小此木啓吾 「自己愛人間」 フロイト的 ナルシズム論
自己愛の定義はわかりやすい。病的な自己愛に陥らないためには 自我理想の回復と誇大自己の抑制と解釈した。
病的な自己愛人間とは「思い込みの中で暮らし、現実と繋がらない所で自信を持つ」ような人間。健康的な自己愛とは 社会の相互性を通して アイデンティティを確立したもの
モラトリアム人間は 現代人に 当てはまる
モラトリアム人間=国家、組織、イデオロギーに 自己を賭ける アイデンティティを持つことを回避し、自己愛を大切にする
現代の日本社会は 自己愛社会
*現代人のモラトリアム化→ 自我理想の喪失→誇大自己の肥大→自己愛人間社会へ
*裸の自己愛=アイデンティティ−自我理想(集団幻想)
*自我理想=社会的、歴史的な意義を持って 自分を全うする
自己愛人間とは
*自己愛が肥大した人間〜自己愛を満たす事が毎日の関心事〜食欲、人との関わりも全てが 自己愛を満たす手段
*主観的で幻想的〜自己像が 自分の思い通りであることが重要
*自己破滅や迫害の脅威から目を背け 負の世界の現実を否認
*人間は 「自分だけは特別」で 永遠なものにつながっている(全能感)を 深層心理の中に持っている
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エゴイスティックな自己愛を肥大化させた現代人の精神と、それを助長する消費社会についての考察です。
著者は、「アイデンティティ」から集団幻想としての「自我理想」を差し引いたとき、「裸の自己愛」が残されるという図式を示しています。アイデンティティとは元来、自己を取り巻く社会との関係のなかで見いだされるはずのものです。そこには、単にエゴイスティックな自己拡張への要求を克服したところに、みずからの理想的なあり方を求めようとする「自我理想」が含まれていなければなりません。ところが、現代人の精神はそうした「自我理想」を欠如させており、剥き出しの自己愛が追求されています。しかも現代の消費社会は、そのような自己愛を追い求める人びとの欲望に答える商品を次々に生み出しており、そのことがますます「自己愛人間」の病理を深めていると著者は主張しています。
文庫版に付加された「補遺」には、フェダーンやコフート、ジェイコブソンといった人びとの考えが紹介され、精神分析学の中での「自己愛」の歴史がごく簡単に解説されており、勉強になりました。 -
自己中心的な、自己愛が強い人の精神構造を丁寧に解説した本。非常に分かりやすく、面白く読みました。人間誰しも自己愛は持っていて、一定の自己愛は生きるに必要であるけれども、自己愛が肥大すると我儘で依存的な自己愛人間になってしまうという。読みながら自分にも当て嵌る部分があり、身につまされました。精神分析の本はこれからも色々読みたいです。
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自己愛人間。小此木啓吾先生の著書。健全な自己愛はとても大切な一方で、自己愛が必要以上に肥大してしまうと自己愛過剰の自己愛人間になってしまう。そんなの自己愛人間の定義や特徴、自己愛人間の精神構造、自己愛人間ができる背景などをわかりやすい言葉で丁寧に解説している良書。
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2016.8.3
現代は理想自己=自分の主観的でパーソナルな欲望を満たそうという人間の性格が社会性格にまでなった自己愛人間の時代である。それは「我らの時代」ではなく、「我の時代」である。そこには戦争の反省によるイデオロギーの換骨奪胎、人工環境による自然や法、他者など私を規制するものへのコントロール幻想、親の子供への甘やかしと自己愛の転移などが理由としてあげられる。この本は、現代は自己愛人間の時代であり、自己愛人間はこのようにして生まれました、という本であり、いかに自己愛人間を脱するべきか、問いう本ではない。むしろ自己愛人間にも幅があり、良い自己愛人間と悪い自己愛人間がいるのであり、自己愛人間=悪、というわけではない。私は自己愛人間である。私は誇大自己を持つ自己愛人間だったが、幻想の崩壊を通してより現実的な理想自己を持つ自己愛人間になった、ということができるだろう。私は何で自己愛人間になったのだろうか。親から甘やかされたわけではなく、むしろ厳しく育てられた。でも小さい頃から外でスポーツで遊ぶよりは自分の中の空想に入って遊んでいる子供ではあった。父親による全能感の去勢は経験していると思うのだが、その後の社会的なつながりを経験することは少なかったということかもしれない。いや、父親に去勢はされても、父親像を内面化することができなかったのかもしれない。そこに残るのは傷ついた自己愛のみである。そこから自我理想に進むのではなく、理想自己の回復の方向に進んでしまった。なまじっか勉強ができたからである。勉強ができ、クラスのみんなにちやほやされることが私の理想自己であった。しかしではその後、ボランティア活動などを始めたことはどうなのだろうか。これは博愛精神への同一化、自我理想と言えるのか、それとも理想自己=人にご奉仕するかっこいい俺、を満たすための手段だったのだろうか。思うのは、自己愛にも領域があり満たせる部分と満たせない部分があるように、理想自己領域と自我理想領域がある、少なくとも理想自己か自我理想かという二元論で人間をタイプ分けできるのではないのではないかということである。ある特定の価値観については自我理想を持ち、他の部分では理想自己を持つ。一方では自分のことしか考えていないのに、他方では自分を殺して自分の信念に生きる、このような姿の方が現実的ではないだろうか。理想自己も自我理想も、自分の持つ理想像の一種である。それは物語とも言える。人は自分の中に、数多くの自己定義、自己物語を持っているのではないだろうか。その物語の応じて、理想自己だったり、自我理想だったりするのではないだろうか。よって自我理想人間になることが自己愛人間を克服したことにはならない。自我理想人間の中にも理想自己、全能感はあるからである。だとすれば、人はとりあえず、一つの自己愛領域、これなら自分の理想自己を満たせるという領域と、一つの自我理想領域、これだけは自分の欲望に関係なく自分ルールとして守る、誇りとしての信念、この二つがあればいのではないだろうか。一つの理想自己=かっこいい私と一つの自我理想=誇れる私、これこそが、フロムが「愛するということ」の中で述べた、母的良心と父的良心の統合ではないだろうか。 -
2015.4.17自己愛に関する名著。自分の中にある自己愛が、こんなにも社会的歴史的な背景を持って日本人に一般化されているとは思わなかった。非常にわかりやすく、自分というものの起源を知ると同時に、社会的な文脈でも知れたのは嬉しい誤算だった。健全な自己愛はあって然るべきものだが、本著を読んだ上で現代的な理想自己による自己愛に対し、ある種の嫌悪感を感じ、古典的自我理想に憧れを感じてしまった。私は自分ではやや肥大化した現代的自己愛を抱えた人間だと思っているので、この自己愛をどうしていくかが今後の課題である。幻想の中で幸せを選ぶか、現実の苦難も真正面から受け止めるか、、、今後の生き方も考えさせられる一冊。
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時代を感じさせない。小此木先生の切り口は実に鋭い。読む人の多くが共感するだろう内容。
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ナルシズムが必ずしも悪だとは限らないが、自分である程度コントロールできるようにならなければならないと改めて感じた。社会問題にも通じていたし、また親の在り方を考えさせられる本だった。
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<memo>
嫉妬:優越欲求
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自己愛の延長
自分が価値ある人間と考える 相手を人間として尊重せず「もの」と考える
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自己価値を維持