- Amazon.co.jp ・本 (560ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480089311
作品紹介・あらすじ
ソ連・東欧社会主義解体ののち、ナショナリズムの暴走や民族紛争が多発する今日のポストモダン的状況の中で、「主体」は空疎化の一途をたどっている。この袋小路は、打破できるのか?「できる。哲学によって」というのが著者ジジェクの主張である。ラカンの精神分析理論を駆使し、映画やオペラを援用しつつ、カントからヘーゲルまでドイツ観念論に対峙することで、主体の「空虚」を生き抜く道筋を提示する。時代を逆撫でする「スロヴェニアの知の巨人」が、「否定的なもののもとに滞留すること」(ヘーゲル)を引き受けることに現代人の生存可能性を見出す渾身の大著。
感想・レビュー・書評
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人は本当の自己とは何かを問い、それに到達したいと願う。だが問われる自己は問う自己を逃れ、決してそれは叶わない。常識的にはそう考えられている。だが、ジジェクはこれを反転させる。自己とは到達できない限りにおいて自己であり得る。疑い得ない自己に到達した途端に自己は雲散霧消する。だから「私は、ただ私が疑う限りにおいてのみ存在する」と。主体はその不可能性を可能性の条件とするパラドキシカルな存在である。このことを『「カントを読むヘーゲル」を読むラカン』を読みつつ、ジジェクが語る。
同じことは真理にも当て嵌まる。カントの超越論的対象は人間が世界を認識するために世界を限界づけるものとして措定される。だが限界の向こうにそれ自体で存在する実在があるわけではない。実在は対象の残余として事後的に見出される。対象を追い求めて繰り返す否定の相関物として、対象の彼方に仮構される蜃気楼でしかない。真理の探求もイデオロギー批判も未完を運命づけられた永久運動である他ない。
これは強迫神経症そのものだ。症状によって自己の確証を強いられた患者は症状に執着するが、実はその治癒を恐れている。イデオロギー批判者もイデオロギーの廃絶を目指しながら、心の底ではそれを望んでいない。あらゆるものにイデオロギー臭を嗅ぎつけ、世界をポジティブに語ることを自らに禁じる。フランクフルト学派の批判理論(少なくともアドルノなどの第一世代のそれ)も大同小異だが、それでは社会も政治も立ち行かない。
ここがカントとヘーゲルの分岐点だ。通俗的な理解ではヘーゲル弁証法は自己を否定して自己に回帰する。他者に仮託した視線が自己の死を見届ける閉じたナルシシズムだ。これではカントからの後退だ。だが真の否定は微妙だが決定的に違う。全き空虚に身を晒すことで自己は死ぬ。しかし、であればこそ有限な自己は有限なまま無限に接する。否定を通じた肯定に違いないが、そこに予定調和的な筋書きはない。ジジェクはここにヘーゲルの革新性をみる。カントを批判することでカントの批判をより徹底させたのだと。とすれば止揚ではなく否定即肯定と言った西田哲学の絶対矛盾的自己同一と殆ど違わない。ハイデガーを批判するジジェクが西田を読めば静寂主義と批判するだろう。マニアックには幾らでも違いはあるだろう。だが大筋は同じだ。
さて我々はジジェクに倣って空虚に向き合えるだろうか。それは空虚を何かで埋めるのでも、空虚に固執するのでもない。空虚を受け入れつつ空虚からも自由になる、それが何にも囚われない真の自由というものだ。その上でイデオロギーからもイデオロギー批判からも自由な目で現実を見据え、真摯に未来を構想すればよい。ジジェクはナショナリズムに抗し、コミュニズムやエコロジーを提唱する。それも結構だ。だがジジェクの哲学からそれに異を唱えることもまた可能な筈だ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
斜め読みしつつ、ラカン用語が出てくる所を注意深く読んだ。
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ジジェクの基本的なコンセプトが書かれている。ジジェクの入門書。
読み込めば、ヘーゲルのことも、ラカンのことも、だんだん理解が深まる。それぞれ別に知識を要するので、大変かも。 -
決して読みやすくはない、けど密度が高くて面白い。頑張ってラカンの基礎を勉強します。