貨幣論 (ちくま学芸文庫)

著者 :
  • 筑摩書房
3.85
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本棚登録 : 494
レビュー : 33
  • Amazon.co.jp ・本 (245ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480084118

作品紹介・あらすじ

資本主義の逆説とは貨幣のなかにある!『資本論』を丹念に読み解き、その価値形態論を徹底化することによって貨幣の本質を抉り出して、「貨幣とは何か」という命題に最終解答を与えようとする。貨幣商品説と貨幣法制説の対立を止揚し、貨幣の謎をめぐってたたかわされてきた悠久千年の争いに明快な決着をつける。

感想・レビュー・書評

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  •  貨幣と哲学。一見無関係のようにも思われる両者だが、決してそうではないことを本書によって思い知らされた。
     貨幣とは何か。その起源がそもそもはっきりしないことを明示した上で、岩井はまず貨幣そのものには価値がないことを確認する。確かに貨幣をいくら貯め込んだところで、使わないことには意味がない。貨幣は使うことによって、すなわち交換することによって初めて価値を付与される。ではなぜ何の価値もないはずの貨幣が交換されるのか? なぜわれわれは何の価値もない貨幣を受け取るのか?
     岩井は答える。われわれが貨幣を受け取るのは、将来それを(商品と引き換えに)受け取ってくれる他者が必ずあらわれるはずだと信じているからだ。すなわち貨幣の根拠は未来への信憑にある。逆に言えば未来への信憑にしかない。しかしその信憑はそれほど絶対的なものだろうか。
     商品には価値があり、貨幣には価値がない。貨幣の価値は、商品と交換できるという限りにおいての、いわばヴァーチャルな価値でしかない。そのことに人々が気づき、貨幣を捨て商品を取るという選択がいっせいになされたならば、すなわち貨幣信仰が崩壊し、貨幣の価値が限りなくゼロに近づいたとき、いかなる事態を招来するだろうか。
     世界的な不景気が叫ばれて久しい。しかしだれもがお金を使おうとしない現状は、貨幣信仰が安泰であること以外の何物でもない。本当にこわいのはその逆のケースなのだと岩井は説く。「貨幣と商品の関係は言語と事物の関係にほぼ等しい」というあとがきも含め、哲学的刺激に満ちた貨幣論の名著である。

  • 1

  • 岩井克人『貨幣論』。マルクスの『資本論』への批評を足掛りにして、貨幣とは何なのかを考察する。貨幣について、またそこから、売買することについて、とても多くの洞察を示唆してくれた。経済の高度な概念はでてこないので、経済ってよくわからないけど、お金について考えてみたいひとに超おすすめ。

    読んでて気になった点として、1)芝居がかった大仰な言い回しが多いのでたまーに鼻につく、2)最初はがっつり『資本論』そのほかマルクスの引用がたくさんでてくるので貨幣の本なのか不安になる、というところか。ぼくは、後半の恐慌論・危機論あたりの理解が甘い気がするので、また読み返したいところ。

  • 北さんからの推薦本。
    推薦されなければ読まなかったはず。
    経済学に全く疎いにも関わらず、意外にも面白い。
    結局、「貨幣とは何か?」の問いの答えは「貨幣とは貨幣として使われるものである」
    「商品」でもなければ、何者かによって恣意的要因でもたらされた「制度」でもない。
    循環論法によって自然発生的に存在したもの。いわゆる「奇蹟」である。

    作者が述べている、貨幣であるための存在規定「未来永劫貨幣として信用される日々」が、覆る日(最後の審判)が訪れて、資本主義の終焉が訪れることはあり得るのだろうか?
    本書が書き上げられてから24年。
    今ではあり得ないことではないきがしてならない。

    それにしても、商品世界に対する貨幣とは、人間世界に対する言語である。
    との考察は非常に面白く、分かりやすい。

  • 1.はじめに 
     貨幣論という書名は実に親切で、きっと貨幣について論じたものであろうことは容易に想像がつく。
     強いて難癖をつけるとして、貨幣というやや畏まった表現だが、言わずもがな要はカネである。
     著者はその「カネの正体とは何ぞや?」という問題を論じた挙句、「いくらカネとは何ぞやと考えたところで何も出てきやしないのだ」という結論に達する。
     そして、そのカネのカネたる所以(つまり、何も出てきやしなかったというオチ)こそは、資本主義にとっての危機とは何であるかを教えてくれる。
     すなわち、資本主義にとっての危機とは、マルクスの言うような恐慌(過剰生産ないし需要不足)ではなくて、レーニンの言うような貨幣の堕落(ハイパー・インフレーション)であると岩井克人は結論づけるのである。
     それはなぜだろうか。むろん著者にはその立証責任があるし、現に本書にてそれを果たそうとしている。

