ニーチェ全集 14 (ちくま学芸文庫 ニ 1-14)

  • 筑摩書房
4.12
  • (11)
  • (6)
  • (8)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 186
感想 : 8
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (588ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480080844

作品紹介・あらすじ

1888年、ニーチェを精神錯乱が襲う直前に、彼はその悲劇を予感するかのように、精力的に著作活動に従事する。ヴァーグナーとその運動への宣戦布告の書『ヴァーグナーの場合』『ニーチェ対ヴァーグナー』。そして、すべての価値の価値転換の書『偶像の黄昏』『反キリスト者』。キリスト教においては、生を強化するものが悪とされ、弱化するものが善とされる。すなわち、それは、強者に対する弱者のルサンチマンの所産にほかならない。ニーチェ最晩年の激烈の思索。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • キリスト教を初めとした一神教のことだが、神は善悪を超越して、依怙贔屓しないのだとしたら、天使にも悪魔にも同じように接し対するであろうに。絶対善とやらがその時代に常に移ろい身勝手な解釈を為されるならば、それは絶対ではない。
    やっぱり一神教はオレには合わないなぁというところか。一つの何かに絶対服従ということ自体違和感を禁じ得ないし。

  • ん・・・ニーチェは好きな思想家の一人ですが、この時期に読み返す私。何が心で・・・。
    ニーチェがこうして文庫になったときは喜びました。どこでも紐解けると。

    後々に「ニーチェの言葉」だかアンソロジーのようなもの出たようですが(本屋で見た事はあります)俯瞰して自分なりにピックアップしたほうが(要するにオリジナルアンソロジーを作ったほうがと)良いかと思いますよね。
    そこまで深く読みたくないからそういうものを読むのでしょうが、最近は読書が「特別」なこととでも思う人も増えてきたようですし(昔から読まない人は確かにいた)好みの問題ですが。以下、略。

  • キリスト教においては、生を強化するものが悪とされ、弱化するものが善とされる。すなわち、それは、強者に対する弱者のルサンチマンの所産にほかならない。
    ニーチェはキリスト教を否定したが、イエスを否定はしなかった。キリスト教をつくったのはイエスではなくてパウロだからだ。

  •  
    ── ニーチェ/原 佑・訳⦅全集14 偶像の黄昏・反キリスト者 19940301 ちくま学芸文庫⦆
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4480080848
     
    (20231018)

  • 新たな発見が色々ありとても楽しめた。
    カント、ルソー、プラトン嫌いのニーチェ。
    ニーチェの哲学を理解するのは根気が必要。
    この本読んで思ったけど想像以上に深いなニーチェ沼。

  • 『偶像の黄昏』『反キリスト者』『ヴァーグナーの場合』『ニーチェ対ヴァーグナー』、付録としてキリスト教に関する初期遺稿断片などが収録されています。
    このうち『反キリスト者』は、ニーチェが1982年ごろから計画していた理論的主著を現すもので、はじめは「力への意思」後に<すべての価値の価値転換>として計画された4つの主著のうちの一つです。そのため『反キリスト者』では苛烈な言葉でキリスト教的価値判断が批判されています。だがそれは何か激怒したり激昂しながらのものではなく、ニーチェはいたって冷静です。冷徹な目でニーチェ以前には逆立ちしていたものを見通します。まるでニーチェ自身が氷となり、僧侶の腕を掴んでいつかのよう。理論的主著の計画がニーチェの病気もありこの一書で終わってしまったことが残念でなりません。
    ニーチェの哲学は広大な論戦範囲なためと、<すべての価値の価値転換の試み>という近代性への抵抗と訓育と創造が開始されたものであるため、その分レビューもいささか棘のある文章にならざるをえませんでした。「キリスト教的価値判断」に共感を覚えている方は、このレビューを読まないことをお勧めします。本書も興味本位で読むべきではないでしょう。
    ただそうでないなら、キリスト教の発生に対する力と、その力が普遍的であることを見抜くニーチェ独自の光学による論の展開は非常に興味深いと思います。

    ■『偶像の黄昏』『反キリスト者』

    「この書物はごく少数の人たちのものである」(『反キリスト者』もしくは「全ての価値の価値転換」の序言)

