- Amazon.co.jp ・本 (472ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480087577
作品紹介・あらすじ
「クレオール主義」とは、なによりもまず、言語・民族・国家にたいする自明の帰属関係を解除し、それによって、自分という主体のなかに四つの方位、一日のあらゆる時間、四季、砂漠と密林と海とをひとしくよびこむこと-。混血の理念を実践し、複数の言葉を選択し、意志的な移民となることによってたちあらわれる冒険的ヴィジョンが、ここに精緻に描写される。「わたし」を世界に住まわせる新たな流儀を探りながら、思考の可能性を限りなく押し広げた、しなやかなる文化の混血主義宣言。一大センセーションを巻きおこした本編に、その後の思考の軌跡たる補遺を付した大幅増補版。
感想・レビュー・書評
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この混濁した現代において本質に囚われ思考するのはナンセンス。変化する境界線、混り合う血と言語、流れる多様な意識を柔軟に吸収し視野を開けばきっと見えてくる、新しいヴィジョンが。様々な時間や人々が交差する十字路にキスしてもう一度スタートを切りたくなる。関心事であるポストコロニアル文学をこれから読む上で、ここで示された事例や考察は至るところで意識に甦ってくるはず。土地を追われて離散したディアスポラが、身を切り裂いた傷跡から新しい言語を生み出し、新しい文学を創造し、新しい音楽を世界中に広めたという事実。ステキだ。
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[ 内容 ]
「クレオール主義」とは、なによりもまず、言語・民族・国家にたいする自明の帰属関係を解除し、それによって、自分という主体のなかに四つの方位、一日のあらゆる時間、四季、砂漠と密林と海とをひとしくよびこむこと―。
混血の理念を実践し、複数の言葉を選択し、意志的な移民となることによってたちあらわれる冒険的ヴィジョンが、ここに精緻に描写される。
「わたし」を世界に住まわせる新たな流儀を探りながら、思考の可能性を限りなく押し広げた、しなやかなる文化の混血主義宣言。
一大センセーションを巻きおこした本編に、その後の思考の軌跡たる補遺を付した大幅増補版。
[ 目次 ]
「ネイティヴ」の発明―場所論1
ワイエスの村―場所論2
サウスウェストへの憧憬―プリミティヴィズム論1
ファンタジー・ワールドの誕生―プリミティヴィズム論2
文化の交差点で―越境論
異種交配するロシア=ブラジル―混血論1
父を忘却する―混血論2
旅する理論―ヴァナキュラー論
キャリバンからカリブ海へ―逃亡奴隷論
浮遊する言葉とアイデンティティ―クレオール論1
森の言語、曙光の言語―クレオール論2
位置のエクササイズ―ポストコロニアル・フェミニズム論
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ] -
クレオールとは元々は、植民地で育った白人を意味していたが、その後はヨーロッパと現地人の混血児が使う複合言語、文化の事を指す様になった。
文化人類学者の今福さんは、西欧から疎外されるのではなく、主体的に複数の言語を選択し、意思的な移民になる事を『クレオール主義』とした。その事例として、中南米の作家や芸術活動も紹介されていて興味深いです。また文体も中南米の人々に寄り添った書き方に好感が持てます。
クレオールという概念は多元化が進む世界を読み解く意味でも面白い概念だと思います。
また今福さんご本人をブラジルアート現代展の講演前に近代美術館のオープンカフェで偶然隣合わせたのですが、パナマ帽に白いシャツで浮遊されている感じでいらっしゃたのが本を実践されている様で印象的でした -
森山大道の「新宿」を思い出す。コンパクトカメラを片手に新宿の街を歩きながら、ファインダーを覗く事もせず、思いついた場所で自動的にシャッターを切ってしまう彼の手法はあたらしかった。
場所じたいが自らに刻んできたオートマチックな記述に目を向ける、そういう視点がまずきっかけになる。
目が向けられた先はクレオールの場所、エネルギーの渦巻く場所だ。
私の教わった歴史は、「奴隷貿易で多くの黒人が船に乗せられた。植民地主義が産んだ負の遺産だ」と伝えられた
ところでストップしていた。その続きに、驚くほど躍動にみちた文化が湧き上がっていたなんて。 -
多様な文化が様々な仕方で、時に移動し交雑し離反し衝突し混淆するその実相を「虹」の隠喩で捉えること。
