ニーチェ全集 3 (ちくま学芸文庫 ニ 1-3)

  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (682ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480080738

作品紹介・あらすじ

「この時代のギリシア人たちはどのように哲学的思索をなしたのか?あの時代の彼らにとって哲学とは何であったのか、われわれにとって哲学は何であり得るか、また一般に哲学はわれわれにとって何ほどかのものであり得るであろうか?」初期ギリシア哲学研究を足場にして、ニーチェが独自の思想を表白した理論的草晃「哲学者の書」をはじめ、『悲劇の誕生』と同時期に属する初期の諸遺稿を収める。

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  • 19世紀ドイツの思想家ニーチェ(1844-1900)の初期遺稿集。『悲劇の誕生』(1872年)と同時期に草されたもので、人間、哲学、真理、文化などに対する批判が主な内容となる。

     Ⅰ 運命と歴史
     Ⅱ 意志の自由と運命
     Ⅲ われわれの教養施設の将来について
     Ⅳ ショーペンハウアー哲学とドイツ文化との関係
     Ⅴ 真理の情熱について
     Ⅵ 哲学者に関する著作のための準備草稿(通称「哲学者の書」)
      三(一) 道徳外の意味における真理と虚偽について
     Ⅶ 「苦境に立つ哲学」をめぐる考察のための諸思想
     Ⅷ 「われら文献学者」をめぐる考察のための諸思想および諸草案

    「道徳外の意味における真理と虚偽について」(1873年)では、短文ながら、人間中心主義に対する批判、真理という観念に対するイデオロギー批判など、ニーチェ思想の中でも素朴な常識を転覆させる最も興味深い議論が展開される。さらに、概念の形成過程の話などは、広く哲学の入門としても読める。

    □ 人間中心主義、真理という観念のイデオロギー性

    世界は端的にそれ自体としてあるのであって、それは人間の都合などお構いなしの、人間側からすれば非人間的なものである。しかし人間は、世界が人間的な意味によって満たされていないことには、自分がこの世界に存在しているという事態に意味が見出せないことには、存在論的不安に襲われてしまい生きていくことができない。

    そこで人間は、世界を認識する過程において、世界を人間化する。つまり、それ自体としては人間とは全く無関係な世界を、認識という営みを通して、人間の都合に適合する形で整序し再構成することで、世界を人間化する。こうして人間は、人間自身を世界の中心に設定して他の存在者を再配置し、その各々に人間中心的な意味を割り当てていくことで、世界を理解しようとする。そもそも、こうした人間化という加工を施したうえでなければ、人間は世界を認識することができない。なぜなら、人間は人間を離れて世界を認識することはできないのであるから。

    「植物にとっては、全世界は植物であり、われわれにとっては、全世界は人間なのである」(p292)。

    「哲学者は真理を求めるのではなく、人間へと変形された世界の姿を求めるのである。すなわち、彼は、自己意識によって世界を理解しようと努めるのである。彼は同化を得ようと努める。換言すれば、何か或ることを擬人的に正しく解釈したとき、彼は満足するのである。ちょうど、占星師が、世界を個々の個人に奉仕しているものと見なすのと同じように、哲学者は、世界を人間と見なすのである」(p320)。

    「[略]、最も誇り高き人間である哲学者でさえも、あらゆる側面から、宇宙の視線が望遠鏡で以て、自分の行動と思索の上へと、注がれているのを眼のあたりにでもしているかのように、思い込んでいるのである」(p346)。

    そして人間は、自分の世界認識が人間中心主義という恣意的な構築物であるという事実を忘却することで、というよりも寧ろそれを自然化してしまうことで、あたかもその認識が透明で純粋で客観的で普遍的なものであると錯覚する。こうして発生した真理の観念は、人間が世界に押しつけた自己都合を隠蔽し、以て自らの普遍性を僭称するという意味で、虚偽意識=イデオロギーに過ぎない。真理とは、どこまでも人間の都合によって改竄された世界の姿なのであり、人間という特定の存在者の利害に従属する政治的な産物である。人間を超越した真理なるものが、人間の外部に、人間とは無関係に、存在するわけではない。