    ニーチェは、真理・神・理想の背後に何がいるのか、誰が真理・神・理想に価値を与えているのか、またそれは何を望んでのことなのか、権力にも道徳にも、深く浸透している「力」が何なのか識別することが出来た哲学者です。仮面をつけて演じている役者を突き抜けて発見する技術を持っていた哲学者。タランチュラ(毒で躍らせる伝説的なクモ)に踊らされない哲学者(大抵平等といわれるとすぐ踊らされ蓄群を形成する)『ツァラトゥストラかく語りき』
    結論からいうとその力とは「反動的な力」であり、これが人間の歴史を形作って来たという。いや人間の歴史そのものと言ってもいい、ルサンチマンが常に高貴なもの(生の上昇運動、出来のよさ、権力、美、自己肯定)に復讐を企て価値を貶めていった。こうした者たちが高貴なものに復讐する手段としては、高貴な価値あるものを「否定するしかなかった」『道徳の系譜』。獅子に勝つために自分が強くなるのではなく、獅子を病気にする。

    この否定をつきつめていくとニヒリズムになり、この現象は歴史の中にたまたま起こったのではなく、世界の歴史そのものがニヒリズムといえる。

    『偶像の黄昏』と『反キリスト者』でキリスト教の僧侶がいかにして真理・神・理想に価値を与え、またそれが何を望んでのことなのかが述べられています。

    「キリスト教的価値判断こそ、あらゆる革命をただただ流血と犯行にひるがえすそのものなのである!キリスト教は、高所をもっているものに対するすべての地をはうものの蜂起である。すなわち、「低劣なる者」の福音は低劣ならしめる…」

    そしてこの「キリスト教的価値判断」は何もキリスト教だけに当て嵌まるものではないと気付きます。『偶像の黄昏』の「或る反時代的人間の遊撃 48番」における「血なまぐさい茶番」と一蹴するフランス革命への醒めた目つき、ルソーに対する痛烈な批判をご覧下さい。

    「平等の教えは正義について説いたかにみえるが、それは正義の終末である」

    平等とは、否定を肯定に転換し人間を超える対極にあります。全員が平等な世界、争いのない世界と聞こえはいいですが、それってつまり何も新しいものを生み出せない世界ということです。誰かが何かを作ったらその時点で平等ではなくなる。差がついてしまう。その人だけの作品、その人独自の美についての考えを持っているから。

    「この美学(「利害関係のない直観」という美学)のもとで現在、芸術が去勢されようとしている」『善悪の悲願』

    「スタンダールはかつて美のことを、「幸福の約束」と呼んだのだった。こちらの定義では、カントが美的な状態について提起した唯一の点、すなわち個人的な関心の排除が否定され、払拭されているのである」『道徳の系譜』

    「美は偶然ではない。――人種や家族の美、あらゆる態度にあらわれるその優美さや品のよさもまた、かちとられたものである」『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃 47番」

    平等ということは美も平等になる、平等に分配される美とはなんでしょうか。そんなものあるのでしょうか。そもそも私は美とは何かなんて分かっていませんが、そんな私にも美が与えられるのでしょうか。ニーチェは美とは勝ち取られたものであると言っているのに。
    自分はこれをニヒリズムの極致(一般的に天国とかユートピアとか言われてる)と思っています。創作者の端くれですがこんな世界は納得がいかないですね。
    否定を肯定にし新たな価値を創造せよ、といったニーチェ。我々は真理によって没落しないために芸術を持っていると言ったニーチェが少し分かるようになりました。

    ところでフランスの哲学者ドゥルーズは『ニーチェと哲学』において、ルサンチマン、疚しい良心は人間の人間性を構成し、ニヒリズムは世界の歴史のア・プリオリな概念、と言っています。世界の歴史そのものが反動的でニヒリズムなら、それはつまり今の我々の時代にもそのようなルサンチマンのニヒリズムが現れるということを意味するのではないでしょうか。ニーチェは「キリスト教的価値判断」のことを「道徳的世界秩序」とも言っていますが、現代でも仮面をつけた役者が大げさな身振りを演じており、「道徳的世界秩序」を説いて踊らせようとしていませんでしょうか。

