最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)

著者 :
  • 筑摩書房
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本棚登録 : 354
レビュー : 29
  • Amazon.co.jp ・本 (238ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480087096

作品紹介・あらすじ

親鸞の思想は、直弟子たちの聞書きなどに書きとめられた言葉によって、死後はるかな時間をへだててしだいにその巨きな姿をあらわした。非僧非俗の境涯に集約されるその知の放棄の方法はどのようなものだったのか?宗教以外の形態では思想が不可能であった時代に、仏教の信を極限まで解体し、善悪の起源とその了解について思考の涯まで歩んでいった親鸞の姿を、著者は全身的な思想の集注で描ききっている。

感想・レビュー・書評

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  • 筑摩文庫のツイッターより

  • 吉本隆明にしかわからない吉本隆明について考える。
    同じように、親鸞にしかわからない親鸞についても考える。
    で、吉本隆明にしかわからない親鸞というのがどうもいるようで、
    それがこの本の中で語られていて、
    それについてぼくはまだよくわからずにいて、
    またいつか読みなおさなければいけないな、と思う。
    そしてひとつ思うことがあって、じゃあ、無茶をいうけれど、
    きっと親鸞にしかわからない吉本隆明というのもあるのかも、と。
    かれらがとても似ているように思えるのはほんとうなのか、
    それとも吉本隆明が自分自身を親鸞にかさねあわせたからなのか、
    そのあたりはわからない。まだわからない。
    吉本隆明にしか吉本隆明はわからないのだし、
    親鸞にしか親鸞はわからない。
    それでも本は読むのだよなあ。

  • 親鸞が生きた時代がその思考を深めたのだろう。当たり前なのだろうが、改めての解説があったことで、少しだけわかったところだ。しかし、徹底した思想は、いつの時代にも通じる。

  • キリスト教でもイスラム教でも神の絶対性の前の人間の無力さから、教理上人の自由意志というものが常に問題になったが、日本においても親鸞は浄土門の本願他力の思想を突き詰め、ついには善行を積もうとする意思や、信心をもつ意思の無意味さにまで至る。
    「念仏をとりて信じたてまつらんともまた棄てんとも面々の御計らい」とは布教を放棄するような言葉である。吉本隆明はそこに宗教の解体をみている。

  • 親鸞の生涯については今なお不明な点が多く、その思想についても、弟子による聞き書きなどの断片を解釈するほかない。それらの断片を繋ぎ、撚り合せるようにして著者は「最後の親鸞」と表現する思想の体系を浮かび上がらせている。

    絶対的な師であった法然の思想から離れ、野に下り市井の人々の間にいながら「非僧非俗」の生き方を通じて親鸞は、いわゆる「信心」すらも否定するかのような「非知」の考え方によって、いつしか「宗教」という枠組みからも解放され、悪人正機といった一見矛盾を孕むかのような思想を生みつつ、ついには「絶対他力」という"境地"に達する。

    ここから何を学ぶのかというと、非常に難しいのだが、親鸞のアプローチは、もしかすると少し「U理論」に共通することがあるかもしれないと思っている。あるいはもっと単純化すれば、意図と創発、理論と実践とのバランスといった観点でも示唆が得られるかもしれない。決して読み易い文章ではないが、時々読み返したくなる一冊。

  • 【読書メモ】
    親鸞は、非僧、非俗を目指し、現世を否定せず、経文を読まない、宗教人というより哲学者のイメージ。悪人正機

  • [ 内容 ]
    親鸞の思想は、直弟子たちの聞書きなどに書きとめられた言葉によって、死後はるかな時間をへだててしだいにその巨きな姿をあらわした。
    非僧非俗の境涯に集約されるその知の放棄の方法はどのようなものだったのか?宗教以外の形態では思想が不可能であった時代に、仏教の信を極限まで解体し、善悪の起源とその了解について思考の涯まで歩んでいった親鸞の姿を、著者は全身的な思想の集注で描ききっている。