    「[略]、私は思うのだが、それ[自分で哺乳動物の定義を行い、それに基づいて駱駝が哺乳動物であると説明することに含まれる真理]は完全に擬人的なものであって、人間を度外視して本当に普遍妥当的に「真理それ自体」であるようなものは、そのほんの一点をも含んではいないのである。このような真理を尋ねる探究者は、根本的に、ただ、世界の人間への変形を探しているにすぎないのであって、彼は、世界を、何か人間的様式における事物として理解することに努力しているのであり、どんなに健闘してもせいぜい、同化の感情を獲得するにすぎないのである。かつて占星師が、星辰を、人間に奉仕するもの、人間の幸福と苦悩に関連するものと見なしたのと同じように、このような探究者は、全世界をば、人間に結びついたものとして、人間という根源的な音響の無限に砕けた反響として、人間という一根源的形象の幾重にも多様化された模写として、考察しているのである。彼の方法は、人間を尺度としてあらゆる事物にあてがうということである。しかし、その際、彼は、事物を直接的に純粋なる客観として自分の前にもっていると信ずる誤謬から、出発しているのである。それ故に彼は、根源的な直観の隠喩を隠喩として忘れ、それを事物そのものとして受け取っているわけである」(p357ー358)。

    「それでは、真理とは、何なのであろうか? それは、隠喩、換喩、擬人観などの動的な一群であり、要するに人間的諸関係の総体であって、それが、私的、修辞的に高揚され、転用され、飾られ、そして永い間の使用の後に、一民族にとって、確固たる、規準的な、拘束力のあるものと思われるに到ったところのものである。真理とは、錯覚なのであって、ただひとがそれの錯覚であることを忘れてしまったような錯覚なのである、それは使い古されて感覚的に力がなくなってしまったような隠喩なのである、それは、肖像が消えてしまってもはや貨幣としてではなく今や金属として見なされるようになってしまったところの貨幣なのである」(p354)。

    このように、ニーチェの遠近法主義からは、人間が人間として生きていくうえで如何ともしがたい人間中心主義が見出され、さらにそこから普遍的真理という観念の背後にある人間中心主義的イデオロギーが暴露されるに到る。ニーチェの遠近法主義は、単なる相対主義の主張ではなくて、より深遠な射程をもったものであった。



    冒頭の寓話における「「世界史」の中の不遜極まりない、しかもでたらめこの上もない、瞬間」(p345)とは、認識能力を備えた人間なるものが世界に発生したという事態を指しているが、それはまた、世界から逸脱した超越論的な自己意識なる観念をもった存在が世界に発生したという事態でもある。この、世界をも自己をも対象化する自己意識の超越論的な機制というものが、人間という存在を他の存在者から区別する特権であると、私は漠然と思っているのだが、これに対してニーチェは次のように書いている。

    「「精神」を、脳髄の産物を、超自然的なものとして考察するということ! それどころか、神化さえするということ、なんという愚かしさか!」(p281)。

    これも、単なる自然主義の主張としてではなく、人間中心主義批判の文脈で理解すべきだろう。



    問題は、こうした真理のイデオロギー批判において、当の真理批判の主張それ自体はどのような境位に位置づけられるのか、ということ。真理批判の主張それ自体が真理批判による批判の対象になるというのならば、その真理批判は自己論駁的となるし、真理批判の主張それ自体は真理批判による批判の対象にならないというのならば、それは自分の言明だけを特別扱いして棚上げしていることになりラッセルの型理論のような階層構造が導かれ無限背進に陥ることになる。

    人間の意識を離れて、自己自身を対象化する機制をそれ自体のうちに備えた形式体系を、「超越論的である」として定義してみてはどうか。

  •  
    ── ニーチェ/渡辺 二郎・訳⦅全集 3 哲学者の書 19940401 ちくま学芸文庫⦆
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4480080732
     
    (20231018)

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