    ・ナザレのイエスについて
    イエスという人は、人間のルサンチマンに気付いていたようです。人間には深淵があり復讐心があると、これを放置してはいけないと思ったようです。
    イエスの福音は、罪や罰、復讐や裁きといったものではありませんでした。復讐なんかよせ、右の頬をぶたれたら左の頬を差し出せ、敵を愛せ等々。
    キリスト者というのは、誰にも立腹せず誰も軽蔑しない、弁護をひきうけることもない、そのまま処刑される。
    イエスの福音は「生の実践」でした。神への道は懺悔や贖罪ではなく、福音的実践のみが神へと導く。つまり最高の状態は生きているうちに達成される、仏教のように。
    イエス後のキリスト教は、最高の状態は生きているうちには達成されない。約束はするが達成されるのは死後です。イエスが教えたのは、人間を救うためとかではなく、いかに生きるべきか示すためにということ、実践こそ彼が残したこと。

    ところが使徒たちが、心の状態を意味していた「天国」を、イエスが比喩で語っていたことを捻じ曲げてしまった。
    「霊魂の不滅」「復活」「彼岸」で、死んでも人格は残るし、本番は生き返ってからの天国なんだ、この世での生なんて仮象、というニヒリズムが。生の実践どころか生が否定されてしまった。
    「最後の審判」で、イエスが克服したはずの復讐と罪が現れてしまう。

    ではなぜこんなことになったのか。
    ルサンチマンによって、人間の深淵によって、イエスは支配権を握っているユダヤ人たち、その最上流階級への反抗、反乱であったと解されてしまった。
    サンチマンを超えようと実践していたイエス、誰も恨まない処刑によってルサンチマンを超える卓越性の模範を示したイエスは、ルサンチマンによって理解されなかったのです。
    イエスの弟子達はイエスの処刑を容赦できなかった。まさにイエスが復讐とか他人を憎むのをもう止めようと言って、その死に様で示したにも関わらず。もし容赦していればルサンチマンを克服した最高の福音だった。

    この一連の流れが世界の歴史の大演劇、ディオニュソスを楽しませる芝居。それは生に害を及ぼす誤謬のうちでのみ、発明的となり天才的となる宗教だから…。

    「人間が復讐心から解放されること、これが私にとって、最高の希望への橋であり、長い風雨の後の虹だからだ」『ツァラトゥストラかく語りき』

    ・聖書について

    ニーチェの光学による聖書解釈
    キリスト教においては生を強化するものが悪とされ、生を弱化するものが善とされたのでした。高貴なものにたいする、弱者のルサンチマンによって。

    しかし逆に言うと、キリスト教や卑小な偽善者が悪と攻撃するものが、攻撃されることでかえって際立たしめられているのです。初代キリスト教徒が口にするあらゆる言葉が虚言ならば、彼らが憎んで攻撃するものこそが価値のあるものだとういうことです。

    ここで「一番最初に転倒させられた女性」の名誉回復が始まります。
    キリスト教会が攻撃していたものが何かというと、善悪を知る実を食べるよう促した原罪の元凶であるイヴ。キリスト教の僧侶によって中世のころには酷い女性蔑視が蔓延していたようです。しかし先の命題を適用するならば、イヴには罪なんてないしそれどころか人間にとって価値ある行為をしたことになる。イヴ(とアダム)が実を食べたおかげで人間は「認識」することが出来るようになった。そして何かものを認識することが科学の大前提です。認識をもぎ取ったイヴは言うなれば科学の母。
    これが不味かった、これが僧侶と神にとって都合が悪すぎた。

    「人間が科学的となれば、僧侶たちも神々もおしまいである!」

    そこで科学は禁じられたもの自体ということになる。科学は最初の罪、全ての罪の萌芽、原罪である。認識を手に入れた人間は神の敵対者となった。思考を巡らす暇が大量にある楽園にいさせてはまずい、そこで楽園追放となる。
    僧侶があらゆる病気を捏造したが、それでも人間の認識は止まらず天に逆巻き、神々の黄昏を告げるがごとくである(バベルの塔)
    そこで神は諸民族を操り戦争を起こさせ人間に思考する暇を与えなかったがこれも無駄であった。
    そこで神は人間は科学的となってしまった、手の施しようがない、溺死させようとなる(ノアの洪水)

    人類に加えられる最大の犯罪がおかされた。認識のための前提が破壊されてしまったのです。或る実行の自然的結果がもはや「自然的」ではなく、迷信のうむ概念の幽霊によって、神によって、聖霊によって、霊魂によって、たんに道徳的帰結として、
    報い、罰、として引き起こされると考えられるようになってしまった。