    [ 目次 ]
    最後の親鸞
    和讃―親鸞和讃の特異性
    ある親鸞
    親鸞伝説
    教理上の親鸞
    永遠と現在―親鸞の語録から

    [ 問題提起 ]


    [ 結論 ]


    [ コメント ]


    [ 読了した日 ]

  • とても大事なこと、はっとするようなこと、重く深いことが書かれているのはわかるのですが、読み手の知識と頭が足りずに理解しきれなかった感がしてものすごく自分にがっかりしてしまいました…。もう少し知識をつけて再読してみたいと思っているので、積読扱いで。

  • 浄土真宗という仏教の一宗派の宗祖というよりも、哲学者・思想家としての親鸞の思想の解体を試みている著作。弟子によって遺されている語録をもとに親鸞の思想・思索の経緯をなぞっている。難解な概念が多く、字面を眺めただけでは理解できない部分が多いが、ところどころ興味深い言葉がある。

  • なんか、洋の東西を問わず人の思想って似てるもんなんだな、と思いました。

    それにしても、親鸞はファンキー。

  • この著者が最もこだわる親鸞だから、読んでおきたかった
    宗教も哲学も男性のものだなって、つくずく感じる

  • 2012/07/30-19:47 私には高度過ぎ、また今度

  •  吉本隆明の、親鸞についての文章をまとめた本。章ごとに分かれていて、他の著作でもそうだけれど語ろうとしている像が掴めれば、概ね同じ事を話している。
     幾つかの記事の集まりのせいもあり、最初に中沢さんの解説から入ると全体が掴みやすそう。

     現世、涅槃2つで対立している思想や、解脱、死に向かってしまう思想、などとは一線を画した。
     知、無知や、俗、僧などと言った、対立する仕組みでは絶対他力ではなく、自力の世界にしかならない。非知、非僧と言う考えで、ただ自然のまま念仏を唱える。そういう横超で、内側から宗教そのものを解体する様な考え方をしている。その為、妻や子も持ち、非僧非俗の生涯を送った。
    そうです。

     浅薄に捉えると、お経唱えたら誰でも成仏できるよみたいな宗派に捉えてしまうけれど、只管修行する人なども遥かに超える深みと信心深さと謙虚さがある
    文章も、とても鮮やかな本でした。

  •  高校生の頃『マス・イメージ論』に出逢い、それ以来吉本さんの本をいろいろ買いあさって読んだものだった。この本は比較的有名な著作なのだが、親鸞じたいに興味が無かったために読まずに飛ばしてしまったのだった。
     ここでも、吉本さんの批評スタイルは宮沢賢治や太宰治を論じたときのそれと変わらない。アカデミックな哲学・思想とも文学論とも異なった、詩人ならではの感覚と魂をこめたようなスタンスで論じきる。
    「親鸞は、浄土教義を全部うしなっても思想家でありうる」(P97)という。そして思想家としての親鸞は、知識の頂を極めたあとで<非知>へと向かう、と吉本さんは考える。
     この<非知>は民衆の無知や愚昧のレベルまで下りてゆくことだが、<非知>と<無知>は決定的に異なるものであって、知者は最後まで苦闘せざるをえない。これはいかにも吉本隆明ならではのテーマで、まさにこの思想を身をもって実践したのが吉本さんだった。
     晩年は口述筆記ばかりで平易な書物のみを連発していたが、その焦燥感は、ともすれば柄谷・蓮實・浅田あたりにはあざ笑われたものだった。しかし吉本さんの感受性は真摯な文学者のそれであって、宗教を単なる宗教として隔離してしまわずに本気で「思想」として対峙した行き詰まるような切迫感を示した。
     それでもこの本は、せいぜい「歎異抄」くらいしか読んだことがなくて、浄土真宗にはまったく疎い私には、ちょっとわからない部分もあった。