    2.理論家が理論を徹底できなかったワケ。そして、貨幣とは
     著者はマルクスの価値形態論をマルクス以上に徹底させることによって、貨幣が商品世界において決定的な役割を演じていることを論証してみせる。
     ここで一つの疑問が生まれる。
     それは、「なぜマルクスは、価値形態論を著者ほどには徹底させることができなかったのか」という点である。
     その回答は、「もし価値形態論を徹底させてしまったならば(つまり、著者と同様の思考過程を歩んだとすれば)、マルクスは彼の信奉するもう一つの理論、労働価値説を放棄することになりかねなかったから」である。
     マルクスの価値形態論においては、貨幣商品の原材料の採掘に投下された労働時間が貨幣商品の価値量を規定しているという形で、労働価値説が堅持されている(と少なくともマルクス自身は考えている)。
     けれども、岩井克人の貨幣に対する認識においては、労働価値説は棄却されている。
     貨幣とは、人々がそれを貨幣として信ずるがゆえに貨幣なのである、と。

     この貨幣なる代物は、一般的等価物として、商品に交換可能性を与えることにより、商品によって交換可能性を与えられ、また、商品から交換可能性を与えられることにより、商品に交換可能性を与えている。
     貨幣の上のような性質こそは、商品世界すなわち商品の膨大なる集合としての資本主義社会がこの地上に成立することを可能としている。
     また、交換過程論に視点を移せば、商品所有者にとって、貨幣こそは「欲望の二重の一致」を回避するモノであって、これがあるからこそ我々は交換の困難に苦しむことがない。
     (もしあなたが貨幣のない社会において、本一冊を持っていて、靴一足が欲しいという場合、あなたは靴一足を所持しており、かつ本を欲している相手を探しださなければならない。しかし、貨幣のある社会においては、あなたがたとえば10,000円を持っていれば、靴屋は貴方に靴を売ることを渋りはしない)
     貨幣が商品世界に占めている役割は、それが古典派経済学者によって媒介物に過ぎぬと言われたのに比して、あまりに大きいのである。
     
    3.貨幣の崩壊への道
     恐慌というのは、確かに歴史の示すとおり、資本主義にとって試練だった。
     けれども、試練はやはり試練である。
     それに直面することにより、資本主義は弱体化したというよりは、むしろより強靭になっていく(少なくとも、マルクスを理論的基礎に持つ社会主義よりは長生きしているわけだ)。
     なぜか?
     なぜ、マルクスにとって資本主義の危機であったはずの恐慌が、かえって資本主義を強化しているのか。
    それは、恐慌という状態が、商品よりも貨幣を選ぶ状態であり、したがってそれは商品世界を成立させている貨幣に対する信仰告白が蔓延している状態だからである。
     ケインズの表現を借りれば、貨幣には流動性があると言われる。
     この流動性は、「誰でもいつでも受け取ってくれる」という信用があるということであり、
     他の商品にはほとんど認められない貨幣に固有の性質である(これに対して、商品なり製品を人々が実際に購入するためには、それこそ「命がけの跳躍」を必要としているため、その処分は[購入に比して]容易なことではない)。
     それ自体の商品価値をほとんど有しない貨幣に対して(中央銀行が発行する不換紙幣をまともに原価計算してその額面通りの価値を有すると誰が算出できるだろうか)、かような価値を認めるところに、貨幣の貨幣たるゆえん、神秘とか奇跡とか言われるところのモノがある。
     ということは、恐慌において相対的に貨幣(それは商品世界で重要な役割を担っている)が重んじられているということは、それは本当の意味での資本主義社会における危機とは言えないのではないか。