    「「信仰」とは、何が真であるかを知ろうと欲しないことである」

    ニーチェは、キリスト教的運動はある特定の種族の衰退ではなく、その名の通り普遍的なもの(カトリック)だと言います。あらゆる種類のがらくたを集めて、生に敵対し退けられていたものを集める総体的運動。これこそキリスト教でもって権力を握ろうと欲する運動に他ならない。
    この運動は種族の衰退を表現するのではなく、いたるところから互いに押し合いへしあい集まっているデカダンスの諸形態が寄ってたかって形成しあげたもの。この運動が普遍的なものであるなら、先に述べたように我々の時代にもこのような運動がどこかで起きているということです。

    ・『反キリスト者』56番以降

    ニーチェの言いたいことは分かるけど、これの実現は今ではいっそう難しいと思われます。

    キリスト教には聖なる目的が欠けており、あるのはただ劣悪な目的のみ。つまり生の誹謗、害毒、否定。罪という概念による人間の価値低下と自己汚辱。ここでインドのマヌ法典と聖書を比較し、マヌ法典を聖書と一緒にあげることは精神に対する罪とまで言ってマヌ法典を称賛します。我々の光学ではカーストの何が素晴らしいのかとしか思わないでしょうが、ニーチェの光学は転倒させられたものをもう一度転倒させます。マヌ法典では高貴な価値、完全性の感情、生への然りの断言、生への勝ち誇れる快適感が太陽のように輝いている。「淫行を免れんために、男はその妻をもち、女は夫をもつべし」という否定から入る聖書とは違う。
    マヌ法典のような法典がなにゆえ成立するのかというと、生を託すべき経験が決着したから。収穫物を実験という厭うべき経験の時代から可能な限り豊に完全に持ち帰ることにあります。マヌ流儀に法典を立てることは、民族が名手になること、完全になることを、生の最高技術に野望を抱くことを、その後はその民族に許すということ。
    世襲階級の秩序、最高の法、支配的な法は、第一級の自然の秩序、自然の法則をただ認可したものにすぎない。最上級階級は高貴なるものとして、幸福を善を美を地上に実現する特権を持つ。最も精神的な人間たちにのみ、美を味わうことが許されている。上でも述べましたが、美は勝ち取られたもの「美しきものは少数者のものなり」
    万人に等しく与えられる美があるとしたら、誰も新しい美を創造することができない。誰かが新しい美を創造したら万人が等しくなくなるから。

    高貴なものだけが特権をもっていてチャンダラには何もないのかというとそれがあるのです。その特権が憤懣、醜い手法、ペシミズム。第二位の者も加え恣意的なものはなにもない、作為されたものは何もない。作為することは、自然を辱めること。階序とは、生自身の至高の法則を定式化したものにすぎない。権利とは特権であり、ニーチェは凡庸な者の特権も見くびらない。ピラミッドの高所を目指せば生はますます冷酷となる。霊気は増し責任も増す。ピラミッドを建てるには強固となった地盤がないと建てられない。逆に言うと、固められた凡庸な地盤がなければピラミッドは建てられない。何が劣悪なのか、弱さから、嫉妬から、復讐から由来する全てのもの。ローマ帝国がかつてあったが、これこそ時間のかかる偉大な文化を生むはずだった地盤であり、ローマ人の巨大な業績だった。ただその帝国も一夜にして瓦解してしまった。解体作用、害毒作用、歪曲作用を営む吸血鬼によって。

    古代世界の全事業は徒労であった。ギリシアに、ローマに、学芸文化のすべての前提が、すべての科学的方法がすでに現存していた。偉大な比類ない優秀な読み方の技術。科学の統一のための前提がすでに確立されていた。自然科学は、数学や力学と手を取り合って最もよく軌道に乗っていた。一語をもってすれば実在性として。
    これらが葬り去られたのは自然の事変ではなく、奸智に長けた吸血鬼に辱められた。打ち負かされたのではなく、たんに吸い尽くされたのである。(悪とは辱めることでしょうか?)

