実存からの冒険 (ちくま学芸文庫)

著者 :
  • 筑摩書房
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レビュー : 11
  • Amazon.co.jp ・本 (270ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480082411

感想・レビュー・書評

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  • 2017.6.27
     うーん。私が考えたいことはきっと、竹田さんのような大きな話じゃなくて、こういうもっと実存の問題なんなのだろうなぁと思う。実存の問題を、認識論は実存から始まるという意味で考えるか、個々人が自分なりのよき人生を生きるためという意味で考えるか。
     自分の欲望を了解する。そうねぇ。でも、知るだけで、足りるのだろうか。納得なんて、中々難しい。むしろそれは選ぶことだろう、自己決定の方が大切だろう。納得とは考えて考えて煮詰まった結果、何を切り捨て何を残すかを決めることなのかもしれない。決めて、そういう自分を作っていく。何も決められない、何も捨てられない人間は、ずっと自分が何者か、もしくは一つ一つの選択の際に、どの基準で選ぶべきかを悩む。
     自分というものを知る、作っていく。しかし自分があまりりも固くなれば、それは他者との相互了解の妨げになる。いや、おそらく私を阻害している、私が私なりの基準を作り上げることに対して忌避感情を持っていることの最大の要因は他者との関係における価値観と価値観の違いの問題である。固い人間は、関係に支障をもたらす、だから固くなりたくないのだろう。しかし固くない、形がないということは結局自分が何者かよく分からなくなるということである。それは与えられた基準に対して、いいなりになることを意味する。
     私の他者に対するこの感情をなんとかしなければならない。最近は恐れだけでなく、怒りも生まれてきている。他者関係と、自己関係。うーん。

  • ニーチェとハイデガーの思想の解説と、著者の考える「実存」の立場の内容が、分かりやすいことばで語られています。

    ニーチェについての解説では、孤独に苦しみながらも、自分自身の生き方をもっと豊かなものにしようと進んでいく姿勢が、生き生きとした文章で論じられています。ハイデガーについては、竹田青嗣の『ハイデガー入門』(講談社選書メチエ)などと内容が重なるところが多く、あくまで実存的な立場からハイデガーの哲学を解釈しています。

    読むと元気の出てくるような、哲学の本です。

  • 今の自分を受け入れつつ、やってみたいことに挑戦してみようというやる気がわきました。
    作者が紹介している哲学の本を読んでみたいと思いました。

    志學館大学 : 大根

  • 非常に読みやすい哲学入門の本。
    特に第一章のニーチェ論は著者のニーチェ愛がにじみ出ている。
    私もその気にあてられたか、改めてニーチェを読みたくなった。
    そのニーチェからハイデガー、フッサールと現象学の見直しからポストモダニズムの批判へと至る。
    哲学に興味を持って最初の本に。
    また、現在の主流(ポストモダン)ではないところに目を向けてみるよい機会になる本。

  • 【ニーチェ】「真理批判」「生の肯定」

    「力への意志」p39

    「ルサンチマン」と「畜群本能」p46

    「ニヒリズム」p63

    「超人」と「永遠回帰」p77

    【フッサール】
    「内在」と「超越」p115

    「間主観性」「調和的進行」「志向性」p124

    【ハイデガー】「可能性の了解」

    「可能性とは欲望の通路である」p136

    「用在性」と「客体性」p138

    「世界とは、道具連関の総体であり、さまざまな存在可能性はそこから現存性に指示されている」p149

    「開示性」p149

    「情状性(気分)」p159

    「被投性」p164

    「本来性」と「非本来性」p167

    人間は、死を恐れる存在である、というよりも、むしろ自分の中核をなす存在可能性の死を恐れる存在なのではないか。p187

  • どこかで目にしたニーチェの「人生に意味はない」という言葉に非常に破壊力を感じていつからかニーチェを避けるようになった。心のどこかで奇跡や偶然を信じ、些細な日常の出来事を拡大解釈してこれらが人生にとって意味があるという何らかの啓示だと言わんばかりに妄想しがちな自分としては、そもそも人生に意味がないと言い切ってしまうニーチェは私の妄想を打ち砕く邪魔な存在だった。