     ということは、である。

     もしその流動性に対する信仰が途絶えたとき、したがって人々が貨幣の流動性を疑ってかかり、貨幣ではなくて個別の商品に逃げ込んだとき、商品世界はどのようになってしまうのだろうか。
     貨幣より商品が選ばれる世界、その窮極的な形として、ハイパー・インフレーションが生じた場合、もはや貨幣を貨幣たらしめる根拠を捨て去ったあとに残るモノは、個別バラバラな商品と、それ自体さして価値を有しないかつて貨幣だったモノ-したがって今やそれはやはり個別バラバラな商品の一つ-である。
     「価値の体系としての商品世界が、たんなるモノの寄せ集めでしかない状態へとひきもどされてしま」い、「『巨大な商品の集まり』としての資本主義社会の解体」を生むという点で、ハイパー・インフレーションは、資本主義社会にとってより本質的な危機なのである。

    4.貨幣形態論
     しかし、私はどうにもこの論に与することができない。
     私は、人々はたとえ貨幣を手放すとしても、流動性までは手放さないのではないかと思う。
     (果たして人々は二重の欲望の一致を要する社会に耐えられるだろうか?)

     貨幣は、時代に応じて、貝殻であったり、君主の刻印が押された鋳貨であったり、あるいは中央銀行の発行する兌換紙幣次いで不換紙幣とその形をかえてきた。
    けれども、そこで共通するのは、いずれの貨幣も流動性の機能を果たしてきたという事実である。
     マルクスにおいて労働価値説という実体に対して価値形態論という現象形態があるように、流動性という実体に対して貨幣という現象形態が変遷し続ける。

     貨幣は人々が貨幣であるとみなすから貨幣であるというのであれば、その物質的素材や名称は理論的には不問のはずである。
     であれば、人々は現行貨幣が著しく減価してそれが商品世界の存立構造を解体する前に、流動性の所在を移転するのが筋合いではないか。
     人々は次なる貨幣を「奇跡」(これは奇跡という呼称に反し、人類史上幾度となく繰り返されてきた)によって生み出すのではないか。
     いや、奇跡という言い回しこそ、岩井が資本主義の不安定性を強調するために用いた表現ではないか。
     なぜならばこの奇跡が実際にどれほど奇跡的であるかについて、あれほど価値形態論をマルクス以上に論理的な形で展開した岩井が、マルクス以上の修辞法すらも(したがって当然ながら、論理的にも)披露できていないのだから。

     また、貨幣価値の減価を防ぐ実際的な方法として、ハイエクの「貨幣発行自由化論」も検討すべき事項ではないか(私はまだ貨幣論集を読んでいる途中だけれども)。
     実際、ビットコインはまさに民間による貨幣発行の典型である。
     もし貨幣発行主体がシニョレッジを貪るため貨幣を多量に発行した場合、貨幣多量発行に伴う貨幣減価が生じ、貨幣利用者としては、他の価値ある貨幣へ乗り換えるというビジョンである。
     これをうけて貨幣発行主体としては、貨幣価値が過度に減価しないように、価値が安定化するように努めるインセンティブがあるという次第である。
     貨幣間競争、これは一国一貨幣というアタリマエに囚われた私たちには盲点である。
     実際、貨幣を中央銀行のみが発行している事態を独占供給と理解する人はあまりいない(銀行券に類似した物を発行すれば通貨偽造罪に問われるということもあってか、現代の社会通念において、別種の貨幣を創造する意欲なり発想を持つことは、たとえ貨幣発行業に参入するために要する費用を無視したとしても、難しいことである)。
     競争原理という資本主義社会におけるアタリマエが貨幣においては十分には機能していないのである。

     資本主義社会が本来的に不安定なものである、とは岩井の主張するところであるが、しかし、資本主義社会は未だその本来的な姿を明らかにしていないのではないか。
     (そして貨幣を巡るこのような見方は、資本主義を純粋な形で炙り出したマルクスにおいても果たして展開されていただろうか)
     シニョレッジ、この君主権力の名残を玉座から引きずり下ろすことが、資本主義に期待された一仕事なのではないかと私は思う。