    キリスト教のために古代文化の収穫は奪われてしまった。だが、最初で最後の反撃が起こった。生を貶めるものに対する芸術の抵抗が。人類史におけるニヒリズムへの唯一の反旗、それがルネサンス。

    (芸術の心理学。この状態の人間は事物を一変させ、ついには事物が彼の威力を反映するにいたる、――ついには事物が彼の完全性の反射となるにいたる。
    このように完全なものへと一変せざるをえないということが――芸術に他ならない『偶像の黄昏』)
    芸術は新たな価値創造でしか芸術ではない。

    「キリスト教的価値の価値転換、反対の価値に、高貴な価値に勝利をもたらすべく、あらゆる手段で、あらゆる本能で、あらゆる天才でくわだてられた試み」
    「これまで偉大な戦いと言えば、これのみである」

    驚くべき逆説的な一つの光景、法王としてのチェーザレ・ボルジア。かくしてキリスト教が除去されてしまった。

    ところが!ここでニーチェの歎き。ニーチェの光学はまた転倒させられたものを転倒する。とあるドイツ人によって、このキリスト教を転倒させるという巨大事業が刈り取られてしまうのです。
    ルターの憎悪はルネサンスからおのれの営養を引き出すことしか理解しなかった。
    ルターは法王権の頽落を見て取ったが、実はその反対こそしかと捉えるべきだった。
    古い頽廃、原罪、キリスト教は、もはや法王の座に坐してはいなかった。
    そこに坐していたのは、生、そうではなくて生の凱歌、そうではなくて全ての高い、美しい、大胆の事物への偉大な然り!しかしルターは教会を復活せしめた。こうして最初で最後の反抗、ルネサンスも徒労となった。

    全社会秩序を今の所確実に没落せしめている破壊率100%キリスト教のダイナマイト。しかしこれが我々異邦人になんの関わりがあるのか。
    いや関係ないともいえないのです。なぜなら西暦と称し日本でも「この凶日」が開始したことを基にする暦を使用しているから。世界中のほぼ全ての国がニヒリズム歴と知らずに使っているとは。

    「反動的諸力の勝利は、歴史における一つの偶発事ではなく、「世界の歴史」の原理と意味である」(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』)

    ■『ヴァーグナーの場合』

    ニーチェが最も深く携わっていたもの、それはデカダンスの問題。衰退の特徴についての眼識を備えてしまえば、道徳のこの上なく神聖な名称や価値定立の下に何が隠されているのかが分かる。即ち、貧困化した生、終末への意思、大きな疲労。道徳は生を否定する。
    ヴァーグナーもショーペンハウアーも全近代的人間性も含めて、身についた一切の病的なものと敵対すること。ヴァーグナーを通じて近代性はその最も親密な言葉を語っている。
    この「近代性」というのは、キリスト教化された現代文化一般、つまり生を否定し、疲労させ、終末への意思を持った道徳に支配された現代文化。困窮状態を創造することによって己を永遠化する現代文化。生命感情のエネルギーが抑圧され、力が奪われる現代文化。徴候を診断するニーチェはヴァーグナーのうちにこの近代性を見て取ります。

    「ヴァーグナーは近代性を要約している」

    ヴァーグナーの音楽と対象的なビゼーの音楽。ビゼーの音楽は聴衆を知性ある者として、音楽家として遇する。ヴァーグナーはその反対。ニーチェがこの音楽の下に耳を潜ませると、その発生を体験するような気がしてくる。何らかの危険な冒険が始まる、それはもはやビゼーとは関わりがない幸運である。音楽は精神を自由ならしめる、思想に翼を与え、音楽家になればなるほど哲学者になる。

    「抽象の灰色の空は電光によって閃くがごとく走り過ぎ、光は事物の一切の金銀細工を照らしだすに足るほど強く、偉大な諸問題は手に取るほど近くにあり、世界は山頂から見渡すごとく展望のきくものとなる。――私はまさに哲学的パトスを定義したわけである」

    顕微鏡を覗いている様な近視眼的なヴァーグナーとは正反対のツァラトゥストラの眼、人間という全事実を途方もない遠方から見渡す眼。

    ビゼーはニーチェを生産的にしてくれる。すべての優れたものがニーチェを生産的にしてくれる。自然のうちに翻訳してくれた愛。聖母マリアの愛ではない。ヴァーグナーは愛を誤解した。己自身の利益に反して相手の利益を願うから、愛において無我だと思っている。しかしそのかわり、相手を所有しようと願う。神でこそそう。神は愛し返されないと恐るべきものになる(熱愛する神)