    でも、ニーチェにしてみれば一部の言葉を取り上げられ勝手に被害者意識をもたれ責められるなんて寝耳に水だろうし、実際私たちは、結論よりもむしろそこに辿りつくまでに至った経緯や、結論の材料となった周囲を取り巻く様々な要素を分かって欲しいと当たり前に欲求する。時代、地域、国家形態、命、寿命、階級の有無、信仰など、さまざまな要素に個人の体験が加わり生みの苦しみを経て今でも語り継がれているのが哲学だ。一部の言葉だけをとりあげてニーチェの言葉と称し、実はニヒリズムだけを強調した書籍がもてはやされ、ニーチェっていいよね、なんて巷でもてはやされるという事態は異常なのかもしれない。人々の欲求に答えるように曲解され加工されてしまったニーチェの言葉はもはやニーチェのものではないと、まるで叱られるような気持ちにさせられたのがこの本だった。

    著者はニーチェの友人として語る。クラスで周りからいつも距離をつくり休憩時間も一人ぼっちで本を読んでいるような、話せばめんどくさそうな人間として距離を置かれている孤高の人ニーチェに次のように声をかける。

    『君はものすごい孤独だった。だって社会の絶対的真理に対してNOをつきつたのだから。高潔な存在としての僧侶達をルサンチマン扱いして批判してそれは敵を作り想像できないほどの孤独だったろうに。寂しかっただろう。でも僕は知っている。君は皆にもっと強く生きようと言いたかった。もっと明るく喜びを分かち合いながら、ルサンチマンを受け入れながらさらに強く生きたかった。君が絶望するほどの孤独の中、生きることを真剣に考えながら一緒に強く生きる友人が欲しかった。そして必死に書き続けた。超人思想、永劫回帰、色々誤解されがちだけど、これらの言葉は君の必死に生きる姿そのものだ。』

    実はこんなに馴れ馴れしく語りかけてないし、きちんと批判しながらニーチェの思想をまとめているのだけれども、こうやって著者とニーチェが分かち合う光景を勝手に想像し、友人として寄り添う著者の想いに私は感動してしまったのだ。

    ニーチェはたった一人で孤独を彷徨い考えれば考えるほど孤高の人となってゆくジレンマを抱えていたに違いない。そもそも孤独が哲学へと向かわせるのであり、仲間に囲まれ不安も悩みもなければ暗い森へ迷いこむこともない。だけど裏を返せば孤独の寂しさを何とかしたいという欲求が人一倍あって他者を心の底から求めていたのだろう。やってることと、心の奥底に沈殿している欲求がアンバランスで非常に不器用な人たちなのだと思うのだが、著者のような存在が哲学者の言葉を解釈し時には批判し、ニーチェもハイデガーもイイとこ盗りして今という時代にフィットした新しい哲学を考えようじゃないか、という姿勢が哲学として正しいと思う。本当は各々が先人の著作を読み解き自分が噛み砕いて新しいものを生み出せればいいのだけれど、それは結構な忍耐力がいるのでこのような本はありがたい。

    ハイデガーのいう、”投企”についてちょっと考えた。投企とは、可能性の到来という意味らしいが、中学の頃、毎日全て可能性に満ちていて自己発見があって今思うとあれが思春期というものだったのかと今更気づくのだが、あれはほんとに可能性の連続、投企であったと思う。投企は到来するもので自ら掴みにいくことはできないとのことだが、では待ってるだけではなく到来しやすくするためにはどうしたらよいか。これは自論だけど、もし今の自分があふれるような可能性を受け取るのであれば、イマジネーションを豊かにして常に可能性として受けとれる人間である必要もあるのではと考えた。例えば"French Connection"が相当面白かったのでGene Hackmanの他作品”Conversation”も見てみようと思う、つまりいずれ”Conversationを観る”という存在可能性は、結局自分の感受性が呼び込んだ結果である。そして爽快なアクション映画がきっかけとなり盗聴による社会問題、精神の崩壊というシリアスなテーマが自分に投げ込まれ、今度は同じテーマの他作品を見てみたいと思う。これが可能性の連続であり、それは何かに感動する、社会に対して批判する、問題意識をもつ、これらは常に自分の想像力や感受性の豊かさが大きく作用しているはずだ。若いときは欲しなくとも可能性の連続が到来してきたが、年齢を重ねるにつれて段階的に想像力が失われ物事を新鮮に受け取る自分にがっかりすることもある。けれども想像力はより多くの物事に能動的にかかわり、他者と共有することで養われるはずだ。