     歴史上、資本主義が貨幣による試練を受けることはあったが、貨幣が資本主義による試練を受けたことはなく、そしてそれは未来に起こりうる出来事なのである。

  • 繰り返しの中で
    貨幣は死を迎える。
    それは資本主義の死。

    貨幣論の本質は、
    資本主義の危機は
    恐慌ではなく、
    ハイパーインフレーションだということだ。

    マルクスの貨幣論に始まり、
    貨幣について、論じられた本書は
    膨大な繰り返しをあえて使う。
    それは貨幣のあり方に似て。

    貨幣を語ることは、
    現在、唯一の体制である資本主義を語ることで
    貨幣の危機は、資本主義の危機だ。

    単一の価値となりつつある貨幣は
    だからこそ、ハイパーインフレーションによって
    その価値を失う、という危機をもつ。

    貨幣は言語である、という指摘も印象的だった。

  • 『貨幣論』とは、「貨幣とは何か?」という問いをめぐる考察を通じて、「資本主義」にとって何が真の「危機」であるかを明らかにしようとした書物である。日常的な経験の次元では、貨幣を手にする買い手よりも商品を手にする売り手の方が、はるかに不安である。貨幣はだれもが受け取ってくれるのに、商品は特定の用途を持つ人しか受け取ってくれないからである。このことからマルクス以降の大多数の社会経済学者や社会実践家は、すべてのひとびとが同時に商品よりも貨幣を欲してしまう「恐慌」に、資本主義社会の危機を見出してきた。だが、『貨幣論』は、ひとたび視点を貨幣の存立構造全体の水準にまで引き上げれば、結論はまったく逆転してしまうことを示す。すべてのひとびとが貨幣から遁走していく「ハイパー・インフレーション」こそ、貨幣を貨幣とする自己循環論法を崩壊させ、資本主義に本質的な危機をもたらしてしまうのである。

  • 本書の考察は、マルクスの『資本論』における労働価値説と価値形態論との関係をめぐる考察から始められます。著者によれば、マルクスは労働価値を超歴史的な「実体」として理解する一方、超歴史的な価値の「実体」がどのようにして交換価値という「形態」を取るようになるかという問題について考察をおこなっているとされます。この両者の関係には、労働価値説を前提として商品世界の貨幣形態を導く一方で、商品世界のか兵形態を通して労働価値説を実証するという循環論法に陥っているという批判がなされますが、著者はこれを「生きられた循環論法」として捉えることによって、貨幣についてさらに深い洞察を展開しようと試みます。

    貨幣は、みずからの存在根拠をみずからで作り出すという無限の「循環論法」によって、絶え間なく自己を吊り支えていると著者は考えています。こうした観点から、貨幣の外部に、それを基礎づける何らかの根拠を想定する貨幣の起源に関する説を論駁します。たとえば、貨幣商品説は人間の主観的な欲望によって貨幣を根拠づけ、貨幣法制説は高官家庭の外部に存在する人為的な権威によって貨幣を根拠づけます。しかし著者によれば、貨幣はいったんその循環論法が作動し始めてしまえば、その存在に関して実体的な根拠を必要とすることなく流通します。こうして著者は、「貨幣とは何か?」という問いに対して、「貨幣とは貨幣として使われるものである」と答えるほかないと言います。さらに著者は、こうした貨幣の流通が交換可能性を未来へと繰り延べることによって成立しているという議論へと踏み込んでいます。他方で著者は、貨幣の運動が実体的な根拠を持たないということから、ヴィクセルの『利子と物価』における不均衡累積過程に関する議論を参照しつつ、ハイパー・インフレーションのような危機に陥る可能性の存在を論じています。

    なお、本書の「後記」には、本書の貨幣論が後記ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論と対応していることを指摘していますが、この問題をめぐっては、柄谷行人の『マルクスその可能性の中心』や、『内省と遡行』に収められた論文「言語・数・貨幣」で、これと同じ趣意の議論が展開されています。

  • なんだかとっても当たり前のことをわざわざ小難しく言っているだけのような気がする。

    それにしてもマルクス経済学といった学問でもなんでもないものがどうして流行ったのか理解できない。

  • マルクスを主に引用し、貨幣の循環論法を基本線として話しが進められる。恐慌論、危機論ともに貨幣の循環論法に起因している。思想をめぐるというもので確たる結論が用意されてるわけではないが、とても読み応えがある。

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著者プロフィール

岩井 克人(イワイ カツヒト)
国際基督教大学特別招聘教授
1947年生まれ。東京大学経済学部卒業。マサチューセッツ工科大学よりPh.D.取得。エール大学助教授、ペンシルベニア大学客員教授、プリンストン大学客員准教授、東京大学経済学部教授等を経て、現在、国際基督教大学特別招聘教授。主な著書に『不均衡動学の理論』(岩波書店)、『経済学の宇宙』(日本経済新聞出版社)など。

「2019年 『資本主義と倫理 分断社会をこえて』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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