    救済されるヴァーグナー
    ヴァーグナーは半生のあいだ革命を信じてきた。この世における一切の禍いはどこから由来するのか?古い契約からである、ヴァーグナーは自問自答した。平たく言えば、習俗、律法、道徳、制度からであり、古い世界、古い社会の基礎になってる一切のものからである。どうしたら禍いがこの世から排除されるか。それは契約に戦いを宣することによってのみ。

    『ニーベルンゲンの指輪』の主人公ジークフリートは、全ての伝承されたもの、すべての畏敬をすべての恐怖を投げ捨てる。古い神々には体当たりを食らわす。彼の主要な企画はブリュンヒルデを救済することにある。自由恋愛のサクラメント、禍悪は除去された。ところが、ヴァーグナーに或る不幸が訪れた。最高の目標を求めたはずが、船が暗礁に乗り上げてしまった。動けなくなった。ヴァーグナーはある反対の世界観で身動きが取れなくなった。
    ヴァーグナーが求めたもの、それはショーペンハウアーがあしざまに形容していた楽観主義だった。いやいや難破したのでよい航海が出来たのだ、ヴァーグナーは逃げ道を作った。彼は『指輪』をショーペンハウアー的なものに翻訳した。何もかも上手くいかず、一切が破滅し、新しい世界は古い世界同様酷いもの。すなわち――「無」が、インドの魔女が手招きしている。
    以前の意図からすれば、世間の希望を、一切がよくなるという社会主義的ユートピアに繋がせながら、自由恋愛を讃える歌をうたって別れを告げるはずだったブリュンヒルデは、ショーペンハウアーを研究しなければいけなくなった。彼女は『意思と表象としての世界』の第4書を韻文に移さなければならない。かくして「ヴァーグナーは救済された」。これこそ一つの救済であった。

    デカダンスの芸術家が現れた。この言葉と共にニーチェの真剣さが始まる。ヴァーグナーは音楽を病気にしてしまった。だけど誰も抵抗することができない、ヴァーグナーの誘惑の力は途方もなく高まっている。ヴァーグナーを雲の上に祭り上げると、人は自敬の念を抱く。なぜなら彼に抵抗しないということ、これ自身がデカダンスの徴候だから。本能が弱まっている。なおいっそう急速に奈落へと駆り立てるものを唇にあてる。憔悴した者を有害な者がおびき寄せる。この全身発病、神経衰弱的装置のこの末期性と過敏性にもまして近代的なものは何一つ無いというその理由で、ヴァーグナーはえり抜きの近代的芸術家である。残忍なもの、技巧的なもの、無邪気なものという憔悴した者の三大刺激剤が最も誘惑的な形で混ざり合っている。ヴァーグナーは催眠術の天才であり、最強の者を牡牛のように投げ飛ばす。

    芸術の頽落、芸術家の頽落。芸術家は今や俳優となり、その芸術はますます虚言の才能として発達していく。ではヴァーグナーは穴だらけの失敗した矛盾だらけの天才だったのだろうか。否、ヴァーグナーは何か完全なものであり、典型的デカダンである。生理学的不都合が、実践や手続きとして、原理における革新として、趣味の危機として、一歩一歩と歩を進めるその論理である。何でもって文学的デカダンは特徴づけられるのか。生命がもはや全体のうちに宿っていないということである。いつでもアトムの無政府状態、意思の分散、道徳的に言えば個人の自由、政治的理論に拡張すれば万人の平等。生命が、この上なく小さな形態のうちへと推し戻されてしまっている。全体はもはや総じて生命を持たない。すなわち全体は、合成されたもの、合算されたもの、人為的なものであり、一個の人工物である。
    ヴァーグナーはこの点では、最小の空間のうちへ無限の意味と甘美さを押し込める現代最大の音楽の細密画家であり、第一級の巨匠である。

