ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫 ノ 3-1)

著者 :
  • 筑摩書房
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感想 : 63
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  • Amazon.co.jp ・本 (382ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480089816

作品紹介・あらすじ

二〇世紀哲学の方向性を決定づけたウィトゲンシュタイン前期の書『論理哲学論考』。この衝撃的著作を、哲学界きっての柔軟な語り口で知られる著者が分かりやすく読み解き、独自の解釈を踏まえて再構築する。ここでは単なる歴史的価値を超えて、『論考』の生き生きとした声を聴くことができるだろう。本書は、こう締めくくられる-「語りきれぬことは語り続けねばならない」。比類なき傑作読本にして、たまらなくスリリングな快著。ウィトゲンシュタイン思想全体の流れの中で『論考』を再評価する新原稿、「『哲学探究』から見た『論理哲学論考』」を付した増補決定版。

感想・レビュー・書評

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  • 「論理哲学論考」の魔法とその限界について書いている。
    「すべては関数で表せられる」、すなわち、全てはカテゴリだ、というフレーゲやラッセルに対して、「いやいや、すべては操作されたものでしょう」というウィトゲンシュタイン。CGが現実の映し絵ではなく、単なる数学的操作によって偶然現実の似姿になったようなものなのだろうか(違う)。
    ラッセルのパラドクスについては、いまだによくわからないが、例えば「ロックはロックじゃない」みたいな命題について、「『ロックはロックじゃない』はロックじゃない」といえるか、という比喩を考えた。ウィトゲンシュタインにいわせれば、後者については、「ロックはロックじゃない」というのはアティチュードの問題で、「プレスリー」とか「ビートルズ」とかとは定義域が異なる、というのだろうか。
    すべての論理学、というか理系の学問は、究極的には無限を扱えるか、ということになっていくのではないだろうか。1+1=2なのに、♾️+♾️=♾️となる矛盾について、ウィトゲンシュタインなら「それはルールが違うだけだ」と答えるのかもしれない。
    コンピュータは有限な数字しか扱えない。ある種ウィトゲンシュタインはコンピュータ時代の哲学者だったのかもしれない。

  • 論理哲学論考論考を読んで、そのすぐは理解度が30%くらいで。その後これ読んで、理解度が60%位にはなったと思う。
    論考読む前にこっち読んどきゃよかったなぁ…としみじみ。

  • これは解説書ではない。少なくとも「私は『論考』をウィトゲンシュタインの手から奪い取りたいのである」なんて挑発的な言葉を投げかけるような解説書なんてこれまで見たことがない。一人の論理学者が百年前の本と向き合い、考えに考え抜き、自らの言葉で語ろうとするその文章は感情が零れ出し、時には情熱的でさえある。『論考』の副読本としてもこの上なく優れているのだけど、それ以上に語りうるものを語ることで語りきれぬものを何とか指し示そうとする、本書から語られず示されている「本を読む姿勢」というものに何より胸を打たれてしまった。

  • 読んでる時と、読んだ直後はなるほどなあ、と思ってわかったような気分になるのだが、数分後には、何がわかったのか分からない状態になり1時間後には何がわからなかったのかもわからないくらいわからない状態になる。でもこの本はこの本だけでとても面白いし読んでいるのが楽しい。わかるわからないの問題ではないのだ。

  • 論理哲学論考は突然言い切りで断言するので、素人にはわけがわからない。その行間を埋める良書。かなり自信満々な文章なのでちょっと当初はイラッとするけど、それを超えれば実に丁寧に解説されていて感謝感謝です。

  • 『ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」を読む』を読んだわけなので、これは野矢を挟んだ読解となっている、という意味において、果たしてどれだけヴィトゲンシュタインの哲学に近づけているのか?というのが本著における野矢が抱えた問題であったろうと思われる、だが、野矢ははかなりの勝算を持ってそこに挑んでいる。個人的にはこの勝負は野矢の勝利として終わっているのではないか?と思われる。本著のいいところは、読者を軽んじていないところである。一足飛びに結果や自分の考えを伝えるというよりは、一つ一つつぶさに自分の考えを伝えている、つまり、野矢における論理哲学論考を読ませられ、考えさせられる、という経験を読者が味わえる、という構図になっているのである。また、所々で「具体例」が示されている。哲学を理解できない場合の、第一の要因として個人的に考えられるのは、「自分の言葉に置き換えない」「具体例を考えない」からだろう、と思われる。ただ、本著ではその部分まで野矢が行ってくれているわけである。ということで、「哲学の手法」を学ぶ、という意味で本著は使えるのではないか?

