精神疾患とパーソナリティ (ちくま学芸文庫)

  • 筑摩書房
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レビュー : 5
  • Amazon.co.jp ・本 (262ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480083944

作品紹介・あらすじ

精神の医学と身体の医学とは、いかなる関係をとり結ぶべきなのか?精神医学の分野で思想的第一歩を踏み出したフーコーは、この基本的問いを発することから始めている。精神の病理学を疑似科学的な身体の病理学から解放し、患者の"主観性"に彩られた病的宇宙の意味づけを行わねばならない。そして、現存在分析を媒介としつつ、世界における人間の実存そのものを問題にしようとする。しかし、人間を疎外する社会のなかに「精神疾患の患者」を作り出す歴史的条件が備わっているならば、そもそも異常性とは社会と文化に依存することになるのではないか。のちの『狂気の歴史』(1961年)の思索への大転回を内包した幻の処女作(1954年)。

感想・レビュー・書評

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  • 793円購入2011-02-28

  • 同じ筑摩書房のユングを読んでいた時、たまたま紹介文が目に入つたことから。
    どうやら出版の経緯等に紆余曲折があつたやうで、一度書き直したものの、本人はお蔵入りにしてしまつたとのこと。みすず書房からも出版されており、どのやうに編集が成されてゐるかはわからないが、この筑摩書房のものは、最初に書かれたものと、書き直されたものを両方掲載してゐる。加へて、訳者自身の解説も、彼の思考を追ふ上でその事情を詳しく知ることができた。
    精神疾患といふよくわからないものを考へるにあたり、身体と同じ文脈、あるひは心理学と同じ文脈だけで語るのではどうしたつて限界がある。ひとは生きた身体をもつし、目に見えない機能を持ち合はせてゐるからだ。
    そも、「異常」といふ文脈に、「正常」なことばをもつて説明すること自体に大きな逆説を抱へてゐる。真に本当に「狂つてゐる」としたら、それを「語る」ことはできるのか。言語・科学で捉へるといふことは、それ自体、共通言語で捉へるといふ行為に他ならない。真に私的な現象は語れないはずである。ただできるのは、生活といふ文脈の中で外れるか外れないかの差異を感じるだけである。だとするなら、精神疾患とは、ある種の逸脱、文脈からの排除ではないか。それは聖性を持たせてきたことや、収監してきたこれまでの行為に現れてゐる。彼は少しずつそのやうに考へていく。
    おそらく初めは、個人の中で生じてゐる不安や葛藤、神経学的な変化を想定してゐたに違ひない。けれど、考へれば考へるほど、やはりそれだけではない何かを嗅ぎとつたのだらう。
    種類や症候群による体系化が進む一方で、その治療法や疫学については一概にあてはまるとも言へず、そのすべてがわからない。器質の問題、認知の問題、過去の経験の問題と様々なアプローチがとられ、そのどれもが効果を上げることもあればさうでないこともある。彼もそれを重々承知してゐたからこそ、本書を結局捨て置いたのだらう。

  • フーコー、幻の処女作とされる心理、精神病理学書。キルケゴール、ニーチェの系譜上になる哲学的心理学である。
    フロイトからビンスワンガーに流れる臨床の方法も十分に参照されながら、社会・歴史へ開かれる視点と思考は後年の偉業を予感させて魅力たっぷりだ。
    人間はなぜどのように人間の住みにくい社会を作ってきたか。
    この大命題への入り口である。

  • 中山元のフーコー入門なるものを読んだことがあるが、さっぱりな部分が多かった。ただ、フーコーとして残っているのは、やはり、「社会性・歴史性」に狂気や精神疾患を見ているところであろう。つまり、「理性中心主義」によって、「理性」を持っているとする人々によって、除外されたものが「狂気」であり、その狂気の担い手が、「精神疾患者」であるとするといった考えである。これは哲学的な観点を離れ広く一般に受け入れやすく、反精神医学の骨子ともなりつつある考え方であろう。正常とは何か?異常とは何か?といったテーマもここから惹起される。

