知の構築とその呪縛 (ちくま学芸文庫 オ 7-1)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (252ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480081407

作品紹介・あらすじ

16世紀に始まった科学革命は、世界を数量的に表現しようとする考え方をもたらした。けれども、それによって「心」に帰属するものが排除され、自然と人間の分離、主観と客観の対立が生じることになった。常識が科学へ展開していく不可逆的な過程で、何が生じたのだろうか。近代以降の科学史的事実を精査し、人間と自然との一体性を回復する方途をさぐる。

感想・レビュー・書評

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  • 大森作品としては、異例の「注の多さ」らしい。大森は基本的に独自の哲学観を築いてきているので、普段は注などいらないらしいがこれは例外なのだそうだ。とはいえ、終章に迫るにつれて、注が減っていったことから、独自の哲学にはやはり注は必要ないということなのだろう。

    本著で、強調されているのは、「略画的描写」から「密画的描写」である。略画的描写はいうなれば大雑把な描写である。雷が落ちるのは、天が怒り狂っているからである、といった具合である。非常に大雑把なのだが、しかしここでは、天が生きているものとして描写される。だから、活物(生きている)のである。しかし、原子構造なんかまで分析する密画的描写は物を殺してしまっている、ということに大森は待ったをかける。実はこれは殺してはいない。例えば、顕微鏡で細菌を見ればうようようごめいている。略画的といくらか性質が異なろうが、やはりこれも生きている。とすれば、何が、物を殺してしまっているのか?それは、原子構造しかないと言い切ってしまうことである。言い換えれば、略画的描写を排してしまうことでもあるし、物を「形と大きさ、重さ」だけを持った「もの」として死物然と描いてしまうからである。色や匂いなどは、人間の主観が感じるものであるとして物から「表情」を取り去ってしまっているのである。いうなれば、デカルトガリレイによる「心身二元論」こそが巨悪の根源なのである。実は分ける必要などないのだ。全てを、物がもっているのである。というよりも、全てが客観なのである。ラディカルに言えば全てが主観とも言えるが、これは誤解を含むであろう。例えば、ある絵を見て、その絵を、「グロテスク」「まがまがしい」「美しい」「素朴だ」という印象を四人の人が受けたとする。それは、実は主観的な印象ではなくて、最初からその絵がそういった性質を持ちえていたのである。つまり、客観である。逆を言えば、だからこそ、誰もがグロテスクと感じるような絵で、素朴だと感じても恥じる必要などない。なぜなら、絵はそういう性質も持ち合わせていたからだ。これが大森論法である。とはいえ、大森は警告もする。我々は、「経験的常識」をもって生きているのであるから、それを「疑う人は阿呆」である、と。まあ、このあたりは耳が痛いけれども、科学哲学的な感性を持っている哲学者はみな、常識まで疑うなんて馬鹿らしいと笑ってしまうのである。まあ、彼らが散々疑った末に、それを意味のないことだ=ナンセンスだというヴィトゲンシュタインの境地に到達してしまっているからなのだろうけれどもね。けど、この観点から言えば、言葉だって広く知られている以外の性質をあらかじめ持っていることになるのだから、自分がみんなと違う意味合いでその言葉を使っているとしても問題ないのである。ただ自分の使い方が絶対的であり、大衆的な使い方をする大衆を阿呆だと見下すことに問題があるだけなのだろう。で、大森のオリジナリティはやはり、密画的描写も必要であると考える点である。略画的→密画的に進むのは自然な流れであるし、より世界がそれによって精しく理解される。ただし、密画にこだわりすぎて、あれこれを排してしまってはいけないのである。そうすると没個性な世界になる。だから、大森からすれば、ものを数字で表すことだって決して没個性ではない。ただ、それが没個性に感じられるならば、数字で表されうる性質自体がつまらないものなのであろう。確かに、子供が百五十人います、とか言われたら面白いよね。彼女が千人います、とかね。で、感動とか、美しいとかは数では表現できないじゃないか?という反論があるだろうけれども、それにしたって、そもそも感動とか美しいとかっていうのは、なんとも漠然とした言葉でしか表現できないじゃないか、と。細密に描写などではできず、できるのは、比喩などを用いるくらいではないか、と。それはそれでいいのだけれども、それは細密な描写とは違うだろう、と大森は言うのである。