    著者、ニーチェ、ハイデガー、フッサールが登場、特別出演としてちょこっとヘーゲルも顔を出すが、全ては著者が彼らを語ったもの、どれがニーチェで、ハイデガーで、そして著者の考えなのか、想像以上に混乱を極める。何回読み直しても理解できず、5回目くらいにペンであちこちを括弧ってようやく8割理解したという想像以上の混乱っぷりだった。難しい言葉が混乱を招くのではなく、逆に分かりやすく明快な文体で気持ちよく受身で読んでしまうからだと思う。

    P.250には著者が考えた『実存からの冒険』の方法がまとめられており、これを立ち読みで済ませてしまえばいいじゃないかという誘惑にかられるが、これだとニーチェの件と同じく曲解する恐れがある。著者がニーチェ、ハイデガーの思想をそれぞれ良いところと欠点を考察し、最後に二つを比較する、そして社会に対するルサンチマンも許されないこの世の中、私たち一人一人が抱える孤独感、不全感、これらにどう向き合うかという『実存からの冒険』の方法を初めて理解できる仕組みになっているし、さらに読者が自身の考えや批判を付け加え新たな哲学を生みだしてやろうじゃないかという積極性に駆られる。とにかく読後は結構勇気づけられて何となく爽やかでやる気になるのが不思議だ。しかもこの本の中では自己了解せざるを得ない箇所が多発する、つまりエロスの連続がまるでさざなみが押し寄せるがごとくやってくる。

    自分の欲望を認め、自己を了解し、他者と相互に了解し合う。映画や本やアート全般や社会問題、個人が抱く漠然とした不安、これらを臆することなく他者と共有しあう。自己了解が新たな存在可能性をもたらす、その連続がエロスだという。いつかは分からないけど、嗚呼人生には意味があったんだなあとしみじみ思うのかもしれない。”人生の意味”は結果であって探しにいくものではないという解釈を思いついたら、どこかで聞いたことのある幸福の定義と同じことに気づいた。

    人間は時々意味がないと不安になるけれど、不安さえ感じる余裕もないほどに、ひたすら感じて行動してまた感じてを繰り返しながら今この瞬間を生きてみてもいいのではないかと思う。

  • ニーチェ入門として横山雅彦氏推薦

  •  ちくま学芸文庫版は、1995年刊行。
     1989年に毎日新聞社から、「知における冒険」シリーズの1冊として刊行された単行本の、文庫化。

  • 2005

  • 「実存」という言葉がキライで、「冒険」という言葉にも辟易していて、ずーっと読まなかった(読めなかった)一冊(笑)。哲学は、あくまで<私>のための学であっていい、と個人的には思える。だから、必要な人が、必要な時に読めばいいなーと。それでも、こーいう入り口があることは、生きる技術の一環を知っておく、という意味で悪くないと思う。お勉強としてではなく、自己について、他者関係について、あるいは、社会的存在としての人間について、先人がいかに悩みつつ生きていたのか、勇気づけられたり、共感したり、痛い気分にもなる。個人的には、ニーチェを論じた章に、わくわくさせられた。筆者自身の体験を交えつつ、率直で歯切れのよい平易な文体もいい。

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著者プロフィール

(にし けん)
1957年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。和光大学現代人間学部教授を経て、現在、東京医科大学教授。哲学者。著書に、『実存からの冒険』『哲学的思考』(ともにちくま学芸文庫)、『ヘーゲル・大人のなりかた』(NHKブックス)、『哲学のモノサシ』(NHK出版)、『完全解読ヘーゲル『精神現象学』』(共著、講談社選書メチエ)などがある。

「2010年 『超解読! はじめてのヘーゲル『精神現象学』』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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