  • 先ほど買ってきて一気に読んだ。
    比叡山での理念論戦を抜けて下山し衆生に浄土を解いた法然。彼が抱えていた、僧には愚衆的非知を、衆生には理性的沈黙を求めるという矛盾を、親鸞は非知非俗という地点に向かうことで解消する。
    親鸞にとっては、救いの手段としての念仏と浄土ではなく、不可避な契機として生き永らえて行う念仏と結果として至る浄土でかる。さっさと死んで救われようとする時宗の連中とは違うのだ。
    非知非俗の結果として受け入れる不可避な契機たる念仏と浄土行き、ということを信ずることは、なにか目的のために積極的に絶対性を信じようとして信じ切れないような宗教とは根本的に違うのである。もう他に何も信じ得ない、もしかしたらもはや信、不信では問えないところで受け入れる、それが親鸞の説くものである。

    すべてが相対で、絶対性に対する限りない不信の世界にあって、この本はとても斬新である。いや、新鮮である。ああ、そこに至れば良いのか、という感じを受ける。納得の一冊。

  •  吉本隆明氏の訃報を朝のNHKニュースで知る。これからは、繰り返し吉本隆明氏が残した言葉を反芻して聞いていくしかない。私には、吉本隆明氏の言葉を如何に聞くかという課題が残された。親鸞は「弥陀の五劫思唯の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」と語っている(『歎異抄』)。私もまた、吉本隆明氏の言葉を、わたし一人がためのものとして読んできた。唯円が親鸞の言葉を『歎異抄』として書き残したように、私も吉本隆明氏の言葉を書き記すことにする。吉本隆明の思想の極北は、その著作『最後の親鸞』にあると思われる。この中で提出された「往相還相」の概念把握には、親鸞の思想と吉本の思想がシンクロナイズしていて感動を禁じえない。

     観念の上昇過程は、それ自体なんら知的でも思想的でもない。ただ知識が欲望する<自然>過程にしかすぎないから、ほんとうは<他者>の根源にかかわることができない。往相、方便の世界である。(『最後の親鸞』より)
     頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても最も最後の課題である。(『最後の親鸞』より)

     思想的自立という知的上昇過程(=「往相」)から、やがて「大衆の原像」を繰り込む(=「還相」)ことでその思想を深めていった吉本隆明氏の軌跡は、自力雑行(=「往相」)を捨てて、絶対他力(=「還相」)の信へと至った親鸞と見事に重なることに気付かされる。
     吉本隆明氏が、まだ存命中に、私が聞いた最後の言葉も、やはり親鸞について語られたものだった。
    『歎異抄』には親鸞の「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という有名な言葉があるが、吉本隆明氏はこの言葉を次のように聞いている。

     人間はだいたい、「善いことをしている」と自分が思っている時には、「悪いことをしている」と思うとちょうどいいのではないでしょうか。それから、「ちょっと悪いことをしてるんじゃないか」と思っている時は、「善いことをしている」と思ったほうがいいと思います。(『吉本隆明が語る親鸞』より)

  • 何回挑戦しても、挫折してしまう・・・

  • 「悪人正機」をとなえた親鸞について、思想家吉本隆明さんが解説した本。けっこうな難しさの本でした。

  • 難解で理解するのが難しかった。
    信仰とは哲学なのだな。親鸞は純粋に信仰するために、僧である立場を捨てたのだな。


  • 最後の親鸞
    和讃―親鸞和讃の特異性
    ある親鸞
    親鸞伝説
    教理上の親鸞
    永遠と現在―親鸞の語録から
    あとがき
    解説 二十一世紀へ向けた思想の砲丸 中沢新一
    (目次より)

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著者プロフィール

1924年、東京・月島生まれ。詩人、文芸批評家、思想家。東京工業大学工学部電気化学科卒業後、工場に勤務しながら詩作や評論活動をつづける。日本の戦後思想に大きな影響を与え「戦後思想界の巨人」と呼ばれる。2012年3月16日逝去。

「2020年 『吉本隆明全集21 1984-1987』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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