  • 日本、中国、西洋、あらゆる思想の位置づけがされてあって
    最後に筆者の主張があって
    正しいとかどうとかは別にして、これが哲学か!と思った。
    思想の拾い集めではなく今までの思想を深く理解した上で打ち立てられる主張。

    最後の知覚因果説のくだりが面白くて一気に読んでしまいました。
    略画→密画


    この本の思い出:
    ・倫理の先生に「何故こんな本を……!」と言われた
    ・隣の席の子に「何読んでるん?」って聞かれて
    「あ…えっと、多分知らんと思う…倫理の…」
    「あ、勉強してたん?普通の小説でも読んでるんかと思った」
    苦笑。

  • -2002年11月―

  • 請求記号:113-OMO
    https://opac.iuhw.ac.jp/Akasaka/opac/Holding_list?rgtn=2M020280

    <鹿島晴雄先生コメント>
    「心」と「科学」を考えるにはとてもよい本です。少し難しいかもしれませんが、わかりやすく書かれているので、じっくり読んでほしいと思います。

    <BOOKデータ>
    16世紀に始まった科学革命は、世界を数量的に表現しようとする考え方をもたらした。けれども、それによって「心」に帰属するものが排除され、自然と人間の分離、主観と客観の対立が生じることになった。常識が科学へ展開していく不可逆的な過程で、何が生じたのだろうか。近代以降の科学史的事実を精査し、人間と自然との一体性を回復する方途をさぐる。

  • 講義を元にしているからだろうか、哲学書としては非常に読みやすかった。
    略画的世界観から密画的世界観へと絶えず突き進んでいく人間を止めることはできないものの、あらゆる物を死物化させる必要は無かったということをデカルト等の批判を通じて論じていく大森先生の語り口は自分の考えを切り開いていく力強さに溢れているように感じられた。
    「重ね書き」というやり方が本当に死物化に対する再活物化の方法としてどれほど有効なのかはわからないが、岡潔の語っていた「情緒のある数学」のあり方と通ずる知識観が哲学の言葉で語られているようにみえた

  • 哲学

  • 科学が前傾した時代へ主観の提案。
    二限論を筆頭に歴史と科学の論理的解釈のいざない。

  • 事前に想定していた内容とは全く違い、ガリレイ、デカルトからスタートしている「知覚因果説」の根本的な問題に対する批判とそれを乗り越えるための「人間と自然の連続性・同体性」。

  • 中村桂子先生の本を読んでいて、これは読まないとと思って購入。長いこと本棚の肥やしになっていました。しかし、かっこよく言うと、機が熟すのを待っていたのです。先日、新年の特別番組(100分で名著)で中沢新一さんが鈴木大拙の本を紹介していた。その中で「分別をしない」という話があった。何を分別しないのかもう忘れてしまったけれど、本書とも通じるものがあるのだろうと思う。最後の章で、「ごく当たり前の日常生活の構造そのものの中に主観と客観、世界と意識といった分別がない」と書かれている。たぶん、アマゾンのジャングルに住む賢人がもつ、どの植物にはどんな薬効があるという知識と、化学者がその成分を突き止めて新薬を開発していくような過程と、それらはどちらかが優れていてどちらかが劣っているというのではなく、両立できるものなのだろう。本書には、日本人だからという議論は全くなかったと思うけれど、日本人論に引き付けて考えると、おそらく日本人だから実践できるということがかなりあるような気がする。

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著者プロフィール

1921~1997。岡山県生まれ。東京帝国大学理学部物理学科卒業、海軍技術中尉となる。哲学を学ぶため、戦後に同大学文学部哲学科に再入学。卒業後、数度のアメリカ留学を経て、東京大学教養学部教授、放送大学教授を歴任。時間、自我、知覚などにおいて独自の哲学をうちたて、多くの後進に影響を与えた。

「2021年 『新視覚新論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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