無論様々な文化がその独自性(?)を顕現する様を無批判に称揚し、幸福な笑顔で多様性の開花を寿ぐのみでは「グロバール資本主義に乗った土産物の見本市」(浅田彰)に過ぎない。だが、ここにはメキシコをカリブ海の島々をそしてブラジルの各地を歩き、そしてファノンやサイードらの著作を読み、映像作家の作品にふれ、また訪れた土地で耳にした音楽や声から出来した真摯で切迫した越境のエチカがある。
“いま、ヘテロなものがそのテリトリーを拡大しつつある現代世界にたいするまあたらしい認識へと、わたしたちを導いてゆくのである。”
世界を虹の光彩へと解き放つ宣揚の書物。 -
1085夜
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p.94
だが現代において、文化的「境界」を越える行為が、従来の政治・社会力学のなかで容易に融合・同化のプロセスをたどってゆくような性格のものではないことは、すでに冒頭から述べてきたとおりである。なによりも、「文化」そのものが、明確な領域と境界をそなえ、自律的で内的な一貫性を持った主体的ユニットであるとする考え方が、もはや破産しかけていることは明白だ。「われわれ」も「彼ら」も、ともにかつて考えられたような独立したホモジニアスな性格を持った主体として見なすことは、もうできない。「われわれ」のなかにはすでにいつのまにか「彼ら」が住み始め、はじめてわれわれと出会ったかに見えた「彼ら」の内部にも、すでに「われわれ」は棲息していた。そのことに盲目を装いたい首都的な、ドミナントな、支配的な科学や権力だけが、いまだに文化のボーダー・ゾーンに生起する動きを抑圧しようとしているにすぎないのだ。
p.98
旧来の「文化の純潔性」への信仰を、男性原理の支配する国家的権力構造ともども切り裂いてゆこうと身構えながらも、アンサルドゥーア(チカーナのフェミニスト作家グロリア・アンサルドゥーア)の主張は人間の文化的帰属意識をかいたいさせるどころか、それをさらに強靭なものにしようとする意志にみちあふれている。しかしそこで希求されるアイデンティティの基礎には、もはや単一の、首尾一貫性をそなえた「文化」というフィクションが入り込む余地はない。文化の果てる「辺境」にあって無為な葛藤を繰り返しているかに見えた「境界の住人」たちが、逆にいまこそ文化をブレンドして操ることのできる、全く新しい叡智と技術を持ち合わせた人間として、時代の前衛に現われでようとしているのだ。
p.101
複数の文化に架橋し、複数の言語を創造的に駆使する役割は、しかし政治的・社会的なボーダーランズに住むチカーノのような現実の境界人だけに課せられているのではない。ロサルドが、そしてアンサルドゥーアが主張するような意味において、現代社会に住むわたしたちすべては、越境者の運命を引き受けつつある。権力が、制度が、土地にいかなる文化的「境界線」を暴力的に引こうとも、もはや境界はまるでモザイクのようにわたしたちの内部に張りめぐらされている。具体的、可視的境界の存在に足をすくわれて自己を見失うよりも,私たちは見えざるボーダーの一つ一つを果敢に越境することを通じて、自らも世界を覆う「ボーダーランズ」の住人の一人であることに連帯を表明していくべきなのだ。
自己のなかを越境すること。自らの土地へイミグレーションをこころみること。そうした行為の果てに、わたしたちは固定的で同質的な「場所」や「文化」のロジックから自由になった。ヘテロなものが共棲する一つの新しい認識の風景を手に入れることができるのである。
p.133
西欧言語において、土地は女性であるとみなされていた。だが女性である土地は、それ自身のなかにみずからを根拠づけるものを持たなかった。土地は発見され、名づけられることによってはじめて正統性を獲得したが、その名は、植民地においては例外なく、発見者である男によって与えられたものだった。しかも多くの場合、発見者たちは自分の名をそのまま女性形に変えて土地に付与することによって、彼がその土地の父親であることを明確に土地に刻み込んだ。アメリゴ・ヴェスプッチによって大陸として発見され名づけられることになった「アメリカ」(いうまでもなく「アメリカ大陸」全体をさす)がそうした経緯を示す象徴的なケースといえるだろう。 -
これ人よると思うけど、おもしろいですよ。なんか表現力があって、どっかにぶっとんで考えさせられました。
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