    内容面について言うと、本著を読了する頃には、ヴィトゲンシュタインが、彼の哲学が「間違っている」と結論付けられもなお今日でも広く読まれている、理由が明確に浮き彫りになる。彼は、「日常を明らかにしようとしていた」のである。ソシュールから始まる言語学のようなものや、あるいは、チョムスキーの生成文法などでもいいけれど、一体そこから何が見えてくるのか?個人的には意味不明だ。確かに、その分析によって辿られるものがあるには違いないが、しかし、彼らは恐らく「言語構造の起源」にたどり着き、それを「像」として何かに写すことで、普遍性を獲得させて、終わるのだろうけれど、それが何になるのか?がいまいちつかめない、だから、魅力を感じない。しかし、ヴィトゲンシュタインは言語構造というよりは、「日常言語」を基にして、我々が日常直面しているこの世界を写し取ろうとしたわけである。前者との違いは、前者は「言語を世界から分離して、それを分析し、それからまた都合よく世界に戻そうとしている」のに対して、後者は「日常と直面したままで、言語を分析し、日常の世界を描き出そうとしている」といった具合で、だから、ヴィトゲンシュタインが独我論にたどり着くのも明らかだと思われてならない。この目で見る、世界を映し出すわけであるから、それはどう考えても、ある程度、独我論にならざるをえない。少なくとも、この私が見ている世界、この私にとっての日常、そして、日常言語で描ける世界、それ、というものは、必ず「独我」の路を辿ることになり、その限界を超えようとするならやはりそれは語りえぬものとなるのではないだろうか?だが、語りえぬから、語りえぬとして終わってよいものなのか?いや、ヴィトゲンシュタインも論考の後にまた語っている。永井だって、語りえぬ、と認めながらも、語っている。つまり、語りえぬからこと語り続けるほかはない。それが、語りえぬという境地からすれば意味のないことに思われても、語りえぬということに気づいてしまった以上は語らずにはいられない、ある種の、「操作」のようなものなのだろう。ちなみに論考における最大の誤りとして示されているのは、「操作=論理」を強いアプリオリとしたところとされている。確かに、操作=論理も、主体によっては必ずしも、同じ用い方がされるとは限らない。なので、野矢は、本能のような身体が含まれねばならないと考えているが、その領域に行ってしまうと、脳神経だとかそういう分野へも進出しなければならないように個人的には感じられてしまう。後は、論考の誤りとして示されていたのは、「独我論」「数を名に含めない(数は操作の反復によってのみ示される)」「論理空間においては、無限の操作は起こりえない」といったあたりかな。まず、操作が反復されるのだから、無限の操作は起こりえるはずだし、ヴィトゲンシュタインは相互独立に拘っていたが、相互独立に拘る必要はない=一メートルと三メートルが両立不可でもよい。ただ、このあたりは論考のエッセンス自体はそれほど揺るがさない。操作に身体反応が加わる部分が論考の根本部分を揺るがしうるのであるが、だが、論考全てが誤りとなるわけではなし、なにより、ヴィトゲンシュタインの、姿勢みたいなのが、いいよね。

  • 『論考』の一つの解釈を、背景を踏まえつつ時には批判的な立場から丁寧に解説している素晴らしい副読本で、『論考』を読むにあたり大いに助けとなる。『論考』の解説書というより、むしろ『論考』を題材に野矢茂樹氏の哲学を述べたものだと捉える方が相応しいように感じる。ところどころ筆者の立場に不満がある(「対象」に「個体」以外の要素を含めていることなど)が、そのような批判的な精神で本書を読み進めたことにより、かえって『論考』の理解を深められたように思う。

  • 面白い。言い換えとか。近々再読しよう。

  • [第9刷]2014年10月30日
    著者訳の岩波文庫「論理哲学論考」を読む前に読んでみた。その判断正解で、哲学素人にとって論考本体は解説なしでは難解だと思う。

  • 途中まではよかった。そこから時間を空けたのがまずかった。よく分からなくなった。

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著者プロフィール

1954年(昭和29年)東京都に生まれる。85年東京大学大学院博士課程修了。東京大学大学院教授を経て、現在、立正大学文学部教授。専攻は哲学。著書に、『論理学』(東京大学出版会)、『心と他者』(勁草書房/中公文庫)、『哲学の謎』『無限論の教室』(講談社現代新書)、『新版論理トレーニング』『論理トレーニング101題』『他者の声 実在の声』(産業図書)、『哲学・航海日誌』(春秋社/中公文庫、全二巻)、『はじめて考えるときのように』(PHP文庫)、『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(哲学書房/ちくま学芸文庫)、『同一性・変化・時間』(哲学書房)、『ここにないもの――新哲学対話』(大和書房/中公文庫)、『入門!論理学』(中公新書)、『子どもの難問――哲学者の先生、教えてください!』(中央公論新社、編著)、『大森荘蔵――哲学の見本』(講談社学術文庫)、『語りえぬものを語る』『哲学な日々』『心という難問――空間・身体・意味』(講談社)などがある。訳書にウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(岩波文庫)、A・アンブローズ『ウィトゲンシュタインの講義』(講談社学術文庫)など。

「2018年 『増補版 大人のための国語ゼミ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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