見るということ (ちくま学芸文庫)

  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480089304

作品紹介・あらすじ

すべての芸術は生の文脈とのかかわりを持つ-写真が発明されて以来、人間はさらに多くの膨大なイメージに取り囲まれてきた。そこでは、「見る」という行為が人間にとって不可避な事態として浮かび上がってくる。それは自らの生の経験の蓄積を、歴史・社会・文化と構造的に対峙させることでもあった。ザンダー、ベーコン、マグリットらの作品を通して「見るということ」の地平から、人間の本性と文明にまで肉迫する。強い影響力を持つ新たな美術批評の形を模索していった著者による、写真を学ぶ人、美術を語る人、必携の美術評論集。

感想・レビュー・書評

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  • 野良犬たちの視線を通して見えてくる人間『ストレイ 犬が見た世界』|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
    https://www.newsweekjapan.jp/ooba/2022/03/-202017-2014.php

    筑摩書房 見るということ / ジョン・バージャー 著, 飯沢 耕太郎 著, 笠原 美智子 著
    https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480089304/

  • 前半は哲学的な話で興味深かったが、後半は美術的な話で、作品のイメージなしに読み進めるのが困難だった。自分の教養のなさが大きいが。

    特に、動物関連の話が興味深かった。

    ・人間が動物を見るように動物も人間を見ていると人間は錯覚している。そこには埋められない隔たりがあり、それは言葉によるコミュニケーションが不可能なこと。
    ・古来より動物は「たとえ」となるほど人間と深い関わりがあったが、現代では周縁化されている。動物園がその最たるもので、本物ではあるが本質の動物ではない
    ・ペットは飼い主の人生観が生み出した産物

  • 写真は記憶とは違う。写真はうわべの姿。私たちはそこに真実を求めようとするが、そのこと自体が本来の意味から遠ざかる。写真それ自体は何も語らない。写真は一瞬の外観を留めるに過ぎない。しかし一瞬を留めることの衝撃。フイルムが10年もつとするとフイルムの保存期間と露光時間の対比は約200億:1。記憶はある贖罪の行為を暗示する。光景は一瞬の期待を永遠の現在に変える。記憶の必然性は失われる。記憶がなくなると意味の連続性も失われる。カメラは皮肉な神。より良い未来を導くための新しい写真の使い方とは。

  • 以前、写真展で高値で取引される写真を観た。
    ーかつて写真は自分が見た事実の一瞬を切り取って、大衆に伝える媒体としての存在だったように思う。決して動くことのない写真から、より多くの情報を取り込もうと注意深く隅々まで観察し、考察したことだろう。時は流れ、ビデオの登場で映像がそれに取って代わった。動きのある映像は人々に写真より強い印象を与え、内容を伝えることが容易になったーこれが、ぼくの写真に対するイメージだった。写真展の作品は、アートとしてだったり、当時の時代を切り取ったものなど、それぞれ意図を持って制作され、感覚でたまたま撮られたようなものはなかった。では、その作為的なモノを見るとはどういうことなのか。見ることで作者の、あるいは作品のなにを感じればよいのか。技術革新により、様々な媒体から表面的な情報を読み取ることは簡単なことになった。たしかに情報量は増えたが、前の世代の人ができたであろう深い洞察はできているのだろうか。おそらく、できてはいない。つまり、大事な本質を読み取れてないだろう。ぼくはなにか注意を引くものに出会った時、単に目立っていたから、好きなモノだったから。美術館においては、鮮やか、好きな色、構成などなど、まさに上辺しか見ておらず、次の瞬間には忘れている。実際は、好みはもちろん、影響を受けたもの、共感できるモノ、過去の体験など様々な要因や背景に基づいて引き起こされた感覚なのだと少し考えれば気づく。見ることによって、対象の深い部分まで「なぜ」の思考を深めることができる。そうすれば、見える幅が拡がる。あるいは見える世界の数が増える。さらに、見ることによって、ぼくは自らの思考すら見ているように思う。様々な角度から見る。単なる芸術論の押し付けでなかった分、面白かったが、審美眼への道は果てしなく遠い。

  • バージャーによる、美術論文集。一番最後に記されている、「野原」が印象的だ。つまり、我々は経験や時間についてあれこれ語りうる。例えば、「私はあのときあの鳥を見て、自分の過去を思い出し、思わずじんわりしてしまった」だとか、「あの日、私は、一時間ほど公園で過ごしてから、映画を観に行った」だとか、ここには経験と時間が語られているわけだけれども、これというのは、実は後から再構築されたものでしかない。つまり、「そのときの時間」の外部に位置しているものだ。そのときの時間ではそれを遡及すれば何があるのだろう。それは空間的視覚的光景ではないか?そこには順序だけがある。Aを視て、Bを視て、Cを視て、といった順番だけである。これが、本性的な時間なのではないのだろうか?そういう疑義の提起である。