    だが、本著においてはそれ以前の部分に対しての鋭さが発揮されている。それはロボトミーへの批判から始まる。ロボトミーとは、精神的に不安定な患者の脳(前頭葉)にアイスピックをさすことで情緒を安定させるという手術であるが、これは患者のパーソナリティを殺すことになりはしなかったか?この技法を倫理的に批判することは簡単だが、フーコーは、この技法が生まれるのは、身体病理と精神病理を同一視するという錯覚から生じているという考え方にある、と鋭い分析を加えている。身体も精神も超えて、病理を解決しうる「メタ病理」なるものがあたかも錯覚され、それをロボトミーという身体病理側の治療によって治そうとしているわけであるが、これは明らかにおかしいであろう。ここから、精神病理に対しては、「主観性」が必要だと言う方向へとフーコーは進む。ここから、精神分析に入るわけであるが、いわゆる発達理論や、その発達理論に伴って生じるとされる病理=「退行」への批判である。退行とは確かに画期的であり、この概念自体をフーコーは批判したいわけではないが、退行によってすべてを説明しうるとは到底言えないとフーコーは考える。なぜならば、退行によって大人が幼児に戻ったと考えるのはどう考えてもおかしいはずだからである。つまりとある幼児をAとし、それが成長した大人をA’とする。仮にA’がAに退行したとしても、これはAになっているのではなくて、あくまでA’がAに似た対抗的な症状を呈しているだけに違いないのである。それに退行では病の出発点が特定されない。ここにフロイトの個人史を元にした症例研究が続く。個人史を使うことで今あげた問題は解決されうる。更に、ここから「不安」が病理のキーファクターとなっていることがわかる。ちなみに不安とはハイデガーにおいてのキーワードでもある。ここから、現存在分析になるのだ。つまり、病理としての患者の世界を内的に捉えようとする試みである。間主体性を用いることによって、患者の目を通して、患者の世界を再構築する。それは、フロイトによる解釈とはもはや異なるものであるし、ロジャース的な現象学よりもなお鋭いものである(ロジャースは共感は無理なので共感的理解としているし、共感という言葉自体が患者になる、という部分をあらかじめ排している)。だが、現存在分析の大家ビンスワンガーが、患者の「私秘的世界」から健常者の「共通の世界」へと帰すことを使命としていたのに対して、フーコーはむしろ、この共通の世界自体が「たい落した世界」であるとして、いや、だからこそ患者はこの共通の世界から「逃げる」のだとして、更に分析を加える。ここまでくると、もはや現存在分析の地平すらも突き抜ければならなくなる。なぜならば、現存在分析は患者の地平を捉えることはできても、そこで行き止まりになるからである。そして、フーコーは患者が生まれる素地を求めるために、社会や歴史へと再度移行していくのであるが、実はここに断絶がある。

    なぜ、社会や歴史に精神病理を誕生させる理由があるのか?ここがつかめないのだ。無論、フーコーの言う監獄の歴史やらあれこれは鋭いし、納得もさせられる、それどころか非常に共感すら覚えかける。だが、それにしたって、なぜ、精神病理は歴史的・社会的・文化的なものとして還元されなければならないのか?これがいまいちつかめずここに漠とした気持ち悪さを感じる。だから、個人的にはこの現存在分析を突き抜けた「分析」と、この歴史・社会・文化的な精神疾患誕生の「分析」はまるで別次元のもののように思われるのである。ここがフーコーの限界点なのかな?とは感じる。

  • 簡単に手に入る。フーコーの入門書?文庫なんでね
    ある種の祈祷師のような、精神疾患がその時代、その文化ではあがめられていたわけであったり、違う時代文化では平然と街を歩いていた
    しかし、19世紀20世紀の初頭あたりでは施設に入れて管理するという体制をとっていた。このように、精神疾患者のパーソナリティというのは、その文化や時代などの影響で大きく価値観が変わっているということが見て取れる
    後にこの考え方がいろいろな方向に発展して行くわけで、そのような意味で簡単に読んでみるのは楽しいと思う 安いし
    そんで、フーコー自身かなり精神医学を学んでいたようで、そういう意味でも読んでいて飽きないと思う

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著者プロフィール

1926年フランス・ポワティエ生まれ。高等師範学校で哲学を専攻、ヨーロッパ各国の病院・研究所で精神医学を研究する。1969年よりコレージュ・ド・フランス教授。1984年没。主著に『精神疾患とパーソナリティ』、『狂気の歴史』、『臨床医学の誕生』、『言葉と物』、『知の考古学』、『監視と処罰』、『性の歴史』がある。

「2019年 『マネの絵画』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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