    そもそもヴァーグナーは音楽家であったのか?彼はそれ以上の何か別のものであった。すなわち比類のない道化師、最大の身振り狂言師、最も驚くべき劇場の天才、すぐれて現代の舞台芸術家であった。ヴァーグナーは本能からの音楽家ではなかった。この場合音楽は事情によっては音楽であることを要せず、演劇術の奴婢であることを要する。ヴァーグナーは解体していわば要素的となった音楽をもってしてすら、いかなる魔術がなされうるかを発見した。要素的なもので十分。音響、動き、色彩、要するに音楽の官能性で。彼は効果を欲し、効果意外の何ものも欲しない。彼は何に効果を及ぼすべきかも見抜いている。俳優は、真としての効果を上げるものは、真であってはならない、という洞察の点で他の人に勝っている。戯曲家がその全力をそそぐのは、葛藤に、また解決にも必然性を与え、その結果この両者が唯一の仕方でのみ可能となり、この両者が自由という印象をおこさせることにおいてである。
    ところがそうした事に置いては、ヴァーグナーは血の汗をしぼることが最も少ない。彼は戯曲にたえるだけ十分心理学者ではなかった。心理学的な動機付けを本能的に回避した。つねに特異体質をそれに代えることによって。すこぶる近代的、すこぶるデカダン。

    ヴァーグナーの繰り返していた命題「私の音楽はたんに音楽だけを意味するのではない!」いかなる音楽家も言わない。全体から創作することのできなかったヴァーグナーは、継ぎ接ぎ細工を作らざるを得なかった。彼にとって音楽は常に一つの手段にすぎなかった。ヴァーグナーは、曖昧で不確実、予感に満ちた或るものを察知し両手で捉えた、つまり「理念」を。ヘーゲルの趣味を会得した。ヴァーグナーはそれをたんに音楽へと応用したにすぎない。彼は「その意味するところは無限である」様式を発明した。ヘーゲルの遺産相続人、理念としての音楽。ヴァーグナーが青年達を征服した手段は音楽ではなく、それは理念である。彼の音楽の謎に満ちたもの、何百という象徴の間へ姿を消すそのかくれんぼう、理想の多彩さ。これらドイツの青年達がどうしてヴァーグナーに欠けているものに気付くことがあろうか。すなわち、悦ばしき知識、軽やかな足、機知、熱火、優雅、大いなる論理、星の舞踏、気力溢れる精神性、南方の光のわななき、滑らかな海、完全性に。

    大きな成功、大衆に迎えられる成功はもはや真正な人々の側にはなく、そうして成功をおさめるためには、人は俳優でなければならない。ヴァーグナーの理想が、デカダンスの理想が求められるような、何もかも犠牲にした表情の豊かさは、天賦の才とは不調和である。そのために必要なのはたんに徳にすぎない。調教、自動運動、自己否認にすぎない。ヴァーグナーの舞台が必要とするのは、ゲルマン人、つまり服従と長い足。

    音楽は虚言の術となってはならない。

    バイロイトは大々的な歌劇であるが、決して優れた歌劇ではない。劇場は趣味の事柄における民衆崇拝の一形式である。劇場は一つの大衆蜂起である。優れた趣味に反抗する一つの人民投票である。このことをヴァーグナーの場合がまさに証明している。
    かくしてヴァーグナーは大規模な誘惑者である。彼が理想という光のヴェールのうちに隠しているものは、最も黒々とした蒙昧主義。あらゆるニヒリズム的な本能にへつらい、この本能を音楽へと変装させる。彼はあらゆるキリスト教精神に、デカダンスのあらゆる宗教的表現形式にへつらう。

    結局ヴァーグナーは反時代的な人間として非民衆的であるどころか、その芸術は選り抜きの大衆芸術であった。音楽家ですらない俳優だった。だから彼は大衆の興奮を求め煽動する「効果」だけを欲する。だが、芸術の問題において、大衆の喧騒と感激とに何の関係があるだろう。優れた音楽は決して公衆をもってはいない、だからそれは公然たるものではなく、最も選り抜きの者に属す。

    美しきものとは少数者のものなり『「ヴァーグナーの場合」のための最初の覚書』

    ニーチェが俳優を、この典型的に芸術家風のものを、あらゆる芸術の根底において暴露し再認するためには、ヴァーグナーとの接触は必要であった。

    ■まとめ
    ニーチェはヴァーグナーの背後に、ヴァーグーナーの芸術において発現した近代的デカダンスの背後に、キリスト教を見抜いた。そしてキリスト教こそ呪いだと言う。キリスト教は、最も強く最も高貴な魂の持ち主たちをも破砕することを欲している。
    この点の論難を決して止めてはいけないと。ニーチェはパスカルを愛する。それは身体的に、次いで心理的に、ゆるやかに虐殺された、キリスト教の最も啓発的な犠牲として。

  • 2009.07.24

全8件中 1 - 8件を表示

フリードリッヒ・ニーチェの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×