    ちなみにここで時計の時間なんていうものは入り込む余地がない。それは後から時計を見てそうだったと思うだけであるからである。それは外部的な時間だ。仮にその動作の中で、時計の時間を確認したからといって、「時計を視た」「それから空を視た」これが、本性的な時間なのである。じゃあ、思考はどうだろう。つまり、純粋な思考における時間。それは明らかに順番は有る。方向性もある。ここで、方向性を付すならば、そこには「死」が必要となるだろう。終わりがないなら方向など不要だからである。だが、実は、ここに時間など流れているのだろうか?実はここには時間などないのかもしれない。有る意味での永遠がある。終焉があるだけだ。死ぬときに途切れるだけでありそこには時間などないのではないか?我々が時計で測っている時間というのは、時間というよりは、むしろ、「確認作業」のようなものでしかないはずだ。となれば、やはり、この視覚性の順序こそが時間なのか?ただ、この順序にもやはり「死」の介在が必要なのだろうけれども。しかし、ここには、視覚の絶対的な優位性が入り込んでいる。他の、感覚はどうしたものか?これは、つまるところ、思考に時間を設けるか否か、あるいは、音の順番や、肌触りの順番に、それを与えるか否かの問題なのだろう。そういう意味ではバージャーは非常に科学的史観が強いのである。よく勘違いされるけれど、マルクスは科学的なのだ。


    ちなみに、ラファエル「芸術の目的は実在世界を解明すること=価値の世界の確立」と、マルクーゼ「ありのままの世界の偉大なる拒否=芸術」と、そして、バージャーは「現実と希望の間の媒介=芸術」であると述べる。しかし、これはいくつもの答えがあるのだろう。世界を拒否することによってつくられる芸術もあれば、芸術によってより本性的な実在世界が示されることもあるだろうし、理想と、現実とを芸術によって繋ぎ止めることも可能でこれは何が間違っているだとかそういうことはない。ただ、バージャーはしきりに「不可能性」という言葉を用いる。これはマルクス主義への批判なのだろうか?あれは非常に不可能的だからである。マルクス主義は理想こそが不可能であるということを身をもって体現した思想であったと思われる。とはいえ、バージャーは諦めていないのだろうけれども。

    最後に引用されていたローリーの台詞を遺しておこう。
    「私がもっとも大事にしている三つのことは、一度も外国に行かず、一度も電話を引かず、一度も車を持たなかったこと」

  • 「見ること」に焦点を置いたバージャーの美術評論集。
    正直なところ興味の対象が異なるからかよう分からんところが多いし、内容の真偽を議論するような類の本でもない。多分、ベンヤミンの批評方法に大きく影響された上で、彼のような視座を以て評論をしようとしているのだけども、それが上手くいってないなぁというのが正直な感想です。(特に動物園の論考は酷いんじゃないか)


    ただ歴史を踏まえた上での論評や、見ることと記憶の関係の問題なんかが出てくる辺りは大変興味深かったです。


    原文だと綺麗な文章なのかしら。

  • 『だまされない議論力』吉岡友治 の巻末の読書案内に出ていたもの。そのうち読む予定。-「見ろとはどういう社会的意味があるのか。権威主義・神秘主義と無関係にヴィジュアルを志向するお手本」

  • 写真や絵画を通して、「見る/観る」という行為に照準を当てた評論。

  • 絵画論が写真論より洞察に富む。

  • 「イメージ」を読んだジョン・バージャーによる一冊。見るということに絡んだ様々な主題を扱っていた「イメージ」に対して、見るということから考えた美術評論集になっている。美術史・美術論にはそれほど詳しくない私だが、このバージャーの評論が影響大だったことは何となく想像がつく。逆に言えば、それくらいの理解しかできなかったということだ。図版も多く収録されているが、やはり作品を目の当たりにできるインターネット検索に大いにお世話になりました。

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著者プロフィール

1926年、ロンドン生まれ。小説家・評論家・詩人。著作には、小説、詩、戯曲・シナリオ、美術や視覚メディアに関する評論、社会学的な研究としてのノンフィクションなどがある。70年代半ばにフランス・アルプスの小村ヴァレー・デュ・ジッフルに移り住み、以来そこで農業をしながら多彩な表現活動を続けている。

「2016年 『果報者ササル ある田舎